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この世の果て  作者: 葉月香
19/37

第4章月に濡れて(3)

 あたしは、とても綺麗な人を知っている。

 あんなふうな人が現実にいるなんて信じられない、不思議な硬質な美しさを持つ人。

 太陽のように照り輝くのでも、咲き開いた花のように馥郁というのでもない、まるで冷たい湖 の面に映った月の影のように凍りついた―。

 哀しいくらい誰も寄せ付けようとしない人を…。 





(変な夢、見ちゃった)

 事務所からマリエルの自宅兼仕事場へ薬品類を運ぶために車を走らせながら、ケイトはあくびを噛み殺した。

 昨夜見た夢のおかげで、早く寝たはずなのにあまり疲れは取れていない。

 今日は特にエンバーミングの予定は入っていないからいいが、この状態でもし異常死体の処置などを5時間とか6時間もぶっ通しの立ちん坊でやったら、かなり辛いだろう。

 やがて目的地に着いたケイトは、運転席で思いきり伸びをした後、車を降りた。

「マリエル、こんにちは」

 薬品瓶を乗せたカートを押して作業所の玄関にたどり着いたケイトは、扉を押し開きながら声をあげた。

 扉に鍵はかかっていなかった。

 用心が悪いなと思いながら、ケイトはもう一度この家の主を呼んだ。

「マリエル、注文の荷物を届けに来たわよ。倉庫に持っていくから、チェックしてよ」

 返事はない。

 もしかしたら母屋にいるのかもしれないと思ったが、この時間は大抵、彼は作業所の2階にある研究室にこもっていることが多いことを思い出し、ケイトは階段を上がっていった。

「マリエル、そこにいるの?」

 しんと静まり返ったエンバーミング処置室の前を通りすぎ、ケイトは、マリエルが個人的な研究の為に使っていると言っていた、その部屋の前で立ち止まった。

 ここから先はマリエルの聖域のようなもので、彼は助手であるケイトにも見せることはなかった。

 ケイトも好奇心は覚えるものの、今までに中に入ろうとしたことはなかった。大体、マリエルが嫌がることを一度でもしたら、それきり彼は自分を拒否してしまいそうな気がして、何だか恐い。

 だから、ケイトは控えめなノックをして呼びかけるだけにした。

「マリエル、そこにいるの?」

 しばらく何の音もしなかったので、やはりいないのだとケイトは踵を返しかけたが、その時微かな物音が聞こえた。

 振りかえったケイトの前で扉が小さくきしむような音をたてて、半分だけ開いた。

「マリエル」

 暗い水底から浮かび上がった水死体のように、マリエルの青白い仏頂面が仄暗い扉の隙間から覗き、放心したような青い瞳が奇妙な闖入者を見るかのようにいぶかしげにケイトを捉えた。

 人がこんなホラーな登場の仕方をしたら普通は不気味よねと、ケイトはどきどきしながら独りごちた。マリエル、あなた絶対顔で得をしているわよ。

「あ、ごめんなさい。もしかして、邪魔しちゃった?」

 マリエルの無表情から、その内心を推し測ることは難しい。

 ケイトはとっさに彼の機嫌を損ねてしまったのではないかと焦った。

「ああ、ケイト。あなたでしたか…」

 マリエルは夢から覚めたようにまばたきをした。ふっと微笑んで、ケイトの前に扉を大きく開いた。

「ちっとも邪魔じゃないですよ。そんな不安そうな顔をするのは、およしなさい」

 ケイトは胸を撫で下ろした。

「よかった、あなたの研究の邪魔をしちゃったのかもって思ったわ。呼んだのに、返事がないから、ここまで勝手に上がってきちゃった」

「すみません、ネットで調べものをするのに熱中して気がつきませんでした」

「それは、もう終わったの? よかったら、先にすませてきて。あたし、下で待ってるから」

 マリエルはそっと首を横に振った。

「いいえ。別に大したことじゃないんです。いつでも調べられるようなことだから、そんなふうに私に気を使わなくてもいいんですよ、ケイト」

「ふうん。でも、調べものって、何…?」と言いかけて、ケイトは口をつぐんだ。マリエルに詮索好きな娘だと思われたくなかったのだ。

 だが、マリエルは別にケイトの問いかけを気にした様子はなく、あっさり答えてくれた。

「遺体の冷凍保存を手がけている会社のホームページにアクセスして、ちょっとした問いあわせと資料の請求をしかけていたんですよ」

「冷凍保存? 一体どうして、そんな?」

「クライオニクスと呼ばれる、その技術は、不老不死という究極の目的からすると私の専門とは全く別の分野のものなんですが、遺体保存という観点からリサーチの対象にしているんです」

