第4章月に濡れて(2)
月の光に照らし出された中庭を、ケイトは見下ろしていた。まだ寒い時期のことであり、枯れた芝生は白っぽく見える。
やがて、下の階から扉を開く低い音がしたかと思うと、マリエルのほの白い幽鬼じみた姿が庭に出てくる。
声をかけることもせず、息をひそめてケイトが見守る内に、マリエルは枯れた芝生の上を横切って、向かいにある作業所の中に入っていった。
一体、何故? 何をしにそこに行くの?
ケイトは胸の奥がちりちりと焼けるような苦しさを覚え、惑乱し、震えた。
作業所の灯りはつかない。
ついにこらえきれなくなったように窓枠から離れ、部屋から飛び出したケイトは、階段を駆け降りて庭に出ると、マリエルの後を追ってまっすぐ作業所に向かった。
この建物は、こんなにも威圧的に感じられるほど高くそびえたっていただろうか。
作業所の扉の前で、ケイトは一瞬足をとめた。
中に入るのかい? 扉が、そうささやかかけてきたような気がした。
ケイトはふと躊躇ったが、脳裏によみがえったマリエルの青い目、ここまで追いつけるかと試すかのように冷たく輝いている瞳に、迷いを払いのけた。
ケイトは、目の前で固く閉ざされている扉に震える手で触れた。体ごと押しながら、その内にいる者に心の中で狂おしく呼びかけた。
マリエル、マリエル、あたしを中に入れて。あなたの見ている世界を、あたしにも垣間見させて。
ケイトの声が届いたのか、扉はふいに音もなく開かれた。
作業所の奥へと続く、暗く長い廊下が、目の前に現れる。
ケイトははっと息を吸い込んだ。
瞬間、全身に震えが走った。思うように動かない足を叱り付けながら、ケイトは暗闇の中に踏み出した。
ゆっくりと、そのまま作業所の奥にあるゲストルーム目指して、ケイトは歩いていく。
そのうちに、ケイトの耳は奇妙な低い音を捕らえた。
どこかで聞いたことのある古いジャズが奥から流れてくる。
その音楽に混じって、まるで多くの人間がごく低い声で囁きかわしているかのような、ゆっくりと動き回っているかのような物音が、確かに聞こえた。
おかしい。そんなはずはない。ここには、マリエルしかいないはずなのに。
いつの間にか、ケイトはゲストルームの前に立っていた。
扉の隙間から淡い金色の光が漏れている。外から見た時は、灯りなどついていなかったはずなのに。
古いレコードをかけているのだろうか、時々ぷつっと雑音の入るジャズの曲と人の話しあう声が中から聞こえる。
マリエル、一体誰と一緒にいるの?
ケイトは、ついに扉を押し開いた。
とたんに、部屋の中から目もくらまんばかりのまばゆい光が溢れ出し、ケイトは一瞬何も見えなくなった。
(見たことがあるんです…輝く世界を…)
いつか聞いた、マリエルの言葉が思い出された。
その部屋の中では、何もかもが眩しいくらいに輝いていた。
しかし、一瞬目がくらんだ後は、ケイトはすぐに慣れた。
太陽のように長く見つめることはできない明るさではなく、そうしようと思えばいつまでも見つめていられる、そんな光だった。
このゲストルームは、こんなに広かったろうか。
ちょっとした広間くらいある、その部屋では、幾人もの人達が談笑していた。親しい友人達を集めた小さなパーティーでもあるかのようだ。
そこにいる全ての人物は、まるで体の内部から発しているかのような不可思議な光を放っていた。不思議なことに、それぞれの顔が違うのと同じように、光にも個性があって、彼らが笑って体を揺らしたりする度に光も変化した。
呆然となって部屋の入り口近くで立ちつくしていたケイトは、やがて、それら客達に見覚えがあることに気がついた。
壁の方に寄せられたカウチにカクテルグラスを手に座っているのは、写真で見たことのあるマリエルの死んだ祖父母だ。
そこから少し離れた所で古いステレオを覗き込むようにしてレコードが回るのを見守っているのは、他ならぬケイトの叔父ジョーンズ医師。彼は、可愛い姪っ子がこの部屋に入ってきたことに一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに懐かしい優しい微笑みをうかべて、彼女に向かって軽く手をあげてみせた。
何か柔らかいものが脚に押しつけられるのを覚え、ケイトがぎょっとなって見下ろすと、銀色の見事な毛並みをした猫が彼女に体をすりつけている。猫は輝く青い瞳でケイトを見上げて、甘えるような声で小さくにいと鳴いた。
『マ、マリエル!』
動転した声をあげてケイトが顔を上げると、部屋の中央で、レコードの曲に合わせて踊っているカップルの姿が改めて目に飛びこんできた。
彼らもまた他の人達と同じあの光を放っている。
死んだサンドラ・リーブスを相手に流れるような優雅さで踊るマリエルがそこにいた。
ケイトの心臓が胸のうちで震え、ちりちりと焼かれるような痛みを発した。
サンドラは、ターンをする度にドレスの裾を青い炎のように翻し、輝くような美しい顔でマリエルに向けて楽しげに微笑みかけている。
ふわりふわりと、まるで体重などないかのような軽やかさで、マリエルの腕から離れてはまた戻る。彼女はすでに人間ではなく、この世のあらゆるくびきからも苦しみからも解き放たれて、幸福そうだった。
この世界を超えた所で永遠に舞い踊る、青く透ける羽を持った蝶のようだった。
踊る2人の後ろには、中庭に面して大きく取られた窓があった。窓は、この部屋に溢れかえる光を反射する鏡とかしたかのように、凄まじいまでに明るく輝いていた。
だが、その光源は、実際には窓の外にあった。
ケイトが息を飲むほどに巨大な月の塊が、まるで窓からこの部屋を覗き込んでいるかのごとく迫っている。
『あなたも、踊りませんか?』
その声のした方に顔を向けると、マリエルがサンドラと踊りながら、誘いかけるかのような眼差しをケイトに送っていた。
『私達と一緒に、ここで』
マリエルと踊っている女の姿はいつしか形を変え、若くして亡くなったマリエルの母になった。
ターンする度に広がる白いドレス。そのほっそりとした手が、自分の似姿でもある息子の肩にかかる。
『永遠に』
ここは、もうあの光に包まれた死者達の集うゲストルームではなかった。
ひっそりと静まりかえった墓地の中の小さな池のほとり。
頭上にはやはり、あの巨大なこの世のものならぬ月がかかっている。
この場所をケイトは見たことはなかったが、それでも知っていた。
子供時代のマリエルがよく母親と共に訪れた共同墓地。そこにあった池の中でマリエルは死にかけ、そして別の世界から発するあの光を見たのだ。
マリエルはふとダンスを止めて、魂を抜かれたように立ち尽しているケイトに体を向けた。
彼は異様な輝きを発する月をふと見上げ、それから、再びケイトを見た。
マリエルの手が自分に向かって差し出されるのを、その唇が誘うような不思議な笑みをうかべるのを、ケイトは息をつめて見守った。
梢を揺らす風の音めいた、捉えどころのない声で、マリエルは囁いた。
『月の下で、踊ったことはありますか?』