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この世の果て  作者: 葉月香
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第3章秘恋(7)

「おはよう、マリエル」

 その朝、たっぷり眠って前日の疲れもすっかり取れたケイトがダイニングに下りて行くと、とっくに起きていたらしいマリエルが、1人、ぼんやりとテーブルに坐ってコーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

 マリエルはどこか上の空の様子で答えた。

「よく眠れたようですね」

「マリエルは随分早起きなのね。もしかして、あまり眠れなかったの? サンドラさんが心配で?」

 マリエルはケイトの方へ視線を動かした。

 ケイトは訳もなく少しどきりとした。

「そんな顔をしていますか?」

「うん…ちょっと…」

 口の中でもごもご言って、ケイトは黙りこんだ。

 頭の中には、夕べ見た場面、作業所に入っていったマリエルの姿が思い出されていたが、あれからどうしたのかと聞くことは何故かできなかった。

 2人がトーストと果物の簡単な朝食を済ませて片付けをしていると、ポールのバンがまず到着した。サンドラのための棺を運んできたのだ。

 ルイがリーブスとマーサをホテルから連れてくるまでに、出発ができるよう納棺をすまさなければならない。

「おはよう、ポール」

 ケイトが屈託のない笑顔で玄関から出てくるのを見て、ポールは何かしらほっとしたような顔をした。

「どうやら、彼女のエンバーミングはうまくいったようだな。ルイからは、どうやら大丈夫そうだと連絡は受けたんだが…何しろ、あの状態だったからな…」

「うん、今のサンドラさんを見たら、すごくびっくりすると思うわよ。早く会ってあげて」

 自分のことのように嬉しげに告げるケイトに、ポールはちょっと驚いたように目をしばたたき、それから、彼女の後ろに静かに立っているマリエルに目を移した。

 体はここにあっても心は別の何かに捕らわれているかのような彼の様子に、ポールの瞳は不安げに陰った。

 ケイトに引っ張られるがまま作業所に入り、サンドラの姿を目の当たりにした時、普段は冷静沈着なポールは息を呑み、信じられないものを見るかのごとく絶句した。さすがにここまでは予想していなかったのだろう。

「本当に、これが…あの時の遺体か…?」

 驚嘆のあまり、続く言葉がしばらく見つからないかのようだった。

「すごいでしょう、まるで生きているみたいでしょう? それに、ねえ、こんなに綺麗な女の人、見たことないと思わない?」

 素直にはしゃいでいるケイトとは対照的に、ポールは考え深げな眼差しでサンドラを見下ろし、それから、台を挟んで向かいに立つマリエルに視線を移した。自らの手で美しくした女を感慨深げに見つめているその顔を、何を考えているのか読み解こうとするかのごとくポールは凝視した。

 やがて、ポールはそっとかぶりを振って、またサンドラの方に目を戻した。

「とても美しい人だな…空恐ろしいくらいに…」

 微かな慄きのこもった口調でつぶやくポールを、ケイトは不思議そうに見上げた。それから、夕べと同じ姿で台の上に横たわる花のような女性を覗き込んだ。

「あれ…?」

 訝しげに首を傾げて、ケイトはつぶやいた。

「どうしてかしら、昨日見た時とまた少し感じが違うような気がする…」

「違うって…どんなふうに?」

 それまでずっとだんまりだったマリエルが、唐突に口を開いた。

「顔つきがもっと優しくなったような…それに、昨日よりももっと生き生きして見えるわ」

 ケイトが答えるのを用心深く聞いた後、マリエルは素っ気無く言った。

「…薬液が体に馴染んだせいでしょう。自然な感じに見えるのは、朝の光のせいですよ、きっと…」

 マリエルは、何かしら呆然となっているポールを見やって、いつもと同じ淡々とした声で促した。

「棺を運んで来てください。彼女を移して、それから、リーブス氏が迎えにくるまでに最後の化粧直しをしますから…」




 サンドラの納棺をすませた後、ポールは外に出ていったが、マリエルとケイトは名残を惜しむかのように部屋に留まっていた。

 特にマリエルは、サンドラの棺の傍らに佇んだままじっと動こうとはしなかった。

 棺は内部に柔らかなクッションのような内張りがしてあるゆったりしたもので、その中で胸に上に軽く手を組んだ姿で眠るサンドラの姿はとても安らかそうだった。

 結局、この棺はルイが決めたらしい。夫の身分にふさわしい高価なもので、しかし、若い女性にふさわしく、ごてごてと華美にならない上品な棺を選んだようだ。くすんだ薔薇色の内張りの色も、彼女の肌や髪の色によくあっていた。

