第3章秘恋(6)
「ああぁぁ…っ、もう駄目、疲れたぁっ。おなかも空き過ぎて、何が何だか分からないくらいよ」
サンドラを百合の花で飾られたゲストルームに休ませた後、2人は母屋の方に移った。
リビングルームに入るなり、ケイトはソファの上に身を投げ出すように坐りこんだ。壁の時計を見ると、もう10時を回っている。疲れるはずだ。
「冷凍のピザがあるから、焼きましょうか」
疲労困憊のケイトを心配そうに眺めて、マリエルが言った。
「うん…お願い、何でもいいから食べさせて…って、本当は、もう空腹なのかどうかも分からないくらいなんだけれど、何か胃に入れないと、とてもじゃないけれど、家に帰る力なんて出ないから…」
「…別に帰らなくてもいいですよ」
マリエルは言った。
「あなたさえよかったら、今夜はここに泊まっていきなさい。あまり使いませんが、一応ゲスト用の部屋は綺麗に掃除して、いつでも使えるようにしてありますから」
「え…いいの?」
「ええ、それに、サンドラは明日の朝9時にはここから連れていかれてしまうんですよ。あなたも見送りたいでしょう?」
「うん…そうね」
マリエルはソファにぐったりと身を預けているケイトに近づいて、顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 調子が悪そうですよ?」
「うん…今日は感情的にも随分浮き沈みがあったし緊張もしたし…いつも以上に疲れちゃった。それに、やっぱりおなかが空いてるみたい…ね、マリエル、お願い、ピザ焼いて」
ケイトの甘ったれた口調に優しく目を細め、マリエルは軽食を用意する為にキッチンに向かった。
マリエルはオーブンに冷凍ピザを入れてセットすると、夕べの残りもののスープを火にかけた。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してグラスに注ぎ、自分のためには半分ほど飲み残していたよく冷えた白ワインをテーブルに置く。
「ケイト、ピザが焼けたから、ダイニングにいらっしゃい…」
リビングに戻ったマリエルは、携帯電話で誰かと話しているケイトを見つけた。
「そう、今夜はこっちに泊まるから、心配しないで。大丈夫よ、全然、調子は悪くないの。うん…それじゃあ、おやすみなさい」
扉の所にマリエルの姿を認めると、ケイトは何かしら慄いたような奇妙な顔をして、携帯を切った。
「誰だったんです?」
自分の思わぬ詮索ぶりに、マリエルは少し驚いた。
「ん…お隣に住んでいる、スミスさん。ほら、あたしって、両親が死んでからずっと1人暮しだし、何かと気遣って心配してくれるの。時々、晩御飯を差し入れしてくれたりね。遠い所の大学に行っている、あたしと同い年の娘さんがいるんだって。親切ないい人なんだけど、ちょっと心配性過ぎる所があって…あんまり帰りが遅かったりすると、子供みたいに怒られるし。だから、一応外泊しますって連絡入れておこうと思って」
「本当に、随分過保護なんですね」
マリエルはケイトの言葉に何となく釈然としないものを感じたが、別にそれを追求しようとは思わなかった。
「そろそろピザが焼けますよ。早く食べましょう…何だか、今にも飢え死にしそうな顔をしていますよ、あなた」
バスタブにたっぷりお湯を張ったところで、マリエルは蛇口を閉めた。
クリーム色の洗面台の棚から愛用のエッセンシャルオイルのボトルをマリエルは取り出す。ラベンダーにカモマイル、セージにゼラニウムをブレンドしたものだ。バスタブの中の数滴垂らすと湯気と共に何ともいえない心安らぐ香りが立ち昇る。それを深く呼吸し満足そうに微笑むと、マリエルは素肌の上にまとっていたバスローブをするりと脱いで、湯の中にゆっくりとつかった。
バスタブのすぐ傍らには、ワインクーラーの中で冷やされたシャンパンのボトルとすらりと長いクリスタルのグラス。
マリエルはグラスになみなみとシャンパンを注ぎ、とても喉が乾いていたかのように一息に飲み干した。
半分ほど注ぎたして湯の中に体を落ちつけると、マリエルは上等のシャンパンを味わいながら、じっと物思いにふけった。
長時間の作業を経て冷え切り強張った体も、熱い湯と次第に回ってくるアルコールの力で少しずつ温まって、人並みの感覚を取り戻してくる。
グラスを空けて床に置くと、マリエルは湯の中に両手を浸して指を曲げ伸ばししたり、鉛のように重い腕を揉み解したりした。
すると自分のものではなかったような腕にも微かな傷みと共に血が巡り、現実らしい感覚が戻ってくる。
ふと手をとめ、その指先が覚えている、別の肉体のひんやりとした感触を思い出した。
枯れ葉のようにカサカサに干からび傷跡めいた無数の皺の刻まれた肌が、この手の下で徐々に変化し、内に隠されていた美しさをゆっくりと開花させていく過程は感動的なほどだった。こんな喜びは他では味わえないし、自分以外の他の人間にはおそらく理解できない。
(彼女はどうなのだろう…少しは、分かることができるのだろうか…?)
