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この世の果て  作者: 葉月香
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第3章秘恋(5)

 遺体にかけられていたカバーをマリエルの手が剥いだ瞬間、傍らで息をつめて見守っていたケイトの顔色が変わった。

 マリエルはさすがに眉一つ動かさなかったが、それでも、カバーを手にしたまま、しばし遺体の傍に立ち尽くした。

 ケイトはとっさに遺体から顔を背け、壁際に駆けよって、冷たいタイルに額を押し当てた。

「ケイト、耐えられないのなら、ここから今すぐ出ていきなさい」

 淡々とした声が告げるのに、ケイトは壁を向いたままゆるゆると頭を振った。

「違う、気持ち悪いとかじゃないの。ただ、ここまで痛ましいとは思ってなくて…ごめんなさい…ちょっと感情が高ぶってしまって…もう、大丈夫だから」

 ケイトは防護用眼鏡をはずして目元をちょっとこすった後、持ち場に帰ってきた。

「サンドラ・リーブス、30才。極度の栄養失調に伴う全機能障害、心不全によって死亡」

 30才だというが、処置台の上に枯れ木さながらに横たわる遺体は80才の老婆にしか見えなかった。唯一以前と変らぬ豊かさと輝きを保っている金髪以外は、モデルだったころの華やかな面影の片鱗も残されていない。ここにあるのは、全くの別人だった。

 一目見た瞬間、ケイトは絶望的な気分で無理だと思った。

 がりがりに痩せこけて、女性らしいまろみも柔らかさも消えうせ、肌は褐色に変色し、かさかさに乾いて皺の寄った体に、あの若く美しい女性の面影を取り戻させることなど不可能に思われた。

 こんな状態になるまでこの女性が己を追いつめていくのに、苦悩と孤独に責めさいなまれた、どれほどの月日があったのだろう。しわくちゃになった顔の中でもとりわけ深い眉間に刻まれた皺が、彼女の覚えた苦痛を沈黙のうちに語りかけてくる。

 その遺体は、一目で拒食症による餓死者と分かるものだった。

 飢餓状態に陥った肉体は、体にあるべき材料やエネルギーの絶対量が不足しているため、内臓諸器官の機能が落ちてくる。体温が低下し、傷の治りも悪くなる。不足したエネルギーを体内の蓄えを分解することでまかなおうとする結果、代謝系のバランスが崩れ、血清脂質やタンパク質の異常値を示す。腎機能も落ちている上、カリウムを初めとする電解質のバランスも崩れているので、脱水症状を起こしやすく、またこのカリウムの低下は体中の筋肉、心筋や腸管、筋骨格系などに影響を及ぼし、不整脈や腸閉塞、けいれん、筋力低下などを引き起こす。鉄の欠乏と造血機能の低下による貧血も一般的な症状である。

 また拒食症の重要な症状に無月経がある。体重の減少にともない、女性ホルモンの分泌も減少することが原因である。また卵巣から分泌されるエストロゲンは骨形成にも関与しており、その減少によって、骨は脆くなり骨折しやすくなる。現にリーブス夫人にもこの2年間に三度も骨折の既往歴があった。

 その他にも、神経炎や脳の萎縮、抵抗力が落ちて細菌に感染しやすくなるなど体に受ける障害は計り知れない。

 心の傷が人間の体をこんなにも蝕んでしまうことの衝撃に、ケイトはすっかり打ちひしがれていた。

「では、まず遺体の全身を殺菌消毒することから始めますよ」

 内心にはどんな複雑な思いが秘められているにせよ、声にも態度にも一切の感情は出さず、マリエルは殺菌スプレーを遺体の全身に振りかけ始めた。拒食症患者は易感染状態にあり、夫人も細菌感染している可能性が大きい。

 まんべんなくスプレーを吹きかけた後、マリエルは顔を上げた。

「ケイト、洗浄液を取ってください」

 名前を呼ばれて、ケイトははっと我に返る。

 慌てて棚から洗浄液の入ったボトルを取ってくると、処置台の周りをぐるりと歩きながら遺体の上に降り注ぎ、スポンジで丁寧に洗浄した。

 その間、マリエルは遺体の傍の作業台で前処理疫の調合をしている。一見して、別に普段と何も変わった所はない冷静沈着さだ。

 ポールは、マリエルが今回の処置に関しては随分と感情的になっていると心配していたが、少なくともその思い入れが作業の的確さを損なうことはないようだ。

 ケイトの方がよほど動揺しているくらいだ。遺体の体を洗うスポンジを持つ手すら、やせ細った体を傷めてしまいそうで、力をいれることをためらわれた。角化した皮膚には女性らしい滑らかさはなく、ごわごわとしたゴムを触っているような感触だった。