 飛行機の時間もあることだし、リーブス氏が着いて引き取り手続きを済ますなりすぐに出棺することになるのだろうが、棺の蓋は開け放ったままにして、マリエルは彼女の姿を目に焼き付けようとしているかのように見つめている。

 ケイトはそんなマリエルを、部屋の隅に置いた椅子に腰を下ろしてじっと見守っていた。

 壁の時計をふと見やると、もうすぐ約束の時間になる。このまま時間などとまってしまえばいいのにとケイトはふと思った。

(だって、マリエルが何だか可哀想。このままサンドラさんが行ってしまって、二度と会えないなんて―)

 しかし、ケイトの密かな願いは叶えられることはなく、約束の9時丁度に、リーブス氏を乗せたルイの車が到着した。

 外に車のエンジン音が聞こえると、マリエルはすっと動いて、窓辺に飾られていた百合の花を一輪取り上げた。そうして、それをサンドラの胸の上にそっと置いた。

 離れる瞬間、マリエルは胸の上に組まれたサンドラの手に己の手を重ねた。

 ケイトははっと息を呑んだ。

 その時、作業所の扉が開く音がして、バタバタと慌しい足音と人の声が飛びこんできた。

「出発の用意はできているのか?」

 何の前置きもなく、いきなり部屋の扉が開いて、無遠慮な声がそう問いかけた。リーブスだ。

 リーブスは、厳粛な面持ちで棺の前に佇んでいるマリエルとケイトを見つけると、一瞬鼻白んだ顔になった。居心地悪さを感じたように、そこから部屋の中には入ろうとはせずに、後から追いかけてきたルイに向かっていらいらとした口調で言った。

「時間がないんだ。早く棺を車に運び込んでくれ…サインなら、車の中でもできる」

 一刻も早くここから逃れたいと言わんばかりだ。彼の背後で小さくなっているマーサが見えたが、この態度に腹を立ててはいても口に出す勇気はないようだった。

 ルイがポールを呼びにいくと、リーブスは処置の終了した妻の遺体にろくに注意も向けぬまま、ここから出ていこうとした。

「奥さんを見てあげてくれませんか?」 

 マリエルが呼びかけるのに、リーブスの背中が微かに震えた。

「依頼者には、出棺の前に遺体の確認をしてもらうことになっています。彼女のエンバーミングはとても難しいものでした。あなたの望む仕上がりになっていれば、よいのですが…」

 何の感情もこもっていないだけに余計に聞く者の心を不安で満たすような声だった。

 リーブスは、できればマリエルとはあまり関わりたくない様子だったが、ここでおじけづくのもプライドが許さなかったのだろう。こちらを向いて、一瞬マリエルを凄まじい嫌悪と憎しみのこもった目で睨みつけると、棺に向かって歩きだした。

 リーブスは妻の亡骸と再び対峙することにも我慢がならない様子だった。できればもう二度と、触れることはおろか目にしたくもないというのが本音なのだ。マリエルの処置の成果を確かめることすらも、もうどうでもいいようだった。

 どんな小細工を弄したところで、あの変わり果てた死体をもとの美しい姿に戻すことなど不可能に決まっている。凄腕だという噂に飛びついて、こんな所までわざわざ出向いた自分が馬鹿だったのだ。こんな頭のおかしい男に妻を任せて、不愉快な思いをするためだけに来たようなものだ。そう考えていたのだろう。

 リーブスは、運がよければ少しは見られるようになった死体を、悪ければ、訴訟ものの不細工な処置をされた、胸の悪くなるような死体を見ることになるとばかり思いこんでいたのだ。決して、このような結果を期待していたわけではない。そう、それは彼にとってはまさしく頭をガツンと殴られるように衝撃だったに違いない。

 リーブスを通すようにマリエルとケイトが両脇に引いたとたん、棺の中に眠る彼の妻の姿が目に飛びこんできた。

 リーブスは何かにつまずいたように、唐突に立ち止まった。そのまま石と化したかのように、棺の前で立ちつくした。

 扉の陰から顔を覗かせていたマーサが、こらえかねたかのようにそっと部屋の中に入ってきたが、硬直したままのリーブスの後ろ姿に不審なものを感じ取ったのだろう、はっとなって足を止めた。

