第3章秘恋(4)
「…分かりました。ご遺体が、空港に到着する時間が、明日の午後3時ですね。付き添いの方は、リーブス様ともうお一方ということで。当社の車で、お迎えに上がります。はい、それはもう、御希望でしたら、直接会って充分話しあうことも可能でございますが、その点に関しましては、技術者よりも専門のコーディネーターと話し合われる方が…はあ、まあ…そういうことでしたら…」
今朝早くに入った遠隔地よりのエンバーミングの依頼の応対に、ルイは何度も確認の電話をしたり空港に連絡をいれたりし、また搬送用の車の手配などに慌しく追われていた。
いつもは他の社員達に任せてしまうような細かい手続きまで一切合財引きうけて相当な気の使いようだが、それも無理のない話だった。今回の依頼は、とてもデリケートな問題をはらんだ、そして、仕損ずれば社の評判にも関わってくる重要なものだったのだ。
依頼主はロバート・リーブス。幾つものヒット映画を世に送り出した、やり手の映画会社の社長である。依頼してきたのは、彼の夫人のエンバーミングだった。まだ三十を過ぎたばかりの若さであり、もとモデルであった妻に生前の美しさを取り戻させてやりたい。そのために、人づてに腕のよいエンバーマーを探し求め、マリエルの存在を知ったという。
初めにその話を聞いた時は、若くして亡くなった妻を悼む夫を想像して気の毒になったし、そういう事情ならばできる限りのことをさせてもらおうと誠意をこめて対応していたルイだったが、そのうち最初の印象とは少々事情が違うようだと思い始めた。
エンバーミングの依頼もすべて秘書任せの事務的なもので、こちらがどういう会社なのかと確かめることもしない。そのくせ、遺体の処置については非常に神経をとがらせているようで、決してミセス・リーブスの処置をしたことはむろん遺体の状態についても外部には漏らさないことを繰り返し約束させられた。その不自然な態度については、後でFAXで送られてきた資料を確認して、ルイは多少納得がいった。
ミセス・リーブスは拒食症をわずらっており、その為の衰弱死だったらしい。社交界にも顔の知れた、ハリウッドの有名社長の妻の葬儀には、そうそうたる顔ぶれが集まることだろう。葬儀の演出いかんによっては、今後の仕事にも影響があるかもしれない。妻が拒食症で亡くなったという噂だけでもマイナスのイメージなのに、やせ細って骸骨のようになった遺体を人目にさらしたら、この上何を言われるか分かったものではない。痛ましさを払拭し、何としても幸福な一生を送ったものの早くして亡くなった裕福な婦人というイメージを作りあげる必要があったのだ。
直接リーブス氏と話したわけではないにもかかわらず、若くてもこの業界での経験豊富なルイにはそういう裏事情が透けて見えてきて、最初に覚えたやる気も次第になえしぼみ、実に気が重くなっていた。
今回の依頼をさらに難しくしているのは、それがマリエルを名指しで選び、おまけに遺族から、ぜひ技術者に直接会ってこちらの細かい希望を伝えたいとの要望があったことだ。
エンバーマーが直接遺族と会うことは、通常ない。遺族の希望その他をインタビューするのは、専門のコーディネーターの仕事だ。
だが、リーブス氏は、間に余計な人が入ることをどうしても拒んだ。
異例のことだが、仕方がない。搬送されてくる遺体に付き添う形で一緒にマリエルのもとまで案内することとしよう。ルイが同行すればそれほど心配はないだろうが、マリエルにも依頼者を居心地悪くさせるような言動は差し控えるよう釘を刺しておかないと。
極端な人間嫌いのマリエルの仏頂面を思い出し頭が痛くなる思いだったが、何とかなると自分に言い聞かせて、ルイはマリエル宅に連絡をいれるべく、電話の受話器を取り上げた。
前日に、今日来る遺体についての説明はある程度受けていた。
拒食症による餓死者。それは、今までケイトが考えたこともないような死に方だった。特に若い女性に多いという、その現代病とも言える病は、実に悲惨を極めるものだ。生命力にあふれて輝いているべき若い女性が食べる行為を否定して過激なダイエットに走り、次第に自分がコントロールできなくなって、命さえも危うくする状態にまで追いこまれていく。
搬送されてくる遺体を待っている間、ケイトは休憩室でエンバーミング処理の専門書を紐解き、餓死で亡くなった遺体の処理の仕方について予習などをしてみたが、その可哀想な女性のことを思うと技術的なことはなかなか頭に入って来なかった。
堪えきれなくなって、ケイトは傍らでぼんやりとコーヒーを飲んでいるマリエルに話し掛けた。
「どうして…拒食症なんかにかかってしまうのかな…ここにも写真がのっているけれど、どうしてこんなになって死ぬまで食べ物を拒否しつづけて…自分ではもう止められなかったのかな…」
