第4章月に濡れて(1)
マリエルが作業所の2階の窓から庭を見下ろすと、そこにケイトの姿があった。
まだ春先だが、よく晴れて暖かい午後の庭、彼女はどこかで買ってきた花の苗を鉢に植えている。
ガーデニングが好きだったマリエルの祖母の死後、庭はほとんど手付かずで荒れ放題になっていた。
それを見かねたのか、ケイトは庭の片隅に放置されていたテラコッタの鉢を幾つも引っ張り出してきて、花を植え始めたのだ。
「…もう一月になるのか、彼女がここに来るようになって」
隣に立つポールが呟くのに振り向きもせず、マリエルは微かに頷いた。
「こんなに長続きするとは夢にも思っていなかったぞ」
マリエルは薄い唇に微苦笑をうかべた。
「そうでしょうね。私も意外でした。すぐに音を上げて逃げ出すかと思っていたのに、案外がんばりますね、彼女」
ポールは一瞬躊躇するように黙り込んだ。
「いや、ケイトも意外だが、俺が今言ったのはおまえのことだ、マリエル」
マリエルはポールの方に顔を向けた。
「私が?」
ポールの思慮深い目は、マリエルの心を推し測ろうとしているかのごとく細められている。
「ああ、自分のテリトリーに他人がいることに耐えられなくなって、きっとケイトのことも追い出すだろうと思っていたんだ。ルイも不思議がっていた。そういえば、ケイトが初めて現れた時から、おまえの態度はいつもとは違っていたな。実際、今のように他人に対して打ち解けて接するおまえを、俺達は初めて見る」
マリエルは虚を突かれたように、まばたきをした。
「そんなふうに思っていたんですか?」
マリエルは首を巡らし、窓の下で花を植える作業に熱中しているケイトを再び眺めた。
「私は特別何も変わったことはしていないつもりですが…」
ずっと身を屈めての作業に疲れたのだろう、ケイトはふいに立ち上がって大きく背伸びをした。その目が大きく見開かれた。窓から彼女を見下ろすマリエルを見つけたのだ。
ケイトはマリエルに向けて屈託なく笑いかけ、大きく手を振る。
ついつり込まれてマリエルもケイトに微笑み返し、そっと手を振った。ふと顔をしかめ、彼は当惑したように己の手を見下ろした。
「…確かに、少しは違ったように見えるのかもしれませんね。ケイトを雇ってから真面目に仕事をするようになったおかげで、生活のリズム自体変わりましたし、それに随分周りが騒がしくなったような…あの年頃の女の子というのは皆あんなふうによくしゃべるものなんですか? もともと私は人と会話する習慣がなかったものですから、初めのうちはびっくりしましたよ。この頃は慣れて、気にならなくなりましたが」
マリエルは自分の言葉を吟味するようにしばらく黙り込み、それから、首を左右に振った。
「ケイトは、ドクター・ジョーンズの姪っ子らしいな。だからなのか? その…おまえが昔…」
マリエルはいぶかしげに眉を寄せた。
「他人の詮索なんて、あなたらしくありませんね、ポール」
マリエルはふと何かを思いついたようになって、腕を組み、ポールに向き直った。
「さてはルイの差し金でしょう。何を吹き込まれたんです?」
ポールは逞しい肩をすくめた。
「ルイはおまえを心配しているんだ。いい年をした大人相手に構い過ぎるのもどうかと俺は思うんだが、あいつはおまえを放っておけない病気みたいだな。何と言うか、過保護の親のようだ」
「やめてくださいよ」
マリエルは溜め息をついた。ルイのしかめっ面と甲高い声を思い出しながら、ガミガミ婆あと胸のうちで呟いた。
「おまえがケイトに関心を抱いているらしいと知って、何やら期待しているようだぞ、奴は」
「期待?」
「ああ。ともかくも、ケイトはちゃんと生きている人間だからな。おまえの興味がどんな類のものであれ、もの言わぬ死体よりはよっぽどましというわけだ。おまえがケイトを通じて人間嫌いを克服し、死者の世界の外にも目を向けるようになってくれればとルイは願っているんだろう」
マリエルは苛立たしげに舌打ちをした。
「余計なお世話ですよ」
マリエルは幾分気分を害しながら、いらいらと長い髪をかき上げた。
(大体、私は別にケイトに特別な感情を覚えている訳ではない…一緒にいて意外と楽な相手もいるものだとは思うけれど、そう…ドクター・ジョーンズの時のように…ああ、そうすると、私が時々ケイトを見ていて、何やら懐かしいような、よく知っているような不思議な気持ちになるのも、ポールが言ったように、彼女があの人の血縁だからだろうか…?)
