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この世の果て  作者: 葉月香
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第4章月に濡れて(5)

「1週間ですよ、あなた。1日くらいは大目に見てあげてもいいなんて、私も最初は思っていましたが、それが、何の連絡もなく1週間も無断欠勤をするなんて、非常識すぎる。事務所から家に電話をしても一度も出なかったというじゃないですか。一体、どこで何をしていたんです? いくら学生のアルバイトだからって、そんな無責任なことをしてもらっては困ります。これだから、私は助手などを持つのは嫌だったんです。あてにならない他人の好き勝手し放題に振りまわされるなんて…ええ、私は今、心底後悔していますよ。あなたなど、雇うのではなかった」

 ケイトの無断欠勤を非常識だとマリエルが眉を吊り上げて責めているのが何だか不思議で、ケイトは反省よりもそっちの方が気になってしまった。

 マリエル、あなた、常識が何か知っているの?

「何とか言いなさい、ケイト。それとも、本当にクビになりたいんですか?」

 マリエルは怒っても綺麗ねと、ついぼうっとしていたケイトも、これを聞いてさすがに慌てた。

「ご、ごめんなさい。3日前にルイさんにも1度連絡を入れたんだけど、ええっと、先週の月曜の夜、すごい高熱を出しちゃったの。あたし、1人暮しでどうにもならないから、お隣のスミスさんに電話をしたのよ。スミスさんはすぐに駆けつけてくれたけれど、とにかく熱が高くて心配だからって、病院に運ばれたの。結局風邪だったみたいだけれど…ただ熱がすごくて…それでそのまま入院ってことになって…あたしは熱のせいで意識が朦朧としてて、よく覚えてないんだけれどね。脳炎の疑いを持たれて、それから4日間安静だった。もっと早くに事務所に連絡すればよかったんだけれど、最初はとてもそんな状態じゃなかったし、それに、事務所の電話番号を控えたものもみんな家に置いてきちゃったから…スミスさんには一応、もし事務所からの電話があったら説明しておいてとは頼んでいたんけれど、うまく連絡がつかなかったみたいね。ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけれど、結果的にこんなに迷惑をかけてしまって…」

 しょんぼりと頭をうなだれるケイトを、マリエルはしばらく腕を組んだまま疑わしげに睨みつけていた。

 ケイトが不安そうにマリエルの様子を窺うと、彼はふいに厳しい表情を和らげた。

「私は、あなたのことが心配だったんです」

 マリエルは率直に言った。

「あなたが休んだ前日のことを覚えていますか? あなたの様子は、どこか変だった…それは私が話したことが原因なのだろうと、私はずっと気にかかっていたんです。もしかしたら、あなたが何の連絡もせずに突然いなくなってしまったのは、私のせいではないのだろうか、私があなたに嫌に思いをさせてしまったからではないのだろうかと後悔もすれば、不安でもあったんです」

 ケイトは、目を大きく見開いた。

 マリエルがケイトの心配をするなんて、自分が言ったことがケイトを傷つけたのではないかと疑って後悔するなんて、信じられない。

 死んだ人のことはとても気遣うけれど、マリエルは生きた人間の気持ちにあまり構ったりしないのだ。

「あ…あなたがそんなふうに思ってくれていたなんて、思わなかった…心配させてごめんなさい」

 妙にうろたえて、ケイトはマリエルの、まだ少しケイトの本当の気持ちを疑っているような、探るような眼差しからとっさに顔を背けた。

「本当に、ただの風邪だったんですか?」

 確認するように尋ねるマリエルの声に、ケイトは小さな息をついた。それから、顔を上げて、まっすぐにマリエルの顔を見返した。

「うん、それは本当よ。あの日のことはよく覚えているけれど、確かにちょっとショックは受けていたけれど、別にそれでマリエルに腹をたてたわけじゃないし、それが原因で仕事を1週間も休んだりしないわよ」

