第1章彼方から(1)
「うん、とてもいい感じのオフィス。会社の人も、優しくて親切そうだし」
黒髪の少女はものめずらしそうに頭をぐるりと巡らせて、埃一つ落ちていない綺麗に整理整頓された部屋の中を見渡した。
明らかに東洋の血が入っている顔立ち。中国系か日系か。
ショートカットの髪のおかげで、その童顔は少女というよりむしろ少年めいて、性を感じさせない妖精じみた雰囲気さえあった。
彼女は壁にかけられた葬儀ディレクターの許可証やテーブルの上にさり気なく置かれた会社のカラー・パンフレットに興味深げに目を向ける。
『グリーンヒル・モーチュアリ社は、尊厳と信頼をベースに心を込めたサービスを御提供します。人生におけるもっとも厳かなる時に皆様に誠心誠意を尽くしてご奉仕できることは、私どもの誇りです』
そうして、目の前の花瓶に活けられた大輪の百合の花に一瞬目を奪われたように見入った後、その後ろで神妙な顔をして待ちうけているルイに、少女はにこりと微笑みかけた。
その笑顔に、ルイはつい引き込まれそうになった。
正確には、まっすぐにこちらに向けられた、その真っ黒な澄み切った瞳に。
あまりに無防備で恐れ気がないとでも言おうか。別にこちらには何も後ろめたいことはないというのに、じっと見入っていると何かしら居たたまれない気分を覚えてつい視線を逸らしたくなるような、そんないわく言いがたい胸騒ぎを覚えさせる不思議な目をしていた。
「あ…ケイト・ハヤマさん、とおっしゃいましたね」
胸の奥に沸きあがった不可解な不安を打ち消そうとするようにこほんと咳払いをしシルバー・フレームの眼鏡を直すと、ルイは愛想のいい営業用スマイルをうかべて、改めて少女に向き直った。
「A・カレッジ・オブ・モーチュアリサイエンスの学生さん。わたしは、当社の副社長をつとめるルイ・ファレルと申します。さて、早速ですが、今回ここに来られたのは一体どのようなご用向きなのでしょうか。失礼ですが、お見受けした所あなたは大変お若いし、お身内に不幸があったので私どもに仕事の依頼をというご様子でも…ありませんよね…?」
普通は遺族が直接葬儀会社に連絡を取って仕事を依頼するということはあまりない。ほとんどの死が実際病院で見取られる現代、大抵は患者が亡くなった時点で、病院から出入りの葬儀社に連絡が入り、駆けつけた葬儀ディレクターが茫然自失の遺族に代わって一切を取り仕切る。たまに生前から自分の葬儀や墓について相談にくる客もいるが、まだ一般的ではない。
ケイトの明るく屈託のない様子や、大学で葬儀学を学んでいる学生という身分から想像して、仕事の依頼という話ではなさそうだとルイには初めから分かっていたが、商売柄身につけた控えめで丁寧な態度で、その用向きを慎重に尋ねた。
大方アルバイトの口でも探しにきたのだろう。将来この職種につくつもりの学生ならば実習のいい機会にもなるし、うまくいけばそのまま就職先が見つかるかもしれないという考えなのだ。だが、それならば場所を間違えたようだ。確かに今ルイの会社は人出不足だったが、身元のよく知れないましてやアルバイトなどという軽い気持ちでやってくる若者を雇うつもりはなかった。
30そこそこの若さのせいで甘く見られがちだが、ルイは仕事については実にシビアだった。そうでなければ、一端は傾いた会社の経営を立て直し、この近郊では1、2を争う優良葬儀社にまで成長させることはできなかったろう。
「その…すぐに仕事の依頼をとかそういう話ではないんです、実は…」
案の定、ケイトは一瞬言いにくそうに口篭もった。しかし、その後に続く話は、ルイの予想とは違っていた。
「半年前に叔父を亡くした時この会社の存在を知っていたらきっと葬儀の依頼をしていたでしょうけれど…ごめんなさい、今日は仕事の話じゃなくて…実はあたしあなたに尋ねたいことがあるんです」
「わたしに? 一体、何を?」
ルイは、いぶかしげに眉をひそめた。
「あの…あたし、少し前まである病院で介護助手のアルバイトをしていたんです。その時のことなんですが、その…ほら、一月前この近くのハイウェイでひどい玉突き事故があったでしょう? それに巻きこまれて、結構有名なラジオのDJが亡くなったって…」
「ジョン・スティーブンソンのことですね」
あまり芸能関係に詳しくはないルイも以前から名前だけなら知っていた。この辺りのローカルラジオ局の花形DJで、軽快なトークで10代、20代の若者の間ではかなり人気があった。