 ホースの水で洗浄液を洗い流した後は、マリエルがスプレーで口腔内など細かい部分の消毒をすませた。

 柔軟性の失われた肌を切開するのは困難を極めるかに思えたが、マリエルの器用な指は滑らかに動いて、右鎖骨下を小さく切り開き、動脈の確保にとりかかった。脆くなった血管を傷つけぬよう細心の注意払いながらも、迷いのない指先が的確に結紮鉤を動かし、探り当てた頚動脈を引っ張り出す。

 その手際に、ケイトは緊張も忘れて、一瞬見惚れた。

 続いて静脈も確保。注入チューブを動脈につないでだ所で、マリエルはケイトに向かって合図を送った。

 ケイトがエンバーミングマシンを作動させると、静まり返っていた処置室に心臓の鼓動にも似た機械音が響き始める。

 マリエルは更に確保した静脈に吸引器をつないだ。機械の圧力によって、前処理液が遺体の体内に注入され、暗褐色に濁った血液が排出されていく。

「遺体のマッサージは、今回は特に念入りに行ないますからね」

 マリエルはケイトに向かってそう言うと、遺体に近づき、頭部にそっと手を置いた。

「大丈夫…安心して」

 マリエルでもこんなに優しい声を出すことがあるのかと思われるほど、愛情深く気遣いにあふれた声で囁く。

 ケイトは一瞬どきりとした。

 奇妙な胸騒ぎを覚えながら、マリエルがリーブス夫人の頭部を丁寧にマッサージするのに少しの間見入った後、ケイトもまた遺体の指先から揉み解す作業に取りかかった。

 前処理液の注入が終わると、マリエルは処理台を離れて、防腐固定液の調整を行ない、それをエンバーミングマシンにセットして、再びスイッチをオンにした。

「ケイト、そろそろ手がしびれてきたでしょう。私が代わりますから、しばらく休みなさい」

「はい」

 気合を入れてマッサージを続けていたおかげでかなり疲れてきていたケイトは、その言葉にほっとして、しばらく持ち場を離れた。

 マリエルが代わって、リーブス夫人のつま先から膝、更に腰の方に向かって、丹念にマッサージを繰り返す。

 ケイトは、いつ見ても大きなブレンダーを連想させるエンバーミングマシンに近づいて、そこに残されていた薬液の配合を記したメモを手に取った。

 それに目を通しながら、ケイトはあれっと思った。前処理液も今注入している防腐固定液も通常の配合とはかなり変えてある。特殊な遺体だから当然なのかもしれないが、ケイトが今まで聞いたこともないような配合の仕方で、それにあまり馴染みのない薬品が幾つも使われている。

「ねえ、マリエル」

 マリエルの作業の熱心さに一瞬声をかけることをためらいながらも、ケイトは思いきって聞いてみた。

「防腐固定液の中に入っている、このP‐217って、一体何の薬品なの?」

 ケイトの質問にマリエルは顔を上げたが、手を休めることはなかった。

「細胞浸潤液とでも言うのでしょうかね。緊縮の著しい組織に潤いと弾力性を取り戻させるためのものですよ。D社が開発中の薬品ですが、市場には出ていません。…たぶん商品化は難しいでしょうね。うまく使えば、他のどの薬品よりも、自然なふくらみと柔らかさを再現することが可能ですが、遺体の状態によって薬液量の調整が微妙に異なってくることと、他の薬品と化学反応を起こしやすいので…おかげで、前処理液も固定液も配合を考えるのに少し苦労しました。一つ間違えば、遺体がひどく膨張して取り返しのつかないことになるという厄介な代物ですが、成功すれば…ほら、こっちに来て、見てごらんなさい」

 言われるがままケイトは処置台に戻って、それまでマリエルがマッサージをしていたリーブス夫人のふくらはぎ辺りの皮膚を見た。

「あ…ちょっと変わってきている…?」

 褐色だった肌に赤みがさしてきているのは薬液中の色素のせいだろうが、かさかさになって細かい亀裂が走っていた肌が何だか少ししっとりしてきたようだ。

「触ってみると、もっと分かりますよ」

 指でそっと押してみて、ケイトは本当に驚いた。さっき洗浄した時は触れたら皮膚のすぐ下に骨を感じるような固さだったのに、指を押し返すような弾力が今度は感じられたのだ。