「リサーチ」

 ケイトは目をぱちくりさせた。込み上げてくる好奇心を抑えきれずに、つい、マリエルの背後に覗く研究室をちらっと見やる。

「興味があるんですか?」

 ぼうっとしているようで案外目ざといマリエルに素早く追求されて、ケイトは焦った。

「ごめんなさい、つい…」

 マリエルは少し考えこんだ後、扉の所から一歩下がって、ケイトを中に招じ入れるような仕草をした。

「それほど気になるのなら、ちょっと中に入ってみますか?」

「え、ええっ、いいの?!」

 サンドラのエンバーミングが終わって、しばらくマリエルは悄然と落ちこんでいた。まるで大切な恋人か何かを失ったようだと、時折寂しげに溜め息などをついている姿を見てケイトは思ったものだ。ポールではないが、死者に傾倒し入れこみすぎる彼にケイトもさすがに危うさを覚えるほどだった。

 しかし、やっと思いきることができたのか、この2、3日は以前の生活のペースを取り戻していて、しばらく放り出していた研究にも戻れるあたり、マリエルはもう大丈夫そうだ。

 そして、あの一件が終わって以来、何故かマリエルはケイトに対して急速に打ち解けてきたような気がする。

 無愛想なのは相変わらずだし、もしかしたらケイトの思い違いなのかもしれないが、この頃のマリエルは自分のテリトリーにケイトが存在することを受け入れるようになってきた。

 今もどういう風の吹きまわしでか、ケイトに自分の研究室を見せようとしている。

 サンドラのエンバーミングを共に手がけ、彼女の運命に対する哀しみと怒りを共有した、あの体験が、マリエルのケイトに対する見方に影響を及ぼしたのかもしれない。

「どうしたんです、入らないんですか?」

 入り口で中に入ることを躊躇するように立ち尽しているケイトに向けて、マリエルはからかうように言った。

「嫌なら、いいんですよ」

 ケイトは顔を赤くして、答えた。

「嫌じゃない」

 誘うように目を細めるマリエルの表情に、一瞬昨夜の不思議な夢を思い出して息がとまったが、ケイトはもはや迷わず、彼に向かって頷きかけた。

「あなたの世界を、あたしに見せてよ」





 人間臭さをおよそ感じさせない整然とした部屋は、起動したままのパソコンデスクの辺りにだけは、広げられた分厚い専門書とかびっしりと書きこみのされたノートにペンとか、人が実際にいて仕事をしているのだという気配があった。

「クライオニクスというのは、1960年代には既に存在した概念なんです。つまり、死後直後の体を冷凍保存し、遠い未来にこの世に再び復活するという希望を持つ人々は、案外早くからいて…この会社は1970年代の初めに設立され、遺体の冷凍保存を扱う同種の会社の中では最大手です」

 パソコンの前にケイトを坐らせて、その会社のホームページを見せながら、マリエルは彼にしては妙にうきうきとした調子で説明しだした。

 ケイトはそれよりも机の上でマウスを操るマリエルの手の方につい目がいってしまった。いかにも器用そうな、指の長い、ほっそりとした手は、とても男性のものとは思えないくらいに美しい。

 ふとした弾みに、その手が机の上に乗せていたケイトの手にあたると、彼女はびっくりしたように引っ込めた。

 マリエルの手はひんやりと冷たい。妙にうろたえながら、ケイトは胸の前で彼に触れた手をそっと撫でた。

「どうかしましたか、ケイト?」

「う、ううん、何でもないの。話を続けてよ、マリエル」

 マリエルは一瞬うろんげにケイトを眺めたが、すぐにパソコンの画面に注意を戻した。 

「当初の保存技術はあまりにも未熟なもので、処置を受けた遺体が将来蘇る可能性は低いでしょうが、最近は技術的にも色々と進歩しています。実際にどうするかというと、死後すぐに遺体は氷詰めにされてクライオニクスの設備の整った施設に運ばれます。そして、そこで体内の血液をグリセリンベースの不凍液に入れかえる…この辺りはちょっとエンバーミングの手法に似ていますよね。処置のすんだ遺体は、液体窒素によってマイナス200度まで冷やされて、金属製の低音維持装置の中でいつか来る復活の日まで眠り続けるという訳です」