ケイトの明るい笑顔の裏にふとした折に覗く不可思議な影のようなもの、あの奇妙な違和感をそう分析することは難しかったのだが、マリエルは確認しようとするかのように再び庭を見下ろした。だが、家の中に入ったのだろうか、ケイトの姿はマリエルの視界から消えていた。
マリエルは吐息をついて、隣で息を詰めて己の様子を観察しているポールの方に注意を戻した。
「あなたもご苦労様ですね、ポール。私のことは昔から毛嫌いしているはずなのに、なぜかいつも傍にいて、私と関わる羽目になってしまう。こういうのを腐れ縁と言うのでしょうかね」
マリエルが少し意地悪な口調で揶揄すると、ポールは真面目な顔つきで答えた。
「別に、俺はおまえを嫌ってなどおらん。積極的に関わり合いになりたいとも思わんが…まあ、確かに腐れ縁と言えるのかも知れんな」
ポールの声が微かに沈んだものになった。
「それに…キャシーの件では、おまえには世話になったしな」
「ああ」
マリエルは薄っすらと微笑んだ。
「そんなこともありましたね。もう1年以上になりますか…奥さんは、その後、落ち着かれましたか?」
「ああ、一時はセラピーを受けたこともあったが、もう大丈夫だろう。今でもキャシーのことを思い出して時々泣いてはいるが…幸い、事故の時の悲惨な記憶ではないようだ。だから、キャシーのエンバーミングについては本当に感謝していると、彼女はすっかりおまえびいきになっているのさ、マリエル。俺がおまえを少しでも批判しようものなら、きっと許さんだろうな」
「意外と尻にしかれているんですね」
マリエルはぼんやりと言って、窓の外を見るともなしに見やった。
「でも、何もそのことで私に対して借りができたと大層な負担を負うことはないんですよ。だって、私は、別にあなた方のためにエンバーミングをしたわけじゃないんですから」
窓の外には明るい陽光が満ちていたが、マリエルの青い瞳は彼方から差す別の光を見ていた。
太陽のように照り輝くのでもなく、温かくもない、それは煌々と照る月影か。この世のものならぬ青白い光に、マリエルの世界は満ちている。
ふいに、彼の胸の奥を、青い蝶の幻めいた美しい面影が舞うように通り過ぎていった。
(サンドラ)
夜にのみ語られる、彼方の世界の恋は、朝になって世界が目覚めれば夢と消える。
だが、全てが終わってしまう訳ではない。
光。最後には、全てがそこに行きつく。
二度と再び会うことはなくとも、共有した光の記憶だけはマリエルの胸に焼き付いて、永遠に消えない。
「死んだ人達のためですから…いつだって…」
ポールは何も言わなかったが、彼が今どんな目で自分を見ているかは、マリエルには想像がついた。恐れと惑い、そして、おそらくは憐憫か。
(余計なことだ、それも…生きている人達から私は何も求めないし、必要としない…いずれにせよ、縁がない…)
胸のうちでほろ苦く呟きながら、マリエルは家の中から再びケイトが庭に出てくるのを見つけた。まだ庭仕事を続けるつもりらしい。
(全く、なぜ私などの傍にいて耐えられるのか、あんなふうにいつも幸せそうに笑っていられるのか…いや、それを不思議に思うなら、私は何のために彼女を傍に置いているのだろう…?)
配置を考えながら大きなテラコッタの鉢の中にパンジーの苗を植えていく、ケイトの楽しげな様子を眺めながら、マリエルはふと己の確信が揺らぐような心もとなさを覚えていた。