「信じていいんですね?」

 マリエルは少し口篭もった。

「その…私と一緒に仕事をするのが嫌になったわけではない…?」

「も、もちろんよ」

 ケイトも幾分焦って、付け加えた。

「叔父さんとのことは、本当はショックだったわ。それは、でも…そういうことを受け付けられないからというより、どうもやきもちだったみたい。叔父さんにあなたを取られたみたいに思ったの」

「やきもち?」

「あたし、思ってたよりずっと、あなたのことが好きだったみたい」

 つい口走って思わず赤くなると、ケイトは慌てて付け加えた。

「あ、変な意味でじゃないのよ。あたし、あなたに憧れてるの、すごく…。あなたは特別な存在なの。あたしが知りたい秘密を知っている、あちら側の世界に半分住んでいるような所なんか…。あなたと一緒にいて、話を聞いていると、胸がどきどきするような不思議な気分になるの」

「他ではちょっと見つからないような変わり者が、もの珍しいだけなんじゃないですか?」

「そ、そんなことないわ」

 マリエルとケイトはお互いをじっと見詰め合った。

 2人とも、どう言葉をついだらいいのか分からないかのように口をつぐみ、不思議なくらいに緊張して、視線を絡ませあっていた。

「あ…約1時間後に、今日の『ゲスト』が到着します」

 どことなくぎこちない調子で、マリエルがその沈黙に終止符を打った。

「交通事故死した若い男性。顔の損傷がひどいそうです。あなたにとっては、復帰早々難しい仕事になるかもしれませんが、できますか? 処置室では、病みあがりだからといって手をぬいた仕事は許しません。いいですか?」

「は、はい」

 ケイトは、久しぶりに聞く、その凛と響く神の声に背筋をしゃんと伸ばし、心地よい緊張感に身震いするような気持ちで応えた。

「では、エンバーミングの準備にかかってください」

 ケイトの様子を見て、いつもの余裕を取り戻したのだろう、マリエルは薄い微笑みを白面にうかべた。

 実際、これでやっと2人の間で1週間前から止まっていた時が再び流れだし、何もかもがもとの姿を取り戻したようだった。

 そのことを敏感に感じ取ったケイトは心から安堵した。マリエルのもとに戻ってきた、受け入れてもらえた。それだけで、この所彼女を悩ましていた奇妙な不安感も消え去ってしまったかのようだ。叔父との意外な過去の経緯も、サンドラ・リーブスの一件で感じた不思議な惑乱も、もうどうだっていいことのように思われた。

 マリエルと一緒にいられる、この幸福感の前に、ケイトは全てを忘れられると確信していた。

 そう、僅か1時間後に、その遺体が2人の作業所に到着するまでは―。





「全く、こんなに若いのに、気の毒なことだ」

 ここによく遺体を搬送してくるポールの表情を見れば、その日に手がける遺体がどんなものなのか、ケイトには大体想像できるようになっていた。

 特にそれが赤ん坊や子供であった時は、剛胆な彼が見るからにやりきれなさそうな落ちこんだ顔になっている。

「まだ17歳の高校生だぞ。子供じゃないか。朝にはいつも通り元気よく学校に出かけた子がこんな変わり果てた姿で帰ってくるなんて、親にしてみれば到底受け入れられない話だろうな」

 ストレッチャーで遺体を処置室まで運んできたポールは、極めて慎重な壊れ物を扱うような手つきで、遺体の入っている保冷剤入りの大きな袋を処置台の上に移した。そして、処置台の前で既に待機しているマリエルに依頼書を手渡す。

「サミュエル・カード。17歳。男性。トレーラーによる交通事故死。胸部骨折の他、顔面に重度の陥没と擦過傷」

 淡々としたマリエルの声の上からかぶせるように、ポールが付け加えた。

「学校から自転車で帰る途中、トレーラーにはねられたんだ。前輪で自転車ごとはねられ、地面に打ちつけられたところを後輪に引っかけられて、そのまま30メートル引きずられた。くそったれの運転手はハンドルを握ったまま居眠りをしていて、気づかぬままに少年をはねたんだ」

