第4章月に濡れて(4)
結局、その日は薬品の配達だけして、ケイトはすぐに事務所に帰ってしまった。
いつもは、別にエンバーミングの仕事が入っていなくても、小一時間くらいマリエルの作業所で過ごしてから戻ることが多いので、ルイなどは「どうしたんですか、今日は珍しく早く戻ってきたんですね」とからかい半分、声をかけてきた。
しかし、事務所にいても、今日は特に葬儀の予定もクライアントとの商談もない極めて暇な日だったので、アルバイトのケイトは早々に帰されてしまった。
事務所から、この頃やっと運転も慣れてきた中古の日本車を運転して家に帰る途中も、ケイトはずっと浮かぬ気分だった。
今日初めて知ったマリエルの過去を思い、それに対する自分の過剰な反応を思い出すにつけ、ケイトは溜め息をついていた。
(あんなふうに、いきなり機嫌を悪くして何の説明もなく突然帰るなんて、マリエルは変に思ったに違いない。これだから生きている人は難しいなんて、溜め息をついているかもしれない。死んでいる人の方がよほど理解できるし、一緒にいて楽しいなんて、思っているかもしれない)
ふいに、昨夜見た夢の中の光景がケイトの脳裏にまざまざとよみがえった。
青いドレスのサンドラ・リーブスを腕に抱いて踊りながら、マリエルがその耳元で囁いている。
(やはりあなたと踊っている方がいい、サンドラ。あなたは、あの娘のように私にあんな不愉快で居心地の悪い思いをさせはしないから)
サンドラは微笑みながら頷き、マリエルの腕にそっと指を滑らせ、あの古いレコードから流れる曲にあわせて踊りつづける。マリエルにもっともふさわしい、あの死せる美女は。
ケイトはぶんぶんと頭を振った。
「ありえそうで、しゃれにならないわよ…」
ケイトは小さな唇をきゅっと噛み締めた。
どうしよう。感情がコントロールできない。
(マリエルはすごい変わり者だけれど、あれほど綺麗な人だし…別に過去に恋愛経験の1つや2つあったって、別におかしくなんかないじゃない)
それとも、男性の恋人がいたことがショックだったのだろうか。しかし、一体どうしてマリエルの告白にケイトがここまで動揺しなければならないのか。
(あたし、やっぱり、変。叔父さんとマリエルのことを聞いてから、すごく気持ちが落ち込んでるし、ちょっぴり腹もたててるみたい…? そうよ、理屈にあわなくても、とにかく嫌なものは嫌なのよ。叔父さんが相手でも誰か他の人でも、マリエルが誰かのものであるなんて、嫌)
さすがに、ここまで思いつめて、ケイトは苦笑してしまった。
マリエルじゃないけれど、生きているということは色々な面倒なのかもしれない。こんな無茶苦茶な感情とも付き合っていかなくてはならないのだから。
(でも、それが生きてるってことなんだろうな…死んだ人はもう、こんな思いを抱くことはないのよね。かわいそうなサンドラさんも他の誰かれも皆、死んでしまえば、何も感じないから…)
ケイトの惑乱は果てしもなく続くように思われたが、それでもどうにか自宅にたどり着くことができた。
地下の車庫に車を入れると、ケイトは1人暮しのアパートメントの部屋へしょんぼりとした足取りで上がっていった。
ケイトが生まれ育った両親の家は別にあるのだが、彼らの死後1人で暮らすには広すぎるし、ハイスクール卒業後すぐに、大学に通うのにもっと便利な場所にある、ここに引っ越してきたのだ。
1人暮しは、実はあまり好きではない。何年たっても、馴染めない。
特に、外出先から帰って来て灯りのない冷えた部屋に入る、こんな時、何とも言えない寂しさが突き上げてくる。
だから、帰ってくるとすぐに、ケイトは家の灯りをつける。玄関の照明のスイッチを入れ、それから廊下、部屋という部屋の灯りをつける。そして、テレビも。音があると少しは気分が紛れるからだ。
電話に近づくと留守電が入っていた。再生のスイッチを押してみると、ケイトの知っている声が流れてきた。
『ケイト君、N州立病院のドクター・ブリルだ』
ケイトは小さく息を飲んだ。
『一体、どうしたというんだい。この2週間何の連絡もなく、予約日にも姿を現さないなんて…約束違反だよ。ともかく、この間の検査結果について話したいので至急連絡をくれ。待っているから。必ずだよ』
ケイトは受話器を戻し、しばし、茫洋とした表情のない顔で電話を見ていた。
(せっかく忘れていた…ううん、忘れようとしていたのに…)
一気に夢から覚めたような気がした。
「分かっているわよ」
ケイトが視線を部屋の中にさまよわせると、壁にかけられた鏡に映る己の姿と目が合った。何かに慄くかのごとく見開かれた大きな黒い瞳が、彼女を見返した。ケイトは、見たくないかのように目を瞑った。
「分かってる…でも、お願いだから、あたしをもう少しこのままでいさせてよ」
ケイトは電話から顔を背けると、逃げるようにテレビの前に行って、ソファの上に膝を抱え込むようにしてうずくまった。
ぼんやりと見開いた目をケイトはテレビに向けていたが、実際には画面など見てはいなかった。彼女が見ていたのは、この世のものならぬ巨大な月のかかる空の下で、誘うように手を差し伸べてくる、マリエルの仄白く輝く姿だ。
(あたしは、まだ…あの人の傍から離れたくないの…)
両腕で抱きかかえた膝の上に、ケイトは顔を伏せた。
マリエルが立っているあの場所は、自分にとっては案外近いのかもしれないと、ケイトはほろ苦く切ない気分で思った。