マリエルの思いは、我ながらどういう酔狂でか雇うことになった弟子の上でふととまる。
はっきり言って、初めはあまりものになるとは思えず、すぐに音をあげて逃げ出すとばかり思っていた。作業自体には慣れることができても、マリエルと一緒にいることには、他の大勢の人間がそうであるように耐えられなくなるはずだった。
まるで死人と一緒にいるようだと嫌悪のこもった口調で言われることも度々あるマリエルは、自分が他の人間とはどこか違っていることを認識していたし、その違いが彼らを不安にすることも知っていた。
マリエルの死への傾倒が、その情熱が、他人にとっては異質であり、忌まわしいものなのだ。
だが、ケイトには、マリエルの異質な部分を恐れ嫌う様子は少なくともない。マリエルのように死に関する造詣が深いというわけでは全くなく、その仕事ぶりを見る限り本当の初心者だ。異常死体を前にした時の真っ青になって泣き出さんばかりの顔などを見ていると、やはり普通の女の子でしかない。
明らかに、ケイトはマリエルとは違う。なのに、どうしてだか、もしかしたらという思いが消えない。
あの黒い瞳。お日様のように明るく輝く無邪気そのものの目の奥底にふとした折りに覗く、不可思議な影のようなもの。何なのか説明しがたいのだが、どこかで見たことがある馴染み深さにマリエルは惹きつけられるのだ。
(今日の仕事を通じて、ケイトは何を感じたのだろうか。死者の無念を敏感に感じ取り、同情して泣きはしたけれど、本当に分かることはできたのだろうか。私と同じようにサンドラの声を聞いて、その心を感じることは…彼女にもし理解できるのなら…私も、必ずしもこの世で本当の1人きりという訳ではない…)
そこまで考えてふと我に返ったマリエルは、苦笑してかぶりを振った。
馬鹿げていると思った。自分と同じ感覚を他人が持つと期待したことなど、これまでなかったというのに。それもよりによって、死者に触ることにさえ躊躇い震え上がるような、あんな子供に―。
(誰にも、理解できるはずがない)
マリエルはバスタブの縁に頭をもたれさせ、目をつぶった。
一体、死に対する、この情熱、憧憬はどこからくるのか。何故こんなにも己を捕らえて離さないのか。我ながら不思議に思うことはある。
うっすらと目を開くと、天井の淡い照明の光がさしてくる。
光。
サンドラの体も、金色がかった淡い光を発していた。
ケイトにあれが見えたとは思えない。
マリエルが感じている世界を共有することのできる者は、少なくとも生きている人間の中にはいないのだ。
再び目を閉じると、マリエルは広々としたバスタブの中にゆっくりと全身を沈めていった。顔もすっかり水面下に沈め、息をこらえて水死体のようにじっと身動きもせずにいると、伏せた瞼を通して差しこんでくる明かりが次第に強く圧倒的な光の渦と化していく。
マリエルの胸は大きく上下した。
光。マリエルが求めてやまぬ、あの光。
幼い頃、生きながらにして、生と死を隔てる最後の一線を越えた時に見た光こそ、マリエルを惹きつけ、捕らえ、離さぬものだ。
かつてマリエルが愛した者達―今は亡き、母や祖父母や数少ない友人達―は皆あの光に溶け込んで、その一部となったのかもしれない。
命は光であり、生き物が死ぬ時、体の中で爆発したエネルギーは光となって押し出され、もとあった場所に戻っていく。
幻想だろうか、これも?