 信じられない。

 ケイトは遺体の顔を見てみた。それもまた先程とは違ってきていた。

「さて、では、これからしばらくは辛抱強くひたすらマッサージを続けますからね」

 マリエルの促すような声に、ケイトはそちらを振り向いた。

 唇から自然と笑みがこぼれるのにまかせ、ケイトは「はいっ」と元気よく返事をした。

 初めてリーブス夫人と会った時の途方にくれた心は、たちまち希望にあふれたものに変わっていた。

 大丈夫。きっとやれる。

 マーサとの約束通り、この人をもとの姿に戻してあげられる。

 マリエルがいるのだから、間違いはない。マリエルは死者と親しみ、その声を聞き、生きている人間の誰よりも彼らのことをよく理解できる。彼ならばきっと失われたリーブス夫人の本来の姿を再現してくれるだろう。

「心配しないで…」

 低い穏かな声でマリエルが呼びかけるのを何度か聞きながら、ケイトは心をこめて遺体の肌に手を滑らせ続けた。




 処置を済ませた遺体を隣の着付け用の部屋に運んだのは、エンバーミングを始めて4時間以上経過した後だった。

 時々休憩はしたものの、長時間マッサージを続けたケイトの腕は疲労の限界に達し、遺体を ストレッチャーに移す作業も苦痛なほどにしびれて、力が入らなかった。

 今回の仕事は、ケイトにとっても挑戦になった。

 マリエルは、トロカーによる体腔部の処置をケイトに任せたのだ。

 緊張しながらもミスをしないように丁寧に行った仕事は、まずまずのできだったとケイトは思う。

 実際、リーブス夫人の体腔内処理は、目を疑うほどに内臓が緊縮していた為にケイトにとっても容易なものだった。

 その後はまたマリエルに任せて、細胞浸潤液の効果も及ばなかった顔に刻まれた深い皺を、1本1本注射器で湿潤液を注入していくことで消していった。

 これまでになく大変だった、その作業は、しかし、とても実りのあるものだった。

 ストレッチャーに移す時、4時間前は枯れ木のように軽かったサンドラ・リーブスの体は、すっかり人間らしい重みを取り戻していたのだ。




「マーサは、衣装を選ぶのは任せると言ってくれましたが…」

 ボストンバックの中には、厚手のスーツとそれとはまるで違う印象の軽やかな淡いブルーの胸の開いたドレスが入っていた。

 おそらく、初めのスーツはサンドラの遺体の状態を考えてなるべく体の線が出ないようにと選ばれたものであり、ドレスの方はサンドラが生前本当に気に入っていたものなのだろう。

 あの遺体の状態では着せることはできまいと思いながらも、諦めきれずに、マーサは一緒にボストンバックの中に入れておいたのだ。

「ね、どちらにする?」

 机の上に広げた2着の衣装を腕を組んで眺めているマリエルに、ケイトが問うた。

「そうですね…スーツは無難かもしれませんが、何だかこの色も形も今の彼女には重々しすぎてふさわしくはないでしょうね」

「うん」と、ケイトも頷いた。

「絶対、このドレスの方が似合うわよ」

 マリエルは優しい目をして、ケイトに向けて頷き返した。

 エンバーミング処置を終了したサンドラは、別人に生まれ変わっていた。いや、これが本当の彼女なのだ。

 すらりと細身の体にブルーのドレスを身につけて台の上に横たわるサンドラは、摘み取られたばかりの花のように伸びやかで、瑞々しく、美しかった。

 つるりとした陶器のような肌には皺一つ残っておらず、優しく閉じられた瞼や夢見るような微笑みをうかべた唇の表情のせいで、実際の年齢よりも随分若く見え、あどけない少女のような清らかさを漂わせている。