 冷凍保存用の金属カプセルらしいものが写っている画像を凝然と睨みつけているケイトの顔を、マリエルが横から覗き込んだ。

「どう思いますか?」

 ケイトは目をぐるっと回して、しばらく考えこんだ。

「どうって…何と言えばいいのか分からないわ…これは、結局自分達の為に不老不死を求める人達の活動なわけで、死者の尊厳を守り、遺族の哀しみを和らげるという、あたし達エンバーマーの仕事とはあまり関係ないもの」

「その通りですね」

 マリエルはふと意味ありげな顔で笑った。

「自分のことは、将来に復活する可能性があるならと大金をはたいてまで厳重に保存したがっても、自分の身内をただ傍に置いて、その思い出を忍ぶためだけに同じ労力をかける人はあまりいない。実際ね、エンバーミングによって恒久的に遺体を保存する技術もあることはあるんですよ。今の所、需要がないだけでね。こんな話があります。ある葬儀屋が、道路拡張工事に同意した為、埋葬から1年ほど経った棺を移動しなくてはならなくなった。すると、その遺体が完全に保存されていることが分かった。自分の仕事に誇りを持った葬儀屋は、それを見に来て欲しいと遺体の近親者を招待したのですが、彼らは強く拒んだというのですね。つまり、エンバーミングとはあくまで特別な儀礼目的でなされるものなんです。一度葬式が終わってしまえば、家族は、あれほど念入りに飾り立て、その傍で涙を流して別れを惜しんだ、かつての同朋に再び地下から掘り起こしてまで会いたいという願望を持つことはない。エンバーミングに要求されるのは、僅か2、3週間だけ腐敗を遅らせ、遺族の目に触れる間死者に生きている感じを与える、それだけなんです」

 マリエルが自嘲的とも取れる笑みをうかべたので、ケイトは幾分慌てて言い返した。

「それだけなんて言わないで、マリエル。遺体の冷凍保存なんかよりずっと、あなたの仕事の方が人を救っているとあたしは思うわ」

 美しい姿を取り戻したサンドラに面会した時、マーサのやつれた顔が喜びと安堵の涙に濡れた様を、ケイトは思い出していた。

「遺族にとってはそうなのだと信じることは、私にもできる。けれど、最後の別れを告げるごく短い期間だけ必要とされ、後は誰の目にも触れない所で朽ちていく死者達にとってはどうなんでしょうね」

 ケイトはどう答えたらいいのか分からず、黙りこんだ。

 残された遺族の哀しみを癒すことを第1に考えるのがエンバーマーだが、マリエルは、それより何より死者のことを考えている。死んだ人間にもある種の意識や感覚があると、たぶん本当に信じている。

 ケイトには、さすがにそこまでは共感できなかった。

「いいんですよ」

 まるでケイトの気持ちを読み取ったかのように囁いて、マリエルは彼女から離れた。

「私にだって、実際の所、死者の感じることについて確信があるわけじゃないんですから」

 ケイトは椅子から立ち上がって、部屋の中をゆったりと歩いていくマリエルの後を追いかけた。

 そうしながら、壁沿いにある大きな本棚にぎっしりと詰め込まれている本にさっと視線を走らせた。エンバーミングの専門書は無論、解剖学、法医学関連、古代エジプトや中国のミイラ製法等の歴史書や世界各地の死の習俗に関する本、よくもここまで集めたものだと感心するような、死を取り扱ったありとあらゆる書物がおさめられている。 

「私がここで研究しているのは、つまりは、より完璧な遺体保存技術と言えると思います。エンバーミング用の薬品を販売する幾つかの会社とも提携をしての防腐剤の研究とか―この間サンドラに使用した配合剤もその一環を兼ねていました。その観点からは、より自然な姿を保てる防腐処理というのが主な目的であり、より長く恒久的な保存には先ほども言ったようにあまり意味がない。そのはずなんですが、私個人はそちらにも関心を覚えていて、色々試してはいるんです」