 ケイトははっと息を吸いこんだ。

 ポールが腹をたてるのも無理はない。居眠り運転だったなんて、そんな死に方、死んだ少年もその両親も納得できる訳がない。

「顔面の損傷は、トレーラーに引きずられたことによるものですか。30メートルも引きずられるなんて、さぞや辛かったことでしょうね」

 マリエルがひっそりと呟き、袋のチャックに手をかけ、ゆっくりと開いた。

 現れた遺体をマリエルの肩越しにひょいと覗き込んだケイトの顔色が、さっと変わった。

 思わずケイトは目を閉じた。ポールも男らしい眉をひそめ、この悲惨さを目の当たりにすることに耐えられないかのごとく、顔を背けた。マリエルだけが目を逸らさなかった。

 遺体の顔の右半分は、ほとんど原型を留めていなかった。

 頬骨と額の部分は陥没し、肉もほとんど持っていかれて白い骨が覗いている。目のあった部分は抉られた傷跡にしか見えず、ゼリー状になった眼球が流れ出ていた。めくれあがった顔の皮膚の一部が頭皮と一緒になって、血で固まってしまっている。

 左側の顔はほぼ無傷で、それが非常に綺麗に整ったものであったから、尚更傷ついた右側の顔がむごたらしかった。

 こんな顔を修復できるとは思えない。できたところで、とても不自然なものにしかならず、生前の面影を取り戻すことなど不可能なことにケイトには思われた。

 だが、その時、彼女の耳にマリエルの静かな哀しみを帯びた声が届いた。

「可哀想に」

 マリエルは少年の頭にそっと手を乗せた。その声には、この困難な仕事を前にしても少しも動じたところはなかった。

 ケイトは、とっさに少年の顔から目を背けてしまったことを恥ずかしく思いながら、マリエルを振りかえった。

 彼はとても気遣わしげな目をして、大切なものに触れるかのように、少年の綺麗なまま残っている頭髪に指を滑らせていた。

「大丈夫ですよ。安心してください。私が、ちゃんとあなたを元通りの顔にしてあげますから」

 その囁きを聞いた時、ケイトは急に胸苦しくなった。

 それは不可能を可能にしてみせるケイトの神の声であり、その確信に満ちた響きを聞けば、どんな異常死体を前にしても緊張は解けて、平常心で仕事にのぞむことができた。

 しかし、この時は、何故か不安な胸騒ぎを覚えてしまった。

 これからする仕事がうまくいかないなどと疑ったわけではない。

 ただ、マリエルの声にこもる愛しげな響きに、ふいにサンドラ・リーブスが思い出されたからだ。

 サンドラのエンバーミングをここで行なった時も、マリエルは同じ優しく慕わしげな調子で、彼女が生きた存在であるかのように話しかけていた。

「ケイト」

 しばらく己の思案に沈みこんでいたケイトは、はっと息を飲んだ。

「何をぼんやりしているんですか、仕事を始めますよ」

「は、はい」

 訝しげなマリエルの視線を避けるようにして、ケイトは遺体処置用の洗浄液と消毒薬の瓶を取るために薬品棚に向かった。

「大丈夫か?」

 その背中にポールの声がかけられる。

 ケイトのぼんやりした様子を、遺体の損傷の酷さにショックを受けたためだと捉えたのだろう。

 ここでの仕事の初日にあったように、エンバーミング途中で卒倒するのではないかと案じているのかもしれない。

 さすがにケイトも、あの時のような全くの素人という訳ではない。

 ケイトとさほど年の違わない、この不慮の死を遂げた少年に対して傷ましさとやりきれなさを覚えこそすれ、もう気持ちが悪いとか恐いとか言って仕事の手が止まることはない。

「うん、大丈夫よ。そんな心配そうな顔しないでよ、ポール」

 ただマリエルの態度は気になるけれど。ケイトは胸のうちで呟いた。

 だが、そんなことをポールに打ち明けるわけにはいかなかった。

「そうか、では俺は事務所に戻る。明日の朝、棺を運んで納棺し、その後すぐに親元に送り届ける予定だ。どうか、できる限りの手を尽くして、この子を綺麗にしてやってくれ。可哀想に…将来はプロのバイオリニストになるのが夢だったそうだ。音楽専門のカレッジに入るための推薦ももらえて、喜んでいた矢先の事故だった。まだ17才、何もかもこれからだったのにな…」