「そうですね…とても痛ましいことだと思いますよ。拒食症は、本人の心の問題だけあって治療をするにも難しいのかもしれませんが、治らない病気ではない。本人が例え病気だという認識を欠いていて治療を拒否したとしても、家族が気づいて何とかしてやれば死ぬまで放置されることもそうはないと思うのですが…」
さすがのマリエルも今回のエンバーミングについては、気が滅入るのだろうか。声の響きも暗く沈んでいる。
いつだったか、小児ガンで亡くなった5才の女の子の処置を行なった時も、マリエルは随分と感傷的になっていた。まだ早過ぎましたねと何度も呟いては、強い薬の作用のせいですっかり髪の毛の抜け落ちてしまった、それでも天使のような愛らしさを留めていた小さな頭を撫でてやっていた。
「せめて彼女が生き生きと健康だったころの面影を取り戻せるよう、私達にできるだけのことはしてあげましょう。私の腕を信じてわざわざ遠方からやってきてくれるのですから、遺族の方にも来たかいがあったと思ってもらえるような最高の仕事をするつもりですよ」
自らを奮い立たせるように、静かだが決然とした口調で言い切って、マリエルは飲み干したコーヒーのカップをテーブルの上に置いた。
今日のマリエルはいつも以上に気合が入っている。
その様子を見て、ケイトは、この調子ならどんな変わり果てた遺体が到着したとしても大丈夫だと確信した。
もうすぐここに来るあなた、よかったわね。最高の処置を受け、元気だった頃の姿に戻って、あなたを待っている家族のもとに帰れるわよ。
その時、表の方で車の音が聞こえた。
「着いたようですね」
ケイトはマリエルを見た。マリエルが無言で頷き返し、ケイトは椅子から立ちあがった。
2人は共に部屋を出て、この日の特別なゲストを迎える為に玄関に向かった。
あまり広くない応接室に人が6人も集まると、狭苦しくて息が詰まりそうになる。
その上に煙草の臭いがこもっているのだから、喫煙しない者達にとってあまり快適な状態ではなかった。ついにたまりかねたのか、部屋の片隅に影のように佇んでいたポールが静かに動いて、部屋の窓を少し開いてくれた。新鮮な空気が入ってきてケイトは正直ほっとした。そして、目の前のソファにふんぞり返って煙草を吹かしている男を、相手に気づかれないように密かに睨みつけた。ここに着くなり断りもなく煙草に火をつけて、ルイが読み上げる契約内容その他の説明にもあまり気のない返事を横柄な態度でするだけのこの男に、ケイトはいい加減頭にきていた。
いくら有名な映画会社の社長だからといって、こんな態度はあんまりだ。ルイのあくまで仕事を誠実に行なおうとしている真面目さが哀れなくらい、相手はこちらを葬儀屋風情と見下しているのが明らかで、見ていて胸が悪くなるほどの傲慢さだった。
ルイが帰りに本社のショールームに立ちよって棺を選ぶよう勧めると、デザインも何も聞かずに用意できる最高のものでいいと、まるで死体を入れる箱になど何の意味のないと言わんばかりの無関心さだ。それについて、やはりここは自分の目でとルイがしつこく食い下がると、高いものを売りつけるのがあんたの商売だろう、その一番高いものを頼むと言っているのにこの上何か文句があるのかねと、嘲るように言い放つ始末だ。可哀想なルイは、真っ赤になって黙り込んでしまった。
見るからに上等そうなスーツに身を包んだその男は、見た所四十代後半。亡くなった夫人は、まだ三十を過ぎたばかりだったというから、随分年の離れた夫婦になる。
こんな男を愛して妻になろうという女性がいるものだろうかと、ケイトはちょっと首を傾げた。数多くのヒット映画を生み出した会社の社長だけあっていかにも精力的で明敏そうだが、自信過剰で傲慢、それにひどく冷たい目をしている。何よりもその態度は、とても愛する妻を亡くしたばかりの夫のものとは思えない。夫人を悼む言葉のひとつも、未だに彼の口からは語られていなかった。
遠路遥々遺体に付き添ってやってきて、エンバーミングを担当する技術者にもぜひ直接会って話をしたいと頼みこむくらいだから、よほど亡くなった婦人に対して思い入れがあったのだとばかり考えていたが、どうやらその予想ははずれたようだ。
隣に坐っているマリエルにケイトがチラリと目を向けると、彼は完全に感情消した人形めいた無表情で、正面に坐っているリーブス氏を冷やかに眺めている。何も感じていないかのような静けさだが、ケイトにはマリエルがこの依頼者を極めて不快に思っていることが感じ取れた。話の流れによっては、今回の依頼を拒否すると言い出すかもしれない。
微かに鼻をすする音がして、そちらに注意を向けると、リーブス氏の隣に坐ったプエルトリコ系の小柄な老婦人がハンカチで目元をぬぐっている。リーブス夫人の身の回りの世話をずっとしていた家政婦だと紹介されたが、彼女の方が婦人の死をよほど嘆いていているようだ。
「大丈夫ですか」
ルイもきっと同じ感慨を抱いたのだろう、優しい声で老婦人に声をかける。
「ええ…ええ、すみません…何だか、まだお嬢さんが亡くなったなんて信じられなくて…」