 そうして、更に数秒が経過した。

 沈黙に耐えかねたかのように、ケイトが口を開いた。

「リーブスさん…?」

 その声に、リーブスの体は弾かれたようになって、後ろに数歩よろめき下がった。その横顔は恐怖に引きつり、青ざめ、汗を流していた。

「こんな…一体…どうやって…?」

 その見開かれた目が救いを求めるように部屋の中をさまよい、そして、マリエルの上で止まった。

 リーブスは目をしばたたいた。次の瞬間、悲鳴のような声をあげていた。

「一体…一体、妻に何をした…?!」

 ケイトは身を強張らせた。

 何だか、取り乱したリーブスは、今にもマリエルに殴りかかりそうに思えた。

 しかし、マリエルの方は少しもひるんだ様子はなく、リーブスの敵意に満ちた眼差しを真っ向から受け止めた。

「彼女を本来の姿に戻してあげたんですよ」

 それから、この騒ぎにもまるで何の関わりもないかのごとく眠り続ける、棺の中の女性にマリエルは目を移した。

 かつてサンドラを激しく傷つけ苦しめた、そうして今こっけいなほどに錯乱している夫も、彼女にとっては存在しないも同然だった。その超然とした美しさは、もはや誰にも傷つけることも損なわせることもできない類のものとなっていた。

「よくご覧なさい、リーブスさん」

 静かだが人をひるませる確信のこもった声で、マリエルは、かつて病を得て容色の衰えたサンドラに向かってひどい侮辱を与えたその男に、突きつけるように言った。

「彼女は、今もなおこんなにも美しい」

 リーブスは、恐る恐る再び棺の方を見た。その唇から、うめくような声がもれた。

 吹き出る汗をぬぐおうともせず、愕然と目を見開いてサンドラに見入るリーブスの顔には、実に様々な感情が去来していた。恐れと慄きだけでない。過去にサンドラに与えた数々の仕打ちを一気に思い出して後ろめたさを感じ、美しさを取り戻した今の彼女の姿には、さながら過去の亡霊が復讐に蘇ってきたものであるかのような錯覚を覚えて怯えている。

 だからだろう。とっさに、柄にもなく、こんな安っぽい後悔の言葉さえ彼は口にした。

「確かに…私はひどいことをしてきたのだろう…結婚生活が思うようにいかなかったのは、彼女のせいではなかったのに…自分の望みと我が侭を押しとおした…恨まれても仕方がないことだとは思う…」

 マリエルの冷めた声が、その呟きに答えた。

「たぶん、あなたがそんな気持ちになれるのは今この一時だけで、じきに後悔したことすら忘れてしまうでしょう。あなたはそういう人です。けれど、別にそれでも彼女は一向に構わないと思いますよ。あなたが後悔しようが、あるいは忘れ去ろうが、今のサンドラには何の重要性もない。恨みも憎しみも、すべて超越した所に今の彼女はいるのです。もう誰にも傷つけることも汚すこともできない…違いますか?」

 リーブスは反論しようとするかのように口を開きかけたが、どうしても言葉にならないようだった。

 マリエルに敵うことなど、リーブスにはできそうもなかった。

 実際、死を味方につけている者に、ただの人間がどうやって勝てるだろうか。

 それから、どうしても目がそちらにいってしまうのを押さえられないというかのように、リーブスは妻を見た。

 そして、またマリエルを振り返った。その瞳には畏怖の念がこもっていた。

「彼女に…何をした…?」

 マリエルはすうっと目を細めただけで、答えるには値しないというように何も言わなかった。

 そんなマリエルをリーブスはしばし呆然と見ていたが、やがて、がくりと肩を落とし、くるりと背を向けて部屋の外に出ていった。

 マリエルとケイトがリーブス氏の退場を無言で見送った直後、2人の背後で細い女の声がした。

 振り向くと、マーサがサンドラの棺の傍に膝をついて中を覗き込むようにしながら、震える手で口許を押さえている。

「ああ…お嬢さん…ああ…」

 彼女は感極まって言葉にならないようだった。彼女のしわぶかい顔は更にくしゃくしゃになって、両目からは滂沱の涙が迸った。

「何て…お綺麗なんでしょう…昔と少しも変わらない…いいえ、昔以上に…本当に、何て綺麗な…」

 静かに泣き続ける老女を、ケイトはしばし声もかけることも忘れて見守った。

 リーブスとマーサ。同じ遺体を前にしたのに、こんなにも反応が違う。

 リーブスにとっては、サンドラのこの復活は悪夢のようにしか思えなかったようだが、マーサはそこに救いを見出した。

 それは、見る者の遺体に対する心の持ちようが異なるからなのだろうが、何だか、こうして彼らの反応を見ているとそれだけではないような気がしてくる。

 死んだ人間は無力で生者に対して影響を及ぼすことはできないはずだが、これは力を及ぼしたということにはならないのだろうか。

 意地悪な見方だが、美しくなったサンドラを前に恐れ慄くリーブスを見ていると、これは彼女のちょっとした意趣返しだと胸がすくような思いがした。錯覚と言ってしまえば、それまでだけれど。