目の裏では光が弾け、マリエルを圧倒せんばかりに迫ってくる。その美しさに魅せられ、もっと近くにいきたいと切望し、息を止めて待ちうけた。
耳の奥ではごうごうという音が鳴り響いている。光が渦巻く音。それとも、マリエルの胸の下で押しつぶされそうになっている心臓が、必死になって体中に血を送り出す音だろうか。
空気を求めて爆発しそうな胸を押さえこみ、なおもマリエルは水中に留まろうとした。
後少し。後少しで手に届きそうなのに。
白熱した意識の片隅で、マリエルは己の喉がごぼりと鳴って、溜めていた空気を吐き出すのを感じた。
水音をたてて、マリエルは体を引き上げた。ごほごほと激しく咳き込みながら、マリエルは白いバスタブの縁にしがみつき、しばし喘いだ。肺にどっと入ってきた酸素のおかげで余計に胸が苦しく、痛んだ。頭はがんがん響くし、顔をちゃんと上げてもいられない。
しばらく体をのたうたせ、ようやく落ちつくと、マリエルはすっかり脱力して、バスタブの縁にかけた両腕の上にじっと顔を伏せた。
その唇には、微かな苦笑がうかんでいた。
(性懲りもなく―)
ルイに言われたように、こんな馬鹿なまねを繰り返していたら、いつか本当に溺れ死んでしまうかもしれない。
死にどれほど魅せられていようとも、マリエルが人間であることには変わりなく、生きたまま、あの一線を越えることはできなかった。
「美しく優雅なる婦人もまた地獄に行かん…」
うつむいたままのマリエルの唇がふいに動いて、虫の鳴くような細い声で詩を唄った。遠い昔に死んだ彼の母の唄がふいに蘇ってきた。
マリエルは、ふいにバスタブから立ちあがった。床に下りて、雫を滴らせながらふらふらと歩き、洗面台に近づく。
台に手をついて、マリエルは正面の大きな鏡を覗き込んだ。
鏡の中から、もう1人のマリエルがこちらを睨み返している。死人のように青ざめ、長い髪から水を滴らせて、その青い瞳には何かしら鬼気迫る表情がうかんでいた。
ずきずきと痛むこめかみを震える指で押さえながら見つめているうちに、鏡に映るマリエルの顔は、よく似たもう1つの顔に変化していく。
既にこの世にいない者の顔。そう、今のマリエルは死んだ時の彼の母にそっくりだった。
そのことに不安や恐れを感じないわけではない。
いつか自分も母のようになるのではないか。現実に馴染めずこのままどんどん遊離していき、生きている人間の誰も認識せず、いつかあんな悲惨な最期を迎えるのではないか。
そうした強烈な恐れは、母の死に様を思い出すにつけ、マリエルの胸の奥から湧き上がる。
ぞっと身震いして、マリエルは両手で耳をふさぎ囁きかけてくる死者の声を閉め出そうとした。そうはしてみたものの、しかし、己を呼ぶあの声を拒むことなどできないのだと、彼にはよく分かっていた。
(そう、他には誰もいない…私を分かることのできる存在、この胸を焦がす情熱を共有できるものは…)
マリエルは彼方からの声を拒むのをやめた。
(そして、私だけが聞くことができる、この目で見て、感じることができる)
そう思うと、吹っ切ることができた。
迷いや不安がマリエルの胸に入りこむことはあっても、それは束の間のことだ。結局、マリエルがいるべき場所はここしかない。死に限りなく近い、この世の果てに生きることが、死に選ばれ愛された者の定めだ。
死者は、自ら何かを語ることも、残された者達に何かをしてやることももはやできないが、想いはまだ残っている。彼らに代わって、その想いを蘇らせ再現することができればと、エンバーミングを手がける時いつもマリエルは思っている。自分の作り出すものは、錯覚以上の力を持つ何かだと信じている。
マリエルの脳裏から母の面影は去っていたが、それに代わって、別の者の姿が思い出された。
サンドラ。マリエルが蘇らせた光り輝く女神。死してなお生きているどんな女性よりも彼女は美しいと、恋人を思うような温かく誇らしい気持ちでマリエルは思った。
ケイトが敏感に感じ取ったように、マリエルは今死んだ女性に恋をしていた。
(サンドラ…)
そう、生きている人間を想うのと変わらぬ心で、彼は恋をしていた。
「ううん…どうしてかなぁ…疲れてるのに、妙に目がさえちゃって眠れない…」
マリエルが用意してくれた客用の寝室で、1人、ベッドの中で寝返りを打っていたケイトは独り言を呟いて、むくりと起き上がった。