「このままでも充分美しいけれど、やはりもう少し華やかさが欲しいところですね」

 マリエルは部屋の端に置かれた棚の引出しから遺体用の化粧品を取ってきた。

「大勢の弔問客が訪れるだろう告別式は、モデルだった彼女がつとめる最後の舞台となるでしょう。主役にふさわしい、美しいあでやかな顔にしてあげましょうね」

 死体に施すメーキャップはエンバーミングの最後の仕上げだが、それについてもマリエルはプロのメーキャップアーチストや美容師顔負けのセンスを持っていた。

 まずは、何種類かのドーランをまぜて欲しい色を作りだし、サンドラの顔に塗りつけ、指先で薄く延ばした。その上からパウダーをはたき、後は生きている女性がするように、頬紅、アイブロウにシャドウ、口紅等でメークをしていく。春らしい軽やかな淡いブルーのドレスにあわせて、マリエルはパールのきいた涼しげなブルーのシャドウを選び、ネイビーのアイラインを目の淵に引いた。唇には、輪郭を丁寧にペンシルで描いた後、艶のあるピンクのルージュを塗ってやる。

「ハイライトも少し入れましょうか。顔が明るくなるように…ああ、とても綺麗ですよ、サンドラ」

 サンドラの顔に触れるマリエルの指は恭しいほどの気遣いにあふれている。その指先がサンドラの肌を優しく滑り濃やかな技巧をつくしてなぞるにつれ、彼女の美しさは一層あでやかに花開いていく。

 ケイトはもはや声をかけることすら忘れ、マリエルがすべての神経を集中してサンドラに死化粧を施していく、その様子を息を飲んで見守っていた。

 ケイトの脳裏には、マリエルが初めて出会った夜に語ってくれた言葉がよみがえっていた。

(そう、この家で、マリエルはお母さんの遺体を見つけた。そのまま放置するには忍びず、たった1人で彼女の体から血を洗い流し、綺麗に服を着せて、生前の美しさを取り戻そうと化粧をしたんだ)

 ケイトが見たこともないその場面が、急に現実感を伴って頭の中にうかびあがった。

 台の上に静かな眠りを装って横たえられている女性は、何時の間にかサンドラではなく、あの写真の中の人、マリエルによく似た面差しの若い女性に変わっていた。そして、そっくりな顔を持つ少年となったマリエルは、母親の遺体を前にして泣きもせず、見つめる眼差しの強さと正確に動く指先に思いのすべてを込めて、彼女を美しくしていく。

(あなたを愛しているよ…)

 ふいに、いわく言いがたい胸苦しさを覚えて、ケイトは目をつぶった。

 心臓の鼓動が激しくなっている。

 こんなふうに感じるのはおかしいとケイトは思った。けれど、まるでマリエルはサンドラに恋をしているかのようだ。

 死者が光り輝いて見えるというマリエルの目には、今のサンドラはどんなふうに映っているのだろうか。己の手で美しく蘇らせた、この女性の姿は。

 メークが終わると綺麗に洗われた髪のセットにとりかかる。

 サンドラはゆるく波うつ見事な金髪をしていて、その美しさを活かすため、マリエルはドライヤーで軽くセットしただけで、自然な感じで顔の横に広がるようにした。

 やっと満足できる仕上がりになったのだろう、ドライヤーとブラシを棚の上に戻すと、マリエルは少し後ろに下がってケイトと同じ位置に立ち、サンドラの全身をつくづくと眺めた。

「どう思いますか?」

 ケイトはほうっと溜め息をついた。

「うん…こんなに綺麗な人、見たことがないわ」

 心からの賛嘆を込めて、ケイトは言った。

 そこにあるのは、もはやただの死体ではなかった。

 色とりどりの春の花々もかくやと思われる美しさを持つ、眠れる女神のような女性だったのだ。幸せな夢を見ているかのごとく微笑んでいる口許にそっと手を伸ばして触れてみたいと、男性ならば思わず心を惹かれてしまいそうなほど生き生きとして魅力的だった。

 サンドラの今の姿があまりにも鮮烈であったために、数時間前に見た無残な遺体の印象は薄れ、何だか現実にあったことのような気がしなくなっていた。

 マーサはどんなにか喜ぶことだろう。これで、もう愛する者の悲惨な死に顔を思い出すこともあるまい。

 マリエルは見事にやってのけたのだ。

 ケイトは傍らに佇むマリエルを振り仰いだ。口からあふれてきそうな賞賛の言葉をとっさに飲みこんだ。

 持てる技のすべてを注ぎこんで仕事を成し遂げ、今、サンドラを見下ろすマリエルの横顔は深い愛情に満ちていた。

 彼自身、サンドラの美しさにすっかり魅せられているかのようだった。自らが作り出したものに心奪われた事実に驚愕し、微笑んでいるようにも―。

「彼女を、ゲストルームに移してあげましょう」

 マリエルのその言葉が、仕事の終了を告げる神の声となった。

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