「ええ、その人です。実は彼、あたしが勤めていた病院に搬送されたんです。でも即死状態で、病院は検死をしただけのようなものでした。あたしは、もちろん直接見たわけじゃないけれど、遺体の状態はひどいもので、家族や親しい友人にも彼だと分からなかったくらいだったとか…。有名人っていうのはイメージを大切にするということもあって、遺族はどうしても生前の面影をジョンに取り戻させたかったんですね。ある凄腕のエンバーマーを探し出して仕事を依頼したそうです。彼の葬儀は多くの著名人やファンも出席した盛大なものとなって…出席者達は皆彼の安らかで綺麗な死に顔を見てほっと胸を撫で下ろしたそうです。事故で変わり果てたジョンの顔を見ずにすんだんですから当然ですよね。そのくらいジョンが受けたエンバーミングは完璧だったんです。よほど腕のいいエンバーマーだったんだろうってあたしもぼんやり思っていました。けれど…後で、出入りの葬儀ディレクター達がジョンの受けたエンバーミングについて噂をしているのを、あたし偶然耳にしたんです。ああ、あれはきっと『M』の仕事だ、間違いないって。この業界では有名な人だそうですね。どんなに傷つき見る影もなくなった遺体にも生前の完璧な姿を取り戻させてくれる…その為には時には違法な手段を用いて…だから表立っては活動できずに、限られたルートを使って、どうしても彼の技術を求める顧客のための特別な仕事だけを請け負うんだって」
ルイは、目の前の少女の若い一途そうな顔をつくづくと眺め、用心深く言った。
「ああ、彼の噂は確かにわたしも聞いたことがありますよ。で、その『M』氏とあなたが我が社を訪れたことに、一体どんなつながりが?」
「あたし、聞いたんです。その葬儀関係者達に、一体どうしたらその『M』と連絡を取れるのか。うかうかとは教えられないことだからと初めは渋っていたけれど、どうしても知りたいと頼みこんだら、この会社を教えてくれたんです。M氏に連絡を取る方法をここなら知っているかもしれないって…」
「馬鹿なことを言っちゃいけませんよ、あなたっ」
熱心に言い募ろうとするケイトを遮るように、ルイは声を張り上げた。
「冗談じゃない、うちの会社は、正規の登録をしたちゃんとした葬儀会社なんです。噂のM氏は無免許のエンバーマーだというじゃありませんか。いくら腕がよくったって、そんな得体の知れないエンバーマーを雇って、また違法行為なんかやらかされたら、下手をしたら会社は免許取り消しですよ。そんな危ない仕事をうちが引きうけるメリットなんて実際ないんです」
世間ずれしていなさそうな少女を脅かして怯ませるつもりで、わざと怒ったようにルイは言ったのだが、内心は冷や冷やだった。ケイトがこれ以上余計な疑いを抱かないうちに、さっさと追い返してしまわなければ。
「でも…例え今はなんの関係もなくても、過去にここを通じてM氏が仕事をしたということはあったかも…お願いです、調べてもらえませんか? 3年前です…あたしの父親が、たぶんM氏のエンバーミングを受けていたんです」
話はここで打ちきるつもりで立ち上がりかけていたルイが、はっとなって動きを止め、ケイトに見入った。
「あなたのお父さん…?」
ケイトは真顔で頷いた。
「研究員として勤めていた化学工場の爆破事故に巻き込まれたんです。父の遺体は…本当に無残なものでした…ばらばらになって焼け焦げて…ほとんど人間の形なんか留めていなかった…あたしは、遺族として父の遺体の確認をしたけれど、実の親なのに…一瞬見ただけで、気分が悪くなって安置所から逃げ出してしまいました…駄目、こんな父さんの姿は絶対に母さんには見せられない。当時の母は重い病気を患っていて、精神的にもとても弱っていたんです。そうしたら、あたしの叔父さん、つまり母の兄がとてもいい腕のエンバーマーを知っているからまかせて欲しいと言ってくれたんです」
ケイトは一瞬言葉を切り、テーブルの上に飾られた百合の花を食い入るように眺めた。
死者の花。棺の中に眠る父に手向けられた白い花々を思い出してでもいるかのようだった。
「葬儀の為に家に戻ってきた父は…信じられないことに、何もかも全て元通りの父でした。あたしの瞼に焼きついてしまった、そのために一晩うなされることになったあの変わり果てた肉の塊は一体何だったんだろう。ああ、あれはきっと別の死体だったんだ。だってほら、ここにちゃんとあたしの父さんがいる…父さんの手…趣味で小説を書いてて、それもタイプやパソコンを使うのは嫌で古風に手書きで原稿を書いてた、その為にペンだこが中指にできてた大きな手もそのままで…子供の頃その手で頭を撫でてもらった思い出とかがよみがえってきて…あたし、泣きました。哀しかったけれど、その前の日に覚えたほど絶望的な気分じゃなかった…最後にお別れを言った時の父の顔が、とても穏かで安らかなものだったからです」