 ケイトの肩を軽く叩き、マリエルに向かって頷きかけると、ポールの逞しい姿は処置室の扉の外へ消えていった。





 サミュエル・カードは、黒髪に緑色の瞳をした、とても美しい少年だった。

 関係書類と共にポールから手渡された写真の中の、人懐っこい明るい笑顔をした少年を眺め、ケイトはやりきれないような溜め息をついた。

 この笑顔の素敵な男の子と、今固いステンレスの処置台の上に横たわっている半顔をつぶされた遺体とを同一人物と考えることは難しかった。

「少し、あなたに似ていませんか?」

 ケイトが眺めている写真を後ろから覗きこみながら、マリエルがふいに気がついたように言った。

「そ、そう…?」

「笑った感じがね」

 そうかしら、この子の方が綺麗よねと首を傾げながらケイトが写真を見つめていると、ふいに、静まり返った処置室に穏やかで心和むクラシック音楽が流れ出した。

 エンバーミングの間、処置室の片隅に置かれたCDデッキで音楽を流すのが、この頃の2人の習慣となっていたのだが、この日はマリエルがCDを選んだ。

「この曲があなたの好みであればいいのですが」

 マリエルが低い声で囁きかけたのは、処置台の前で彼の指示を待っているケイトではなく死んだサミュエル・カードだ。音楽家になるのが夢だったという少年の好みにあわせたのだろう。

 ケイトの胸はちりちりと焼かれるように痛んだ。

 マリエルと一緒にいたいなら、彼のこういう死者に対する傾倒ぶりにも慣れなければならないのだが、何故か辛かった。

「では、いつもの手順で遺体の洗浄と消毒から取りかかります。これは、あなたに任せてもいいですね、ケイト。その間に、私は前処理液と防腐固定液の調整をしますから…」

「は、はい」

「顔の損傷部分にはあまり触れないで、固まった血を水で洗い流すくらいにしておいてください。後は私が綺麗に処置しますからね」

 ケイトは、少年のほっそりと痩せてはいるが均整のとれた体を柔らかなスポンジで優しく洗いながら、時々横目で、エンバーミングマシーンの置かれた台の所に立って処理液の調整をしているマリエルの怜悧な顔を盗み見た。

 他の遺体を処置する時と変わらない、冷静沈着なプロの顔だ。

 ケイトは安心してもいいような気がした。だが、一体何に対する安心だというのだろう。

「マリエル、こっちは終わったわよ」

 ケイトが呼びかけると、マリエルはそちらを見もせずに答えた。

「では、手足のマッサージに取りかかって下さい」

 マリエルは遺体に近づき、消毒用のスプレーで顔の消毒に取りかかった。

 傷ついた組織を傷めぬように細心の注意を払いながら、顎の部分をマッサージして硬直を取り、口を開かせ、内部に消毒液を吹きつけることで殺菌消毒する。鼻にも擦過傷があって表皮は赤く傷んでいたが、奇跡的に形は綺麗なままで残されていた。鼻腔内には、消毒液を染みこませたコットンを慎重に詰めこんでやる。だが、潰れてしまった眼球は、もうどうしようもない。ゼリー状になってしまったそれを、メスを使って慎重にかきだし、ぽっかりと空いた眼窩にもスプレーを吹きかけた。