 そう言って、マリエルは大きな戸棚を開き、中から1つの木箱を取り出して机の上に置いた。

「何、それ?」

 ケイトが机に近づき、マリエルの隣に立って覗き込む。

 マリエルは木箱の蓋を開けた。

 ケイトの目が、大きく見開かれる。

「これって…ハリネズミ…? 死んでるの?」

 箱の中には、そこに詰められた白い布に埋もれるように、小さなハリネズミが、寒い冬の間土の中で冬眠している姿そのままに丸くなっていた。

「そう…」

 マリエルは、ケイトの反応を窺いながら言った。

「まるで生きているみたいでしょう? 触ってご覧なさい」

「え、ええ」

 マリエルは箱の中からその小動物を取り出すと、ケイトの広げた手の上に乗せた。

「軽い…」

 思ったよりも重みの感じられないことにちょっとびっくりして、ケイトはハリネズミのちくちくしそうな毛にそっと指を滑らせた。ピクリとも動かないところをみると、やはり死んでいるのだ。それに体重だって、軽すぎる。

「それは、凍結乾燥保存の処置を施してあるんです。1年程前に私が庭先で死んでいるのを見付けたんですが…たぶん野良猫にでもやられたんでしょうね…傷はそれ程なかったんですが、こういう小さな生き物は、襲われたショックだけで心臓がとまってしまうことも多いんですよ。丁度と言ってはなんですが、私はサンプルを探していたので、その死体をある会社に送って凍結乾燥の処置を頼んだんです。近年ペットロスについての研究やそれに関するビジネスも盛んになってきていますが、これもその内の1つで、目を除いてはほとんど完璧な姿を半永久的に留めることができる。飼い主が死ぬまで、あるいはペットの死を受け入れて思い出だけで満足することができるまで、その在りし日の姿は地上にずっと留められるというわけです。無論これも賛否両論ありますが、それでも必要とする人がいるから、ビジネスとして成り立つ」

「へぇ…色んなことを、人間は考えつくのね」

 半分は感心し半分はやはり違和感を覚えながら、ケイトは手の中の小さな死体をためつすがめつ観察した。

「クライオニクスにしても、凍結乾燥されたペットも、それを言ったら、当たり前のように普及しているエンバーミングだって、何だかとても不自然な思い付きよね。それとも、人間だから、そんなことを考えてしまうのかしら。例え自然に逆らったことでも、もしかしたら何の意味もないのかもしれないと思いながらでも、死ぬ前の姿を少しでも長い間留めておきたくなる…身近に置くことまではできなくても、せめて記憶の中では、土の中に埋められる最後の瞬間まで生き生きとした人間らしい姿として記憶できるように…感傷と言ったらそれまでだけれど、人間って良くも悪くもそういう生き物だから…」

 ふと不安な胸騒ぎを覚え、ケイトは顔を上げてマリエルを見た。

「まさか…その…凍結乾燥の技術を人間にも応用しようって訳じゃ…」

 思わず想像したケイトが青ざめるのに、マリエルは少し意地悪な顔になって、冷たく尋ねた。

「どうして、いけないんです? ぞっとするとか気味が悪いとか言うのはなしですよ。あなただって、死を扱うプロになるつもりならばね。それに、エンバーミングの処置だって、考えてみれば随分ぞっとするものだと思いませんか。血管を通して防腐剤を注入したり、内臓を吸いとったり、切ったり、縫ったり…。エンバーミングが発案されたのは南北戦争の時代、戦死者の遺体を遠く離れた故郷に送るために防腐処置の必要が生まれたからですが、それでも、初めに思いついた人は、色んな意味で当時の常識を乗り越えなければならず、大変だったのだろうと想像しますよ。エンバーミングを普及させたと言われるトマス・H・ホームズは、南北戦争の4年間におよそ4000体の遺体の処置にあたったそうです。いくら戦争中とはいえ、大変な記録と言えるでしょう。さすがに私にも真似できそうにない。つまり、先駆者というのは、他人が尻ごみしそうなことでもあえて挑戦しようとする意思と信念を持たなければならないということなんです」

