第4章月に濡れて(6)
結局、サミュエルのエンバーミングには、着付けも含めて6時間を要した。
損傷が激しかったこともあるが、マリエルが、普通のエンバーマーはそこまでやらないような手の込んだ処置をしたためだ。
確かに、こんなマイペースな仕事ぶりでは、採算が取れないとルイが嘆きそうだった。
マリエルにとっては、仕事によって得られる利益より、死者が満足できるような出来ばえが最優先事項なのだ。
「足の感覚がない…入院生活のおかげで筋力が落ちたのかしら…久しぶりのエンバーミングがこんな大仕事だったなんて、やっぱりきつかったわ」
サミュエルを綺麗に整えた『ゲストルーム』に休ませ、作業所から母屋に移って、やっと休める段になると、ケイトは、それまでは緊張の為に忘れていた疲労を急に思い出して、居間の大きなソファにぐったりと沈み込んだ。
「今食事の準備をしていますから、取り敢えずこれでもつまんで待っていてください」
マリエルは、ケイト専用のマグカップに入れたコーヒーとクッキーの入った小さな金色のトレーをテーブルに置いてくれた。
「マリエルは、全然平気?」
信じがたいものを見るかのごとく、マリエルの相変わらずしゃんと背筋を伸ばした、生気にあふれた姿をケイトは見上げた。
「たぶん、さっきの仕事の名残りで、まだ気分が昂揚しているせいだと思います。後でどっと疲れが出てくるのかもしれませんが」
「マリエルは今日、とてもいい仕事をしたものね…あの子、あんなに綺麗になって、きっと喜んでいると思うわよ」
「そう言ってもらえると、私も嬉しいです」
照れたように答えると、マリエルはふといぶかしげな顔になって、ケイトに問いかけた。 「どうしたんですか、妙にうかない顔をしていますね。何か気にかかることでもあるんですか? 仕事については、あなたも病み上がりとは思えないくらいにとてもよく働いて、私は満足していますよ。他に何か…?」
ケイトは苦笑しながらかぶりを振った。
「疲れているだけよ」
マリエルは何か引っかかったように、ケイトがぼんやりとマグカップを口許に運ぶ様をじっと見ていたが、その時、キッチンからオーブンの仕上がりを知らせる音が聞こえたので、そちらに向かおうとした。が、途中で足をとめた。
「ケイト、よかったら、今夜はここに泊まっていきなさい。その様子では、車を運転して帰るのは辛いでしょう」
気遣わしげに言うマリエルの顔をケイトはしげしげと眺め、にこっと笑って返した。
「ありがとう」
マリエルの背中がキッチンの中に消えると、ケイトは小さく嘆息した。親戚の子供が家に泊まっていくのと同じ感覚でマリエルは考えているようだ。
(あたしって、そんなに魅力ないかなぁ…)
小さく呟くと、ケイトはまた溜め息をついた。
サミュエルのエンバーミングが終了しても、彼女の胸の中で妖しくざわめく感情は一向におさまる気配はなかった。
「あっ」
ケイトが以前も泊まったことのある、その部屋の窓を開けると、彼女は小さく叫んだ。
「すごい満月」
中庭を見下ろすようによく晴れた空で冴え返った輝きを放っている月に、ケイトはうっとりと見惚れた。
都会ではめったに夜空を見上げることなどないから気がつかなかったのかもしれない。それとも、ここが他に灯りらしいもののない郊外だからだろうか。月の光がこんなにも明るく感じられるなんて、驚きだ。
(マリエルは子供時代をここで過ごしたのよね。あのマリエルによく似た不思議なお母さんと一緒に、夜、家を脱け出して遊んだ。この月の光の下で、あの人は育った。だから、あんなふうな浮世ばなれした、神秘的で、超然とした感じの人になったのかしら)
ケイトの思考は、忘れようとしても忘れられないマリエルの面影に向かっていく。
この調子だと、今夜は眠れないかもしれない。
以前から、マリエルのことは何て不思議な、何てすごい人なのだろうと惹かれて、その姿をうっとりと夢想していたものだけれど、こんなふうに、どうしても胸に焼きついた姿が離れない、苦しいくらいの切なさを伴って思い出されることはなかった。
サンドラの一件があって以来、こんなおかしな感情に取り付かれたような気がする。
ケイトは頭上の月に目をあてたまま、大きく息を吸いこんだ。
(そうだわ。確か、サンドラさんのエンバーミングをした夜も、こんなふうなすごい月夜だった。あたしは、この部屋から窓の外を眺めていて…)