ケイトは少し涙ぐんだようだ。指先で目元をぬぐった後、再びルイを正面から見た。
「葬儀は無事に終りました。父とのお別れもちゃんとできました。残された母を支えて何とかやっていくだけの勇気を持つことができました。みんな父にあんなすごいエンバーミングを施してくれた人のおかげです。だからあたし、葬儀の後すぐに叔父を捕まえて聞いたんです。叔父さんの知り合いのエンバーマーにお礼が言いたいから連絡先を教えてくれって。そうしたら、叔父はなぜだかとても言いにくそうな辛そうな顔になったんです。残念だけれどそれはできないよ、と叔父は言いました。そのエンバーマーの名は明かさない、また彼の方でもこの仕事をしたことは認めない、それが今回の依頼を彼が引き受ける時の条件だったんだ、と。そうして、あたしがどんなに頼んでも叔父は首を横に振るばかりでした。結局死ぬまで、叔父はそのエンバーマーの名は明かしてくれませんでした」
ルイは何かしら思い当たったような顔になった。
「待ってください…あなたの、その叔父さんの名前は?」
「ダニエル・ジョーンズです。N州立大学病院の外科部長を勤めていました」
「ドクター・ジョーンズは亡くなられたんですか?」
ルイはとっさに鋭い声でそう問い返していた。しまったと思ったが、後の祭りだった。
「やっぱり叔父のことを知っていらしたんですね? それじゃあ、あなたが『M』なんですか?」
途端に頬をぱっと紅潮させるケイトに、ルイは幾分慌てて、大げさに手を振りながら否定した。
「ち、違います、わたしは『M』なんかじゃありませんよ…わたしは…」
ちっと舌打ちをした後、あきらめたような深い溜め息をルイは吐いた。
「全く、仕方がありませんね…ええ、わたしは確かに『M』をよく知っています。つまり、わたしは彼の代理人なんです。表だって仕事をすることができない彼の為に、わたしが窓口となって特別な注文をしてくる客の仕事を彼に斡旋しているわけです」
ケイトは昂ぶる気持ちを静めようと深呼吸をした。
「すごい…本当にいたんだ、『M』って」
そんなケイトに、ルイは恐い顔をして釘をさすように付け加えた。
「言っておきますが、この話は内密にして下さいよ。うちは表向きはちゃんとした葬儀会社なんですし、実際何人もの有資格のエンバーマーと契約して法に従った業務をやっているんですから」
ルイはどさりとソファに坐りなおし、観念したような態度で改めてケイトに向き直った。
「それで…今更『M』を探し当てて、一体どうしようというんです? 亡くなったお父さんの エンバーミングのことで礼を言いたいとでも? あなたにとっては、ただ感謝を示したいからという純粋な気持ちでも、『M』にとっては迷惑かも知れませんよ? ドクター・ジョーンズと『M』との間で交わされた取り決めを、あなたは尊重するべきではありませんか? ミス・ハヤマ、もう三年もたっているんです。もうお父さんの死のことも『M』の存在も忘れるべき時期ですよ」
「あたしが今エンバーマーを目指して勉強しているのも『M』の存在があったからなんです」
ケイトは執拗に食い下がった。
「3年前あたしや母がそうだったように、大切な家族を亡くした人達の苦しみを和らげてあげる、彼らが早く立ち直れるよう助ける仕事をしようと…」
「ミス・ハヤマ、では、わたしからあなたの今の気持ちはあの方に伝えます。ですから直接会うことはあきらめてください。あの方は、あまり人に会うことを好まれないのです。それに…あなたは、どうやら『M』について大変な幻想を抱いておられるようだ…たぶんヒーローみたいに思っているんでしょう。ならば余計に会わないほうがいい。これは、あなたのためでもあります…その…あの方はとても変わった方なんです…普通の人は、あの方と一緒にいていい気分を味わうことはあまりありません」
「少しくらい変わっていたって、彼が素晴らしい仕事をしているって事実は変わらないでしょう?」
「少しではなく、大変、変わっているのです。こういう商売をやっていると、どうしても死が身近になってきて、ものの見方も感じ方も普通の人とは多少ずれてくるんですが、あの方は特別なんです。生きている人間よりもずっと死者の方に近い…体だけがかろうじてこちらに存在しているけれどその魂も心もあちらの世界に属している、そんな感じなんです」