「後で、代わりの目を入れてあげますからね」

 そこまでの処置して、マリエルは鎖骨下動脈および静脈の剖出に取りかかった。

 この神経の集中を要する繊細な作業は、マリエルはまだケイトにはやらせない。

 マリエルの細く器用な指が、小さく切開した内部を結紮鉤で探り血管を引っ張り出すのを、ケイトは息を潜めて見守った。

 取り出した動脈と静脈にそれぞれ注入チューブと排出チューブを取りつけた後、マリエルはエンバーミングマシーンを作動させた。

 血管を通してマシーンから前処理液が注入され始めると、凝固した血液が排出チューブから流れ出した。

 処理液の中には赤い色素が入れてあるので、注入が進むにつれ、蒼白だった少年の体にほのかな赤みがさしてくる。むごたらしい傷跡さえなければ、生きているかのような肌の色味が戻ってきた。

 その後には、防腐固定液の注入を行なった。

 顔だけでなく体にも所々ある打撲傷の部分に薬品が反応して変色しないよう、前処理液も防腐固定液もマリエルが配合を考えている。

「では、体に負った細かい裂傷をまず埋めていきましょうね。ケイト、そのワックスをこちらに持って来てください」

 マリエルに言われるがまま、ケイトはシリコン素材の修復用ワックスの容器を処置台にまで持ってきた。

 胸の骨折部分を初め体中の皮膚があちこち裂けてしまっている。それを、この肌の色に近いワックスを伸ばして傷を1つずつ埋めることによって修復し、その後で更に専用のファンデーションなどを使って周囲の皮膚と馴染むように見せる。

 ケイトもマリエルにならい、慎重な手つきでパテを使い、傷を消す作業に集中した。

 ここまでで既に3時間近く経過している。

 ケイトは腕や肩に疲労を覚え始めていたが、マリエルの方はエンバーミング開始時とほとんど変わらぬ様子で的確に作業を進めていく。

 見た目は華奢なマリエルだが、案外タフだ。それとも、好きな仕事に関しては神懸り的な力を発揮するのかもしれない。彼なら、それも何だかありえそう。

「ケイト」

 ふいに声をかけられて、疲労のため集中力が途切れかけていたケイトは内心飛びあがりそうになった。

「学校では、こういう損傷の激しい顔面の修復の仕方は習ったんですか?」

「えっ…ええと人形を使った実習だけよ。修復用のワックスと焼石膏を使って、ビルディングしていくんでしょう? 粘土細工なんてあたし達は呼んでたけれど、あれは、本当にエンバーマーに器用さが要求されるわよね」

「あなたは、器用な方?」

 えっと瞬きをして、ケイトはちょっと焦った顔になった。

「そ、それほど不器用じゃないとは言いたいけれど、あなたの手つきを見てたら、とてもじゃないけれど自信が持てないわよ。それに、この子の顔の損傷は…やっぱりあたしにはできそうにないわ。あなたじゃなきゃ」

「安心しなさい、そんな無理は言いませんよ。ただ、今の学校ではどんなふうな手順を教えているのかと思って…私はもともとが形成外科医なので、その時に使っていた処置の仕方を応用したり、自己流でやってる部分もあるんですよ」

「でも、遺体の修復は生きている患者の手術とは違うでしょう? 傷跡や折れた骨が自然に治っていくことを前提にした処置じゃないもの」

「ええ、無論、死者には、そんな時間も力もありません。だから、あなたの言う粘土細工のようなやり方で失った顔面を新しく作り上げていく、むしろ彫刻家みたいな作業になるんですね。だが、そのビルディングの部分が多いほど、やはり若干不自然なものになるのは否めないし、触ったら、すぐに分かってしまいますよね。だから、顔の残っている部分は、骨も肉も皮膚もなるべく使うようにしたいんですよ」