視線を動かし、ケイトは目の前にある作業所を眺めた。
灯りの消えたゲストルームの大きな窓も見える。
あそこに、今はサンドラでなくサミュエルが眠っている。
マリエルが瑞々しい美しさを蘇らせた、死せる少年。生きていた時よりも更に美しく、鮮やかな生気さえ覚えさせる、見事な擬似生命体。
ケイトはふいに胸苦しさを覚えたかのように、肩を大きく揺らせて息をした。
「でも、あなたは死んでいるのよ…? マリエルはそのことがまるで分かっていないみたいだった…生きた人を相手にしているみたいに、あなたが好きかも知れない曲を流して、乱暴にして痛い思いをさせることが嫌みたいに優しく触れて…他人に対して、あんなふうにそっと気遣いにあふれた触れ方をする人って、見たことがない…」
己の口調が意外に険がこもって響くことに、ケイトはびっくりして口をつぐんだ。
(ああ、あたしって、一体、どうしちゃったのかしら…? これじゃあ、まるで叔父さんに対して覚えた嫉妬と同じよ)
嫉妬。ケイトは戦慄いた。
叔父も、サンドラも、そして、あのゲストルームに横たわるサミュエルも、皆、死んだ人々だ。
ケイトは死者に対して嫉妬している。
ケイトはこのまま月明かりに照らし出された中庭と作業所を見ていることが恐くなったかのように、とっさに窓を閉じ、カーテンを引いた。
(マリエル…)
しかし、そこから離れるわけではなく、彼女はじっと窓の前に立ち尽くしていた。
ケイトの黒い目は、恐ろしいものと直面したかのように大きく見開かれ、不安げに揺れ動いていた。
あの夜。
サンドラがいた、あの月の美しい夜、マリエルは1人、作業所を訪れていた。
ケイトは、その時は深く考えもせず、ただ遺体の様子を見にいったか何かし残した仕事を片付けに行ったのだろうくらいに思って、眠ってしまった。
しかし、その翌日、サンドラをマリエルと一緒に見送った時に、ふいに説明しがたい不安と疑念がつきあげてきたのだ。
(マリエル、あなたはあの夜、一体あそこで、サンドラさんの傍で何をしていたの?)
まさか。
胸の奥底から湧き上がってきた、嫌な予感を笑い飛ばそうとしたが、ケイトには否定できなかった。ここで一緒に仕事をするようになってそろそろ2ヶ月、マリエルに対する理解を深めていくにつれ、それはありえそうな話に思われた。
そう、マリエルは死者に恋をするのだ。
ケイトは寒気を覚えたかのように、両腕で我が身をかき抱いた。
それは、そんな突拍子もない思い付きに対する嫌悪感だったのか、マリエルに対して疑いの目を向けてしまう自分に対する怖気だったのか。
できれば忘れたいとばかりに、ケイトは激しく頭を振った。
しかし、忘れられなかった。
ケイトはパジャマの上にマリエルから借りた男物のガウンを羽織ると再び窓のところに戻って、カーテンを開いた。そして、そのまま息を潜めて待ちつづけた。
それは、長い長い、永遠に続くかと思われるほど深い夜だった。
季節はもう春に移っており、夜気はひんやりと冷たいものの、サンドラのいたあの夜よりは随分と暖かだ。
見下ろした所にある芝生の色も、今は新しい緑色をしている。
一体、どのくらい待ったのか、ケイトにはしまいには分からなくなっていた。
心身ともにひどく疲れていたはずだったが、ただ当てもなく待ちつづけながら、ケイトは眠気など全く覚えなかった。それどころか、緊張のあまり頭の中はひどく冴えていて、ひたすら澄ませていた耳も、じっと凝らしていた目も、どんな小さな変化もすぐに察知できそうなくらい研ぎ澄まされていた。
だから、マリエルの部屋の扉がごく低い音をたてて開かれる気配もすぐに分かった。
ケイトは思わず後ろを振り返り、扉の方を見守った。
マリエルの微かな足音が、ケイトの部屋の前で一瞬とまり、それから階段を下へと降りていく。
ケイトは再び窓の外に注意を戻した。
すると、やはり中庭に面したガラス戸が開き、ゆったりとしたガウン姿のマリエルが現れた。
彼はふと頭を傾けて頭上に輝く月を見上げた後、まっすぐに作業所へと向かった。
マリエルの白い亡霊じみた姿が扉の向こうに吸いこまれていったが、以前のあの時と同じく、やはり作業所の灯りはつかなかった。
(マリエル、マリエル…一体、あなたはそこで何をしているの?)