「そ、それは、そうかもしれないけれど…」

 ケイトはマリエルの珍しい長口舌に圧倒されて、くらくらする思いだった。

 さっきからびっくりしていたのだけれど、こんなにしゃべる人だったろうか。いや、放っておけば、1日中でも平気で黙っているような人だったはずだ。それとも、いわゆる専門家馬鹿というあれで、関心のある、限られた分野についてだけは、次から次へと言葉が出てくるのかもしれない。

「でも、人間をフリーズドライにしちゃうなんて無理よぉっ」

 頭の中がすっかり混乱してしまって、ケイトは途方に暮れたように、そう叫んだ。

 すると、マリエルの淡々とした声が、意外にあっさりと答えた。

「ええ、無理ですよ」 

 目をぱちくりさせるケイトの手からハリネズミのサンプルを丁寧に取り上げ、手の中で撫でながら、マリエルは言った。

「体毛に覆われている動物とは違って、人間には向かないと思いますよ。古代のミイラよりは幾らかましな姿にできるでしょうが、肌の質感とか色味とか、それこそ、生きているような自然さはたぶん望めない…そんなぞっとするような代物は誰も望まないし、私も作りたくはありません」

 マリエルの色味のない瞳が微かな悪戯っぽい光をたたえて笑っているのを、ケイトは認めた。

「あ…ああ、もう、あたしをからかったのねっ。趣味悪いわよ、マリエル」

「すみません。だって、あなたの反応はあんまり素直で率直で、そういう普通の人の反応というものを目にするのが私にとっては新鮮だったものですから…」

 ケイトが真っ赤になって怒ったように頬を膨らませるのに、マリエルはそれ以上無表情を維持することは不可能だとばかりに、肩を軽く揺すって笑いだした。

 マリエルが声をあげて笑うところなど、ケイトは初めて見た。ポールに話したって、きっと信じてもらえないだろう。別に大爆笑したわけではなく、ごく控えめに低い笑い声をたてたに過ぎなかったが、それでも、何だか今までにないマリエルの顔が見られたようで、ケイトは嬉しくなった。

 それに、その笑顔は実際とても綺麗だったのだ。そう、こんな綺麗な人は見たことないと思うくらいに。

「ええ、これは本当に基礎的な研究の一部でしかなくて、凍結乾燥法をかつてのホームズ博士がエンバーミングを始めた時のように実際に取り入れるなんて考えているわけではないんですよ。私がしたいこと、できたらいいなと漠然と思っていることは、死んでも生前と変わらぬ自然な姿をいつまでも残せる技術の確立…ただし、この国の今の状況ではそれ程需要があるとは思えないので、私の胸の中でだけ存在する夢なんですね」

 マリエルはハリネズミをそうっともとの箱の中に戻して、蓋をした。

「ふうん。マリエルの夢ね…どういう形でか分からないけれど、叶ったら、いいわね」

 どんなふうに叶えられるのか、ケイトにはちょっと見当もつかなかったが、マリエルが当たり前の人間のように『夢』などを抱いていて、それをケイトに話してくれたということに、何となく気をよくしていた。

 ポールはマリエルのことを死人のようだと評しているけれど、生きた人間らしいところだってちゃんとある。ただ、その情熱の方向が、普通とはかけ離れているだけなのだ。

「ありがとう」

 マリエルは幾分恥ずかしげに小さく呟いた後、確認するかのように付け加えた。

「でも、気味悪くないですか、こんな…死体のことばかりに熱中している私なんかと一緒にいて…?」

「ううん、平気よ。たぶん、他の人が同じことをするのを見たら、また感じた印象も違うのかもしれないけれど…何だか、あなたは特別なような気がするから」

「特別?」

「うん、よく分からないけれど、死んだ人達に選ばれてるっていうか、普通の人よりもずっとあっちの世界に近い場所にいるような人だからかしら…? あなたが死について語ってもごく自然に聞こえるのよ」

 マリエルはケイトに向き直り、改めて、何かに気づいたというようにその顔につくづくと見入った。

 これまで見たことのないような優しい表情をうかべているマリエルに、ケイトは心臓の鼓動が早くなるのを意識した。

 一体、どうしたのだろう。いつも心あらずの、この頃大分ましになってきたとはいえ、ケイトのことも見ているんだかいないんだか分からない微妙に焦点のあっていない目を何とはなしに向けるだけのマリエルが、こんなふうに熱心にケイトの顔を見つめるなんて。