「ねえ、マリエル…」

 マリエルに声をかけようとして、ケイトはとっさに口をつぐんだ。

 マリエルはサンドラを見ていた。

 無言のまま、胸に秘めた想いを眼差しにこめて語りかけているかのような彼の横顔に、何故かケイトの心は落ち着かなげに騒いでいた。




 サンドラの棺は蓋を慎重に閉じられ後、ポールとルイの手でバンに運ばれた。ポールがバンに乗りこんで発進させ、その後ろをリーブスとマーサを乗せたルイの車が追って動き出す。

 マーサは目元をぬぐいながら、ずっとマリエルに向けて手を振っていた。

 玄関先に立ったまま、二台の車が見えなくなるまで見送った後、ケイトは、マリエルを振りかえった。

「寂しい…?」

 マリエルは車が消えていった方角を目で追いつづけたまま、ぽつりと言った。

「そう見えますか?」

 ケイトはそっと首を傾げた。

「うん…何だか、彼女に行って欲しくなかったって顔をしているわ」

 マリエルはしばらくの間押し黙った。

「でも…仕方がないことでしょう?」

 ぼんやりと視線をさまよわせたまま、マリエルはつぶやいた。

「寂しいのかと前にも聞かれましたね…生きている人とは縁が薄くても死んだ人にはたくさん会えるから、別に孤独は感じないなんて、私は答えましたが…。そうですね、やはり、こんな時は少し寂しい気分になりますよ…分かっていることはずのことなのですが…」

 急にひどい疲れを覚えたかのように溜め息をつくと、心配そうに彼を覗うケイトの方を見もせず、マリエルはくるりと踵を返して家の中に戻っていった。

「マリエル…」 

 どうしよう。マリエルは本当に落ち込んでいるようだ。

 先程リーブス氏をやりこめた時の迫力も消えうせ悄然となってしまったマリエルの姿に、ケイトは胸を痛めた。

 ポールの心配は、どうやら当たったようだ。

 あんなふうに死者に感情移入をしてしまっては、別れる時も生きた人間に対すると同じように辛いのだろう。

 サンドラには、マリエルは本当に深い愛情をもって接していた。

 まるで恋人のようだとさえ時々思えて、マリエルの手がサンドラに触れる様子にケイトは妙に胸が苦しくなったりしたくらいだ。

 それに、美しくなったサンドラの遺体を前にしてのリーブスとマリエルの応酬の場面も、何だか生きた女性を巡って争っている人達を見ているような妙な気分だった。

 マリエルに打ち負かされうなだれて出ていったリーブスの姿、あれはまるで…。

 そんなことを考えながら、ケイトはマリエルの後を追って家の中に戻ろうとした。

 その瞬間、彼女ははっとなって立ち止まった。

 マリエルが消えていった方をケイトは瞬きをして見つめ、それから、後ろを振り返った。

 胸の奥から、いわく言いがたい不安が込み上げてきた。

 ふいに夕べ窓から見た光景がケイトの脳裏にまざまざと蘇ってきたのだ。

 真夜中に1人作業所に入っていったマリエルは、あれからあそこで何をしていたのか。

 マリエルは今朝も、迎えが到着するまでの間、恋人のようにずっとサンドラの傍に付き添っていた。昨夜は、一体彼女の傍でどんなふうに過ごしたのか。

 瞬間、ケイトの中で何かが閃いた。

「マリエル、あなた…?」

 まさか…まさか…?

 マリエルが消えていったほの暗い扉の奥を、ケイトは打たれたように立ち尽したまま呆然と見つめていた。

 扉はいつもと同じには見えず、そこから、この世とは異なる世界の入り口がぱっくりと開いているかに思われた。

 そして、その先には、死にとりつかれたあの人がケイトが追いつくのをじっと待ちうけているのだ。

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