ケイトが急におかしな態度をとってマリエルの自宅兼仕事場から帰った、その翌日、彼女は仕事に来なかった。それも無断欠勤だった。
ルイから電話でそのことを聞いたマリエルは、別に感情を揺さぶられる様子もなく淡々と返した。
「では、かわりの誰かをここによこしてください」
その言葉を聞けば、やっぱりマリエルだ。生きた人間が何をしようがどうなろうが、全くの無関心。ケイトがいきなり何の連絡もなく仕事に出てこなくても、注文していた薬品類がちゃんと届いて仕事に差し支えが出なければ、どうだっていいのだ。そんなふうに考えたことだろう。
しかし、実際には少し違っていた。
マリエルはルイからの電話を切ると、彼にしては珍しく深い溜め息をついて、しばらくの間考えこんでしまった。
(ケイトが来ない)
さすがに、心当たりがないと考えることは、いかに人の気持ちには疎いマリエルでもできなかった。
昨日のケイトの奇妙な反応を思いだし、それほどあの話を聞かされたことが嫌だったのか不愉快な思いをさせてしまったのだろうかと、実はかなり気にしていた。
(やはり、ああいう話は伏せておくべきだったのだろうか。ケイトは、何といってもドクター・ ジョーンズの身内なのだし…配慮が足りなかった…)
しかし、言ってしまったことを今更撤回するわけにもいかない。
マリエルは一瞬衝動的に電話の受話器を取り上げてケイトの自宅にかけようとしたが、すぐに苦笑してかぶりを振ると、もとに戻した。
そうして、あまり気のりはしないまま、マリエルは1人、作業所に向かった。
ケイトが来ないなら、今日は1人で研究に集中できる。
午後から一体エンバーミングの仕事が入っていたが、それは1人で簡単に処置できるごく普通の遺体で別に助手など必要とはしない。
それに、いつだってマリエルは、この仕事については基本的に人の助けなど欲しくないのだ。
作業所の扉を開いて薄暗い内部に入った時、マリエルは、ふと足を止めた。建物の中に漂う圧倒的な静けさに、今更ながら彼は気づいた。
(ここは、こんなにもがらんとして広かっただろうか)
マリエルは壁のスイッチを探して、灯りをつけた。
静寂が、ひしひしと四方から押し寄せてくる。
この静謐さを、マリエルは愛し、慣れ親しんできたはずなのだが、今日は何となく気が滅入った。
マリエルはふと、ケイトの明るく響く声を思い出した。
うるさいのが嫌なら1日中でも黙っているからどうか弟子にしてくれなんて言っていたくせに、結局数分も黙っていることができないで、しきりとマリエルに話しかけたり、笑ったり、本当にうるさくてたまらなかった。頼むからもう少し静かにして欲しいと思った事も多々あったというのに、何時の間にかあのおしゃべりに慣らされていたのだろうか。
(不思議ですね、ケイト。あなたがいないこの場所は、私にとっても何だか余所余所しくて冷たい感じがする…)
他人の存在をこんなふうに慕わしく思ったことなど、マリエルにはほとんど皆無と言ってよかった。己の感情の動きに彼は戸惑い、驚いていた。
(おかしいですね。何だか、あなたがいなくて、心にがらんと空洞が空いたような気分で…寂しいと言うのは変ですが…だって、私はこれまでずっと1人きりで仕事をし、暮らしてきたわけで…それに私は人とのつきあいが実際嫌でたまらなかった。以前の職場では対人関係がうまくいかなくてノイローゼにまでなって、だから外界との接触をほとんど断って、死者だけを相手に好きな仕事と研究に没頭できる、ここでの生活は私の理想のものだった…別に孤独など感じたことはなかったというのに…)
それが、今、ケイトが予定通りに来ることはないと知った途端に非常な落胆を覚えて、それならかわりに他の予定をたてようという気持ちにすらならない。
マリエルは馬鹿馬鹿しいというようにかぶりを振った。
(いや、ケイトが来ようが来まいが、私にはどちらでも構わないことだ…)
マリエルは何かを振り切るようにまっすぐに2階の研究室に上がって、閉じこもった。
取りあえず、ネットで取り寄せたボルネオの死の儀礼と習俗に関する本を読むことにした。しかし、いざページを開いて読もうとしても、なかなか本の内容は頭に入ってこなかった。
昨日のケイトの奇妙な動揺ぶり、2人で交わした会話が気になって頭から離れない。
おまけに、どうしてそこまで楽しげにいつもにこにこと笑っていられるのか訝しくなるくらいに明るいケイトの笑顔がちらつき、結局マリエルは読書をすることも諦めてしまった。
(1日くらいケイトがここに来ないのがなんだというのだ。どうせ明日は、またあの無邪気な顔で『昨日はごめんなさい、どうしても来られない用事があって』とか言いわけしながら、姿を現すに決まっている)
その時は、マリエルも初めは少し腹立たしげに無断欠勤について責めるかもしれない。そんな無責任な弟子などいらないと言ったら、ケイトは青ざめて、許しを請うだろう。何か起こるとしても、その程度のことだ。
それから、いつものように、あの明るい声がこの作業所に響き、2人でコーヒーでも飲みながらたわいのないおしゃべりを楽しんだり―もっとも一方的に話すのはケイトで、マリエルはそれに静かに耳を傾けているだけなのだが―エンバーミングの仕事が入れば共にそれに取り組むだろう。
(そう、明日になれば、ケイト、あなたに会える)
マリエルははっと息を吸い込んだ。
そんな明日が早く来ればいいのにと思っている自分に、マリエルはふいに気づかされたのだ。