 嬉しいけれど、何か、変。そう、とても嬉しくはあるけれど。

 また顔が真っ赤になっているのではないかと心配になりながら、かと言って顔を背ける訳にもいかず、いつもよりずっと温かみを帯びている水色の瞳にケイトは見入っていた。

 すると、マリエルがふいに思いがけないことを言った。

「初めに会った時は、あなたは亡くなった父親似なのだなと思いましたが、こうして話をしているとやっぱり…ドクター・ジョーンズにもよく似ているんですね」

 どこか悲しそうにも見える、懐かしげな微笑みをマリエルはうかべた。

 ケイトは虚をつかれて、問い返すこともできずぱちぱちと瞬きをした。

「外見は全く違うんですが、どこがどうというのではなく、ちょっとした言葉や態度の端々が彼を思い出させます。ドクター・ジョーンズも、優秀な医師としてあれほど社会的な地位と名誉に恵まれた方にもかかわらず、いつまでも子供のような純真さを持っていらしたから。それに、私に対して、他の人のように気味悪がって避けるのではなく、そんなふうに心を開いて率直な態度で話してくれるところもね。おかげで彼のことが懐かしく思い出されましたよ」

 ケイトは戸惑いながら、マリエルをまじまじと見返した。

 生きている人間にはいつも無関心なマリエルが、こんなふうに他人のことを、しかもケイトにとっては叔父という身近な人間のことを語るのが意外だった。

「あ…叔父さんとは、結構、親しかったの…?」

 マリエルがかつて叔父のもとで働いていたということは、初めて出会った夜にマリエルから聞かされていたけれど、それきり話題に出ることはなかったものだから、こんなふうに慕わしげに叔父のことを話しだす彼が不思議だった。

「ドクター・ジョーンズにはよくしてもらったのだと、私は言いませんでしたか?」

 当惑しているケイトに、マリエルは小首を傾げた。

「それは、聞いたけれど…」

 ただ、マリエルのあの無関心な口調でなされたものだったから、叔父との間にそれほど親しい交流があったとは考えていなかったのだ。

 けれど、叔父の頼みで違法なエンバーミングを引きうけた、その為に資格を剥奪されても、ケイトの父親の遺体の処置を行なったという経緯を考えれば、それは個人的にも非常に近しい間柄であったということが想像できるのではないか。

 ケイトは急に何だか息苦しいような、落ちつかない気分になってきた。胸の奥がちりちりと焼けるような気がした。

「だって…マリエルってあまり友達いなさそうだし…あたしの叔父さんとは年だって随分離れてるし…仲がよかったなんて、あまり想像できないんだもの…?」

「そうですか?」

 マリエルの方はケイトの複雑な心情になど気づく気配もない。人と付き合うことの少ない彼に女の子の微妙な気持ちを理解しろと言っても無理な話だし、それに、ケイト本人にも、もやもやと胸の奥底から沸きあがって彼女を息苦しくさせているこの感情が何なのか、分かっていないのだ。

「そうよ。大体、マリエルだって、生きてる人間より死体と一緒にいる方がいいなんて、いつも豪語してるじゃない」

 ケイトはどことなく膨れたように言い返した。何だか、亡くなった叔父に先を越されたような気がしていた。

「生きている人でも、一緒にいてそれ程居心地の悪くない人だっていますよ」

 マリエルは相変わらずの平静さで応えた。

「あなたの叔父さんがそうでした。あの頃の私は、どうしても死者に引き寄せられていく自分の性向にもまだ気づいていませんでした。それで、一応普通の社会人らしく病院務めをしていたわけですが、やはり、どうしても同僚達とうまくつきあうことができずに、結構悩みを抱えていたんですよ。どうして駄目なんだろう、何故こんなにも人付き合いができないんだろうって。今考えれば、私は周りとは違う特別な空気を既に備えていて、それが、他の人にとっては近寄りがたいものとして捕らえられていたんですね。けれど、ドクター・ジョーンズは鷹揚というか、ひょっとしたら少し鈍感な人だったからかもしれませんが、むしろ私のそういう風変わりな所に興味を抱かれて、病院内でもよく私に声をかけたり食事にも誘ってくれたりと、親しくしてくれたんです。私も結局は一人ぼっちで寂しかったので、気にかけてくれる人がいることがとても嬉しかった。仕事上でも彼は私を信頼してくれていて…できることなら彼の期待に応えたいと真剣に思っていました。結局は挫折して、私は医者を辞めて、この道に入ってしまったわけですが…」