マリエルが作業所に入った後もしばし凍りついたように窓の前に佇んでいた、ケイトの肩が大きく上下した。彼女の顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
(ああ、そうなんだ…こんなに苦しいのは…どうしてだろうって思ってた。今分かった、あたし…あなたのことが好きなんだ…)
恋をしているのだ。
ケイトは弾き飛ばされたように窓から離れた。
部屋の扉を開け放ち、階段を走り降りると、ケイトはマリエルの後を追って中庭に飛び出した。
月の光がその青ざめた顔を照らし出す。彼女はふらふらと作業所に近づいていった。
(マリエル)
作業所の扉の前で、ケイトは一瞬足をとめた。
中に入るのかい? 扉が、そう囁きかけてきたような気がした。
ケイトはふと躊躇ったが、脳裏によみがえったマリエルの青い目、ここまで追いつけるかと試すかのように冷たく輝いている瞳に、迷いを払いのけた。
ケイトは、目の前で固く閉ざされている扉に震える手で触れた。体ごと押しながら、その内にいる者に心の中で狂おしく呼びかけた。
マリエル、マリエル、あたしを中に入れて。あなたの見ている世界を、あたしにも垣間見させて。
突然、打たれたようになって、ケイトはそこから飛びのいた。彼女は汗びっしょりになっていた。
いつか見たあの夢と何もかもが同じで、あまりの緊張と不安に目眩がするほどだった。
しばらくケイトはそこで閉ざされた扉を凝然と見ていたのだが、夢と違ってそれが独りでに開くことはなかった。
ケイトは頭を巡らせ、ゲストルームの窓がある方を見やった。そして、そのまま、自分の意思ではない別の力に引き寄せられるかのような、おぼつかなげな足取りでゆっくりと近づいていった。
ゲストルームからは、夢の中で見たように金色がかった光が漏れてくることも、古いジャズが流れてくることもなかった。
(でも、マリエル、あなたはそこにいるのね?)
ケイトはがくがくと震えだす体を叱り飛ばすようにして更に近づくと、力の入らない手で窓枠にそっと捕まった。
(あなたの秘密を、あたしに見せて)
ゆっくりと顔を近づけ、ケイトは窓の中をおずおずと覗き込んだ。
ケイトの頭ごしに、はるか空から降り注ぐ冷たい月の光が部屋の中に差していた。
最初は何も見えなかったのが、次第にものの形が分かるようになり、そして、ついにケイトの目は探し求めていたものを捕らえた。
はっと、ケイトの唇が息を吸いこんだ。
そして、それきり呼吸をすることもしばし忘れて、呪縛され、魂を飛ばして、ケイトは部屋の中の光景に見入っていた。
望みどおり、ケイトはマリエルの秘密を垣間見たのだ。
月明かりの下でひっそりと交わされる、それは死者と生者の間のこの世のものならぬ恋だった。
そう、マリエルの恋人は死者なのだ。
ケイトはゆっくりとそこから顔を背けて、天空高く相変わらず何事もなかったかのように輝く、冷たい月を見た。
いつだって傍にいて、手を伸ばせば触れることもできるのに、果てしなく遠く手の届かないものに感じられる。マリエルは、あの月にどこか似てはいまいか。
ケイトにはマリエルを振り向かせることはできない。
マリエルの目はこの世ではない別の世界を見ており、その指先が求めるように触れ、腕が愛しげに抱きしめるのも、生きた人間ではありえないからだ。
ケイトはこれ以上立ってはいられなくなり、その場に崩れるように坐りこんだ。
そのまま、ケイトは尚も月を見ていた。
やがて、月の形は揺らぎ、ぼんやりとかすんで見えなくなった。銀色のきらきらとした輝きだけになった。
そうして、ケイトは自分が声もなく泣いていることに気がついた。