「技術がいるんじゃない? エンバーマーの職能をたぶん超えてるし、その…そんなことをやってたら仕事として成り立たないって、ルイさんならこぼしそうね」

「ああ、確かにそうですね。けれど、これは私が好きでやることですから、いいんです。余分なオプション料金なんて取りたてませんよ。無論、ルイには内緒ですが」

 どことなく悪戯っぽい調子で囁いて、マリエルは、ケイトに近くに来て己の作業を観察するよう促した。

「見てごらんなさい。頬のこの部分は、陥没は酷いですが、皮膚自体は綺麗に残っている。この程度の内出血ならメイクでごまかせるでしょう。だから、ここは口腔内からメスを使って骨折部分を修整し、元のように頬を内側から盛り上げてやります。剥ぎ取られた皮膚もなるべく使いたい。失った眼球のかわりには、プラスチックの義眼を入れてあげますよ。だから、実際ビルディングで修復するのは眼窩の周りだけになりますね。そこだけは、作りものになってしまいますが、半顔全部に石膏を使うよりはずっと自然に見えるでしょう」

 そう前置きをして、マリエルはもっとも困難なその作業に取りかかった。

 一端処置が始まると、マリエルは傍らのケイトの存在など忘れ去ったかのように、目の前に静かに横たわる遺体にのみ集中した。迷いのない動きで少年の口腔を内側から切り、形成外科でするように陥没した骨を持ち上げてつなぎとめた。

 ケイトも一言も発することなく、全神経を目に集中して、マリエルの仕事に見入っていた。

 頬の陥没部分を盛り上げることに成功すると、少年の顔は随分と人間らしくなってきた。

 マリエルはプラスチック製の眼球を少年のがらんどうになった眼窩に押しこんだ。

 それから、肉を持っていかれて露出した眼窩の周りに焼石膏を塗布し、少年の写真を参考にしながら、もとの顔に戻るよう指を使って造形していく。

 マリエルの指先が滑る度に少年の損なわれた顔は変化し、徐々にだが生前の面影が戻ってきた。

(マリエル、あなたは、恭しいとさえ言えるような手つきで、とても大事そうに触れるのね。死んでしまったその子はとても可哀想だけれど、そんなふうにあなたに優しくしてもらえるなんて幸せだと、どうしてだろう、あたしは今思ってる…)

 忘れかけていた胸を焼き焦がすような痛みが、蘇ってきた。

 叔父とマリエルの関係を知らされた時に覚えた、苦しさとよく似ている。

(ああ、あたしって馬鹿。ねえ、ケイト、あなたは死んで人にまで嫉妬しているの…?)

 そんなことをケイトが悶々と思ううちに、マリエルは焼石膏で形成した顔の上にワックスを塗布して自然な肌の感じを持たせ、それから、瞼の際にはつけ睫毛のような人工の黒い毛を埋めこんで丁寧に切りそろえて形を整えた。

 めくれあがった頭皮も綺麗に戻され、顔の皮膚も自然にビルディング部分と馴染むようにはりつけられて、こうなると、もうちょっと見では傷があった部分が判別できなくなった。

「さて、後は接着剤が乾くのを待って、仕上げの化粧と髪のセットをしますが…ケイト、この子の顔は綺麗になりましたか?」

 ケイトはマリエルの横に立ち、呆然となって、サミュエル・カード少年の蘇った美しい顔を見下ろした。…

「ええ…」

 思わず、体が震えた。

「とても…とても綺麗よ…生きていた時と同じくらい、ううん、もしかしたらそれ以上に…本当に恐いくらいに綺麗な子…」

 失った美貌を取り戻したサンドラの遺体を前に、凄まじい衝撃を受けて立ち尽くしていたリーブス氏の姿を、ケイトは思い出していた。

 死者は時として、無力にただ横たわり展示されるだけの存在ではなく、生者の心を揺さぶる力を備えた、この世のものならぬ生き物と化す。

 安らいだ笑みをうかべて静かに横たわるサミュエルに、サンドラと同じ何かをケイトは見出していた。

 マリエルによって別の命を吹き込まれ、少年は新たに生まれ変わったのだ。

 ケイトが目を上げると、サミュエルを満足そうな優しい表情で見つめるマリエルの姿があった。

 その手が少年の艶やかな黒髪を愛しげに撫ぜるのに、ケイトは奇妙なほどうろたえ、見たくないとでもいうかのように顔を背けた。

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