 マリエルは途中で言葉を切ったが、悔いがなかったわけではないのだと言外に言っているかのように、ふと顔を曇らせた。

 マリエルが他人を気遣っている。信じられないことだ。

 ケイトはなぜか動揺して、マリエルの微かにうつむけられた顔から視線を逸らせた。

「そうだったんだ…叔父さんのこと好きだったのね」

 別に深い意味があって言ったわけではないのだが、自分がうっかり漏らしたその一言に、ケイトは奇妙なほどにうろたえて、口をつぐんだ。

 またしても胸の中のちりちりという感じが強くなって、痛みさえ覚えた。

 これは、一体どういう感情なのだろう。変だ。叔父さんにやきもちでも焼いているみたいだと思い至って、ケイトはショックを受けた。

 プロとして尊敬し、一生懸命に理解し近づこうとしているマリエルの心を、先に他の誰かが捕らえていたことを知ったからだろうか。いや、そんなさもしい思いではない。

 それから、小さい頃からずっとかわいがってもらった、大好きな叔父のことをケイトは思い出した。

 明るくて気さくで、誰からも好かれていて、友達も多かった。経済的にも裕福で、その気になればいつだって結婚できただろうに、不思議なことに生涯一人身を通した。女友達はいたみたいだけれど、恋人がいるという話は、そう言えば全く聞かなかった。身近な人のあまり考えたこともない一面に、ケイトは改めて思いを巡らせていた。

「そうですね、たぶん…好意を抱いていたと思います」

 マリエルも考えに沈みながら、そう呟いた。

「だからでしょうかね。あなたと一緒にいても、それ程息が詰まるような感じはなくて、とても楽なのは」

「あ、あの…あの…今思い出したことがあるんだけれど…」

 ケイトはふいに突き上げてきた衝動にかられながら問うた。

「何です?」

「こ、こんなこと聞いてもいいのかしら、もしかして失礼だったら、ごめんなさい…あたしの叔父さんって、ずっと独身だったの…あんなにハンサムで、優しくて、仕事もできて…だから、周り中が何で結婚しないんだろうって、いつも不思議がってた。理想が高いんだろうって、あたしの親は笑って言ってたけれど、そう言えば、本当に女の人とはそういうういた話の1つもなかったの。それが…いつだったか叔父さんの病院関係の人からちょっと変な噂話を聞いたことがあって…以前、若いレジデントと…その…ど…同性愛関係にあったんじゃないかっていうのよ…その人は結局すぐに病院をやめたので叔父さんとの恋愛も駄目になってしまったというのだけれど…その時は根も葉もないただの噂だと思ってすぐに忘れちゃったけれど…ま、まさかと思うけれど、それって…」

「私が彼の相手だったのかと聞きたいんですか?」

 マリエルにずばりと聞き返されて、ケイトは赤くなってうつむいた。

 これって、もし違っていたら、激怒されてもおかしくないくらい失礼な質問だ。どうして、こんな馬鹿なことを聞いてしまったのだろう。きっと、マリエルはひどく呆れているに違いない。

 ところが、マリエルは別に気分を害した様子も、だからといってケイトの感情を慮る様子もなく、至って淡々とただ事実を述べるようにこう言ったのだ。

「ドクター・ジョーンズの恋愛遍歴についてはあまり知りませんが、若いレジデントというのなら、たぶん私のことでしょうね。それに、あの人は恋愛についてもとても真面目な人で、決してそう多くの人と関係を持っていたわけではないと思いますし」