ベッドサイドのライトをつけ、ケイトは先程マリエルに借りた雑誌『フューネラル・ジャーナル』の先月号をぱらぱらとめくってみる。N州葬儀社組合が発行している、いわゆる業界誌だ。葬儀やエンバーミングに関する最新の情報が得られるし、それに業界に関するウイットに富んだコラムがなかなか面白くて気に入っている。
ケイトはしばらく雑誌の中の面白そうな記事の幾つかを読みふけった後、ぱたんと閉じて小さく溜め息をついた。
ベッドから抜けだし、中庭に面して取られた窓を大きく開けて、新鮮な夜の空気を吸いこんだ。
「すごい満月…」
ケイトが空を見上げると、雲一つなく晴れ渡った夜空に、綺麗な白い月が、そこだけ別の世界への入り口がぽっかりと開いているかのように輝いている。
ケイトはしばし、うっとりとその月に見入った。
今日経験した仕事の興奮がまだ体から消えない。
初めに覚えた無力感が圧倒的だっただけに、あの奇跡のような仕事を目の当たりにした感動は、ケイトの心を深く揺り動かした。
「本当に綺麗だった…彼女…」
溜め息混じりにケイトは呟くと、庭を挟んで向かい側ある作業所のゲストルームの窓を見下ろした。青い花びらのようなドレスに身を包んだサンドラがそこで休んでいる。
(あんなに素敵な女性なら、男の人なら誰でも恋をしてしまいそう…)
ふと、全ての処置を終えたサンドラを優しく見下ろしていたマリエルの横顔を思い出し、ケイトは不思議な胸苦しさを覚えた。
その時だ、扉が開く音が下の階でした。
(え…?)
訝しく思って、ケイトが窓から身を乗り出すと、バスローブ姿のマリエルが家から出てくるのが見えた。
(?…どうしたのかしら、こんなに遅くに…)
声をかけようかとも思ったが、何となく躊躇っているうちにマリエルは中庭を横切って作業所の中に入っていった。忘れものでも取りに入ったのだろうか。それとも、サンドラが気になって、様子を確かめにいったのだろうか。
作業所の明かりは何故かつかなかった。
暗闇で一体何をしているのだろうという疑問も微かにケイトの頭の端をかすめたが、その時はそれ程重要なこととも思えなかった。
しばらく見守っていたものの、マリエルがなかなか出てくる気配がなかったので、いい加減寒くなってきたケイトは窓を閉じベッドに戻った。
外の空気を吸ったおかげで気分が静まったので、今度は眠れそうな気がする。
ケイトはベッドの中に身を落ち着けて目をつぶった。
今日の仕事やサンドラのことなどをケイトがぼんやりと考えているうちに、睡魔は程なくやってきた。
眠りに吸いこまれていく瞬間、作業所に消えていったマリエルの姿を思い出し、ケイトは説明しがたい惑乱を覚えた。
あれからマリエルはどうしたのだろう。この家に戻ってきたのだろうか。
それともまだ留まっているのだろうか、サンドラの傍に…?
仕事や研究のために1日の大半を過ごすことも多い作業所内は隅から隅まで知り尽くしているので、マリエルは別に明かりをつける必要も覚えなかった。
入り口の扉を静かに閉じて、迷いのない足取りでまっすぐにサンドラの眠るゲストルームへと彼は向かう。
処置を済ませた遺体を安置するためのその部屋の扉は、マリエルの前にほとんど何の抵抗もなく滑らかに開いた。
一歩中に足を踏み入れると、新鮮な花の香りが漂ってくる。
中庭に面して大きく取られた窓から淡い月明かりがさしこんできて、部屋の中をぼんやりとうかびあがらせていた。
夜目のきくマリエルには、充分な明るさだ。
窓の両側には、大きな花瓶にふんだんに活けられた百合の花。
それらの花々に見守られるかのように、部屋の真ん中にある長椅子に、安らかな深い眠りを装って横たえられている女性がいた。
窓からの微かな光を浴びた姿は尚一層妖しく息づいて、生きているかのようだ。
マリエルは扉の前からしばし動かなかった。月明かりも届かない影になった部分に微動だにせず佇んだまま、眼差しをサンドラに注いでいた。
死者を生きている人間以上に鮮やかで生き生きとした存在として捕らえるマリエルの瞳には、この時のサンドラは窓から差してくるさやかな月の光以上に美しく映った。
マリエルは随分長い間そこに立って、サンドラを眺め続けた。彼女の美しさに魅せられて時が経つのを忘れているかのように、あるいは、まるで何かに目を凝らし、耳を澄ませて、慎重に待ちうけているかのように―。