「死者の世界に…」
ケイトはふいに神妙な顔になって考えこんだ。つま先から頭の天辺まで死にどっぷりつかっている変わり者のエンバーマーと聞いて、わきあがったイメージにさすがに気後れしたのかもしれない。
勢いでここまで入りこんでしまったが、今更のようにどんな世界の入り口に自分が来てしまったのか気がついて怖気づいたのだろう。ここはある意味非常にアンダー・グラウンドな世界だ。身内に不幸があった時はともかく普段はなるべく関わり合いを持ちたくないと誰もが思う。ましてや友人や恋人にあえてエンバーマーや葬儀屋を望む物好きはいない。
学校で学術的なことは教えてもらって頭の中の知識は充分備わっても、それで直ちにエンバーマーとしてやっていけるわけでもない。ルイのように、どうしても家業を継がなければならないといった現実的な事情がある場合はともかく、一生の仕事にするには様々な点で難しい。せっかく資格を取っても、最初の3年でもっと労働条件のいい、精神的肉体的ストレスのかからない、実入りのいい仕事を見つけてこの世界から足を洗う者は多いのだ。3年はいい潮時だろう。斎場や死体置き場の独特の臭いが体に染み込む前にまっとうな社会に帰ることは賢明な判断だ。
本当に、ケイトのような、その気になれば他の職業の選択も充分可能な未来ある若者が、それもこんなに可愛い女の子が何を好き好んでエンバーマーなどになりたがるのだろうと、ルイなどにしてみれば首を傾げるくらいなのだ。
「もういいでしょう、ミス・ハヤマ、どうぞお引き取りください。先ほども申しましたように、あなたのことはわたしからあの方に伝えておきます。ドクター・ジョーンズのことは私は直接は存じ上げませんが、M氏とは昔交友があったとお聞きしています。まだお若かったはずでしょうに、亡くなられたとは残念なことです」
「52才でした。どこも悪いようには見えなかったのに、蜘蛛膜下出血で。全く突然の出来事でした…」
「M氏も、残念がられると思いますよ」
「あの…たぶん『M』は知っていると思います」
ケイトは首を傾げて一瞬考えこんだ後、思いきったように言った。
「叔父の葬儀があった時、お悔やみのカードがたくさん送られて来たんですけれど、その中に一通、名前も宛名も書かれていないカードがあったんです。百合の花の透かしが入っていて、詩篇の一節が引用されていました。そうして、Mという署名が…あの時は、それが誰からのものか見当もつかなかったけれど、アルバイト先の病院でそのエンバーマーの噂を聞いた時に、ああ、そうかって合点がいったんです。父のエンバーミングをしてくれた人が誰なのか。そうして、その人と叔父との間にはずっと交流があったのかもしれない。もしかしたらあたしのことも叔父を通じて知ってくれてるかもしれない。そう考えると、親しみって言ったら変だけれど、何だか無性に『M』と会って話をしてみたくなったんです」
「あなたのことなんかに、あの方が関心を払うとは思えませんね」
別に『M』に関わることで自分の知らない事実をこの突然現れた小娘が持ち出してきたからではないが、ルイはちょっと不機嫌になって、冷たい口調で彼女をあしらおうとした。
「あの方は生きている人間には興味はないんです。やはりあきらめた方が賢明ですよ。会っても、失望するだけですから」
しかし、ケイトはルイの予想以上に強情だった。
「お願いです」
ルイの冷やかな視線を真向から受けとめて少しもひるまず、真摯な口調で彼女は言った。
「あたし、どうしても彼に会いたい…会わなきゃ、いけないんです」
またしても、その大きな黒い瞳にルイは捕らえられそうになった。
全く、どうしてこんなにも落ち着かない気分になるのだろう。こんな、まだ大学も出ていない世間知らずの女の子に気圧される自分もどうかしている。けれど、その必死になって何かを追いかけているようなひたむきさが、何だか恐い。
そう、恐いのだ。
「ああ、もう、分かりましたよ」
この追いつめられた状況から逃れたいばかりに、ルイは叫ぶように言った。
「あなたがあの方に会えるように取り計らってあげます」
「本当っ?!」
「ただし、もしあの方が会いたくないといえば、それまでですからね。あなたの連絡先をここに書いてください…メール・アドレスもね」
突き出されたメモにケイトは慌てて自分の電話番号やらメール・アドレスを書いて、ルイに返した。
「数日以内に『M』から直接、それが駄目ならわたしから連絡を差し上げます」