 マリエルがあんまりあっさりと認めたものだから、ケイトはそれこそ頭の中が真っ白になってしまった。

 大好きな叔父に同性愛の経験があったというだけでも結構こたえたというのに、その相手が目の前にいるこの人だなんて、もう信じられないくらいの衝撃だ。

「そ、そう…あなた、叔父さんの恋人…だったの……」

 息も絶え絶えの気分で、ケイトは途切れ途切れにそう言った。

「…びっくりしたんですか?」

 ケイトが呆けたような面持ちでぐったりと椅子の背につかまっていることにやっと気がついたらしい、マリエルは探るような眼差しをケイトの青ざめた顔に向けた。

「あたし…あたし…」

 ケイトは足元の床を仇のように睨みつけながら、気持ちを落ち着けようと深呼吸をした。

「だ、大丈夫よ、あたし、そういう関係にも理解あるから。ハイスクール時代の友達にも1人、そういう男の子がいたけど、すごくいい子で普通に付き合えたし…叔父さんが実は同性愛者だったというのはびっくりしたけど…でも、あたしはやっぱり叔父さんのことは大好きだし、叔父さんが恋をした、あなたのことも―」

 ケイトは顔を上げて健気らしくマリエルに笑いかけようとしたが、彼の顔にうかぶ気遣わしげな表情を見た途端に、気持ちが挫けた。

 言葉を詰まらせて、また俯いてしまうケイトに、マリエルは心底すまなそうに詫びた。

「その…恋人とは言ってもそれ程深い間柄ではなかったんですよ、たぶん…私との間にそういう経緯があったことで、ドクター・ジョーンズに対する見方をどうか変えてしまったりはしないで下さい。確かに私のような者と大切な身内がそういうことになっていたなんて聞かされて嫌な気分だったかもしれませんね。すみません、私はどうも人の感情を推し量ることは苦手で…それでよく人間関係に失敗してしまうんです」

「ち、違うわよ、マリエル。そんなんじゃないの、ただ…」

 ケイトは口篭もった。やはり嫉妬したんだと思った。それも、さもしい妬みではなく、胸を抉られるような苦痛に満ちたものだ。

「心配しないでいいですよ」

 マリエルの方はまだケイトの気持ちが分かっておらず、それに本当に人の感情を汲み取るのが下手なのだろう、ケイトの悲しそうな表情に戸惑い、彼女をなだめるためにこんなことまでわざわざ付け加えた。

「実際、その…ドクター・ジョーンズとの間には何もなかったと言ってもいいくらいなんです。私は彼のことが好きでしたが、ごく精神的な結びつきでしかありませんでした。実際…それ以上は踏みこめなかったんです。愛していると一時は思っていましたし、私の一風変わったところも受け入れてくれそうな彼とならうまくやっていけるかもしれないなんて期待もあったのですが、私は、どうしても…恋人としてごく自然な行為に…つまり彼に触れられることに我慢できなくて…拒否してしまったんです。それでもいいなんて彼は言ってくれましたが、私の方がそうなると気まずくて…仕事をやめたのは、それも一因ではありましたね、確かに」

 ケイトは本当に頭が痛くなってきたような気がした。

「あ、あたし…何もそこまで聞いてないのに…言う…」

 ケイトはがくりと頭をうなだれて、低く呟いた。

 そんなケイトを、マリエルは両手を胸の前で組み合わせ、おろおろしたように見守っている。

「ケイト」

 まだマリエルが何か言いそうだったので、ケイトは慌てて手を上げ、彼を制した。

 これ以上はもう聞きたくない。頭の中が破裂しそう。お願いだから何も言わないで。

「仕事、片付けてしまってもいい、マリエル? あたし、もう今日はすぐに帰るから」

 そう言って、ケイトはマリエルの返事も待たず、先に研究室を飛び出すと、一階まで階段を駆け下りた。

 マリエルが昔付き合っていた恋人の話をこれ以上聞きたくなくて逃げ出すなんて、どうかしている。マリエルには変な娘だと思われただろう。自分でもそう思う。

 でも、これ以上聞いたら、きっと何か馬鹿なことをしたり口走ったりしてしまいそう。

 今でもマリエルに自分の顔を見られたくない。大好きな叔父さんにやきもちなんか焼いてしまった自分はきっと今すごく嫌な顔をしているに違いないもの。

 マリエルの声が何か呼びかけるのを聞いたような気がしたが、ケイトは耳をふさいで答えようとはしなかった。

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