(私の恋は…この夜の中でだけ、語られるもの…)
影の中から、マリエルは静かに進み出た。
ごく淡い月の光がほの白くうかびあがらせた彼の姿は、部屋に満ちる闇の中からさまよい出てきた亡霊めいて、ほとんど生きているようには見えなかった。月明かりの生んだ悪戯だろうが、死者であるサンドラの方がむしろ生き生きとして今にも動きだしそうなくらいだ。
実際、生者と死者とを隔てる一線にどちらもが限りなく近づいていた。
そうしてマリエルは、サンドラの横たわる台の傍に立った。
まぶしいものを見るかのようにマリエルは目を細めた。
「サンドラ…?」
遠い所からの応えに耳を澄ませるかのように、マリエルはしばし、そこに佇んだ。
月明かりに照らされたサンドラの美しい顔は、夢の世界で遊ぶ童女のような微笑みをうかべている。
その顔にふっと影が落ちた。彼女の枕もとに立った者が窓からの光を遮ったのだ。
マリエルは眠れる美しい女性の傍に跪いた。青いドレスをまとった体の脇に置かれた、ほっそりとした腕に優しく触れて撫で下ろすと、恭しい仕草で手を取って持ち上げた。
硬直の取れたしなやかな腕は、マリエルの手が導くのに素直に従って滑らかに動く。深い眠りに捕らわれているだけの生きた人間のように。ただ、その肌の冷たさが、彼女が何者であるのかを、その体から押し寄せてくる圧倒的な静けさと共に物語っていた。
だが、その氷のような冷たさも沈黙もマリエルを怯ませることはなかった。むしろ、その超然たる静けさに惹かれるのだというかのように、サンドラの手を両手に柔らかく押しいただいたまま、マリエルは気遣いに満ちた眼差しを彼女に注いだ。
(綺麗ですよ…とても…)
白磁のようなサンドラの手の甲に、マリエルはそっと唇を押し当てた。
マリエルには死者の体がまばゆい光を放っているのが見える。
生きた人間の性格がそれぞれ違うように、死者の輝きにも個性があって、その強さも色も、同じものは1つとしてない。
サンドラは、さながら淡い金色の光の花びらに取り巻かれた薔薇のようだ。目を奪うほどにまばゆく華やかでありながら、同時にとても繊細な優しい光は、マリエルの心の琴線に触れてくるものだった。
(そう、この光…)
サンドラの手をもとの場所に戻すと今度はその頬に触れながら、マリエルは彼女を包む光にうっとりと見入った。
その輝きは、遠い昔にマリエルが見た、この世のものならぬ光に通じるものだ。
太陽のように熱を発することはないが、圧倒的な力と存在感を感じさせ、感動的なまでに美しく、安らぎに満ちている。
マリエルが死に瀕していた一瞬包みこまれた光は、その魂の奥底までも貫いて染みとおり、今に至るまで彼を呪縛して離さない。
あの光に再び包まれたい、帰りたいと、マリエルはずっと切望し続けた。
(この光に私の愛する者達は包まれている…この光が私を彼らのもとに導く…いつも…)
マリエルのしなやかな指先がサンドラの金髪をいとおしむように探り、頬に触れ尖った顎に向けて滑るように動いて、そこでとまった。
マリエルは愛しげにサンドラを見下ろした。ゆっくりと身を屈め、彼女の淡い薔薇色の唇に唇を重ねた。その冷たさは、静かな衝撃となってマリエルの体の奥深い所に伝わっていく。
マリエルが薄っすらと目を開くと、世界は揺らめく光に包まれている。輝きは次第に増し、渦巻く波となってマリエルに押し寄せてきた。
(そう、私は、死者に恋をする…)
マリエルは、サンドラの青いドレスの胸を飾るボタンを慎重な手つきで1つずつ外していった。指先に掌に触れる、冷え切った肌の感触が、むしろ焼けつくように感じられる。
世界はひっそりと静まりかえっており、この秘密の恋を盗み見る存在があるとすれば、窓から覗く青ざめた月くらいなものだ。
人知れず、短い夜の間にのみ花開く、この世のものならぬ恋だった。
(たぶん…)
次第に形をなくしていく意識の片隅で、マリエルはふと思う。
(美しい死体を愛する時、私は私でなくなっている…何かを越えて別のものになっている…)
一瞬手をとめ、真っ暗な虚空にうかぶ、マリエルにだけに見える何かにじっと視線を投げかけた。
薄い唇に、ほのかな笑みがうかんだ。
(そして、一線を越えるこの行為の中に、私を圧倒し、包み、呑み込んだ、あの時の光を確かに感じているのだ―)