「本当…に?」
それまでのルイの態度があまり協力的ではなかったことから、ケイトは少々疑わしげだ。
「だって、そうしなかったら、あなたはまたここに押しかけてくるつもりでしょう? わたしもそれはごめんですからね。『M』がどうしても会いたくないと言うのならわたしも無理強いはできませんが、こうなったら1度はあなたが彼に会えるよう手を尽くしてみますよ。その代わり、それ以上は無理を言わないこと、会ってがっかりしたとか傷ついたとか、そんなクレームもいっさいなしですからね。もちろん、あの方についての誹謗中傷を行なうようなら、こちらもそれなりの対処を取らせていただきます。よろしいですね?」
最後はちょっと脅しの意味を込めてすごんだつもりだったのだが、ケイトには通じなかったようだ。ほとんど踊りあがらんばかりの勢いでソファから立ちあがると、思わずひるむルイの手を彼女はしっかり握りしめた。
ケイトの手はひどく冷たかった。
「ありがとう、ファレルさん。無理を言ってごめんなさい…でも、本当によろしくお願いします。あたしにとっては、とても大切なことなんです」
素直に感激しているケイトを、ルイは半ば呆れたような、不思議なものを見るような目で凝視した。
「大切なことねぇ…わたしにとっては、やはり物好きにしか思えませんよ。それに、あまり感心する行動でもありません。死者との別れをきちんとすませたなら、その後は、皆日常の生活に少しずつ戻っていくべきなんです。遺族の方々の気持ちにけじめがつくようにわたし達はお手伝いするだけの存在で、葬儀が終ると共に彼らの人生に二度と関わりを持つことはない。そうあるべきなんです。あなたのように自分からいつまでも死者の世界にかかわりを持ちたがるのは、何だかとても不健康な気がしますよ…」
ルイは自分の感じたことを何となく口に出してみただけなのだが、その途端なぜか、人懐っこい微笑みをたたえたあどけないケイトの顔はふいにあらゆる表情を失った。ほとんど虹彩の分からないくらい真っ黒な闇色の瞳が何かに慄くかのように大きく見はられる。ルイは、遺族の前でついうっかり言ってはならないタブー的なことをもらしてしまった時のように、ひどくうろたえ気まずくなって黙り込んだ。
「うん…そうね」
ルイの内心の動揺ぶりを知ってか知らずか、ケイトは素直に認めた。
「どんなに身近で親しい人が死んだって、残された者達は生きつづけなきゃならないんだものね」
それから、テーブルの上のパンフレットを一部取り上げ、また先程までの明るく邪気のない笑顔をうかべて言った。
「これ、もらって帰ってもいいですか?」
その表情に何となく救われる思いで、ルイは優しく微笑み返した。
「あ…ええ、どうぞ、どうぞ…」
「じゃあ、連絡待っています。今日は、本当にありがとうございました」
もらったパンフレットをリュックに押しこみ、最後にもう一度ケイトはルイに向かってにっこり笑った。
「…暖房、結構きかせていたつもりなんですが、寒かったですか?」
先程触れたケイトの手が妙に冷たかったことを思い出して、ルイは尋ねた。
「え? いいえ、充分暖かかったですよ。手袋もなしで長い間ここを探しまくっていたから、きっと芯まで冷えちゃったんでしょうね。日差しはずいぶん明るくなってきたけれど、まだまだ寒いですね」
「ええ、まだ2月ですからね…迷わずに帰れますか?」
ジャケットを羽織りマフラーを首にぐるぐる巻きながら、ケイトは、心配そうに尋ねるルイを扉の所でもう一度振り返った。
「大丈夫です。迷っている間にこの近くのバス停を何度も取りすぎたおかげで道を覚えちゃった。それじゃあ」
扉が開くと小さな鐘が何個も吊るされた呼鈴が鳴り、外からの冷たい風が事務所の中まで吹き込んでくる。
「あ…」
ルイはとっさにケイトを呼びとめようとした。が、それより先にケイトの姿はすばしっこい猫のように外に滑り出ていき、扉は再び閉じられた。
ルイはしばしそこに立ちつくし、奇妙な顔をしてケイトの消えていった扉を凝然と眺めていた。彼女を呼びとめようとしたのは一体なぜだったのか、何を言おうとしたのか、ルイにもよく分かっていなかった。
やがて、疲れたような溜め息をつき、気持ちを切り替えようと両手の中指でこめかみの辺りを押さえると、ルイはくるりと踵を返してデスクに向かった。手にはケイトから預かったメモがある。
デスクの椅子にどさりと腰を下ろし、そのメモをしげしげと見てちょっと考えこんだ後、ルイは思い切ったように電話の受話器を取り上げた。