おそらく移民なのだろう、なまりのきつい英語で彼女はたどたどしく話す。
「亡くなった婦人とは、随分長い間…?」
「はい、お嬢さんがまだ小さかったころから、お世話をさせていただきました。私にとっては、実の娘と同じくらい大事な方でした」
「マーサは妻の実家で働いていたのですが、結婚する時、妻がどうしてもと言うのでいっしょに来てもらったんですよ。こんな年寄りに無理を言って別の土地に来てもらうのもどうかと思ったんですが…」
リーブス氏は不愉快そうにマーサの方をじろりと睨んだ。それから、改めて正面に坐っているマリエルを値踏みでもするかのような目つきで遠慮なくじろじろと眺め回した。
「それで…この男が凄腕だという噂のエンバーマーか。ふん…防腐処理人には見えないが、本当に腕は確かなんだろうな」
その無礼な言い方に、またしてもケイトはカチンとなった。疑うのなら別にこちらは構わないから遺体をつれて帰ってよと言ってやりたい気分だった。
「マリエルの技術については、どうぞ御安心を。この業界広しといえども、彼ほどの腕を持つエンバーマーはまず見つからないでしょう」
この点は、ルイは文句をつけられるものならつけてみろと言わんばかりに胸を張って答えた。しかし、
「無免許だと聞いているが…」との意地悪なリーブスの呟きにぐっと詰まってしまった。
「それを御承知で、あなたは私に依頼をされたのではないのですか」
今まで冷たく美しい飾りもののように無言のまま目の前で展開する不愉快な成り行きを見守っていたマリエルが、ついに口を開いた。
「無免許であろうが高度な技術を持つエンバーマーに奥様の処理を依頼しなければならない特別の事情がおありだから、わざわざ空を飛んでここまで出向いてこられたのでしょう。それなのに今更、私が資格を剥奪されたいわくつきの人間であることを問題にされるのですか?」
極めて淡々とした口調で言われたのでなければ、かっとなって怒り出したかもしれない挑戦的な台詞だった。しかし、マリエルの声にはどんな感情もこもっておらず、さすがのリーブス氏もとっさに何と答えればいいか分からぬようだった。
リーブス氏は何とも居心地の悪そうな顔になって、新しい煙草を取り出し火をつけた。
「妻を…どうにかしてまともな姿に戻してほしい」
苦りきった顔で彼は言った。
「妻は、その美貌で知られていた…心を病んでからは社交界には出なくなったが、誰もが覚えている妻のイメージを、あの変わり果てた骸骨のような遺体をさらすことで壊したくはない。あれを見た者は、きっと妻がどんなにか悲惨な結婚生活を送ったに違いないと邪推し、無責任な噂を撒き散らすことだろう。拒食症というと、本人の心の問題よりも、やれ親の育て方が悪いだの仕事や人間関係でのストレスだのと周りにいる人間たちに責任があるかのように言いたてられる。全く、とんだ言いがかりだ。結婚してもうまくいかない夫婦は五万といる…あんな悲惨な死に方をされるほどの仕打ちをした覚えなど、私にはない。彼女の心の中にこそ病気はあったんだ…そのマーサも知っていることだが、思春期にも一度妻は拒食症になったことがあった…私は知らなかった…。そんな厄介な病気を抱えていると知っていたら、結婚などしなかったかもしれない。今更後悔しても遅いが…。とにかく、根も葉もないゴシップを騒ぎたてられては、私個人としては無論、会社にとっても大きなマイナスイメージになりかねない…そんなことは社の経営者として何としても避けねばならん。どうか、お願いだ。妻を以前のような美しい姿に戻してくれ」
リーブス氏は、傍らにおいていた書類鞄の中から何冊かのファッション雑誌を取りだし、机の上に投げ出した。
「妻がモデルをしていたころのものだ…6年前に結婚して引退するまではトップモデルとして引っ張りだこだった」
表紙を飾る、当時の最新のファッションに装ってポーズを取っている金髪の女性を彼は指し示した。その女性は華麗に舞う蝶のように美しく輝いていたが、ケイトには、何だか人間というより色鮮やかに塗りたくられた綺麗な人形めいて見えた。こういう化粧はどうも好きにはなれない。
「この頃の妻の面影を取り戻してやってくれ。いや、あんたの腕をもってしても完全に修復することは無理だろう。だが、可能な限り取り繕ってくれ…全く、こんなに美しかった女があんな姿に成り果てるとは、悲惨の一言に尽きる」
これで言いたいことを言ったとばかりにソファの背に持たれかかって煙草を吹かすリーブス氏を、ケイトは胸の奥からこみ上げてくる怒りとやりきれなさを込めた目で睨みつけた。
この男は本当に、妻の死を嘆く心など欠片も抱いてはいないのだ。ただ自分の世間体を守りたい一心で、妻の遺体を他人の手にまかせようとしている。遺体の尊厳もなにもこの男の頭の中には初めからありはしないのだ。
膝の上に置いた手を、ケイトはぎゅっと握り締めた。
「どうだ、この仕事、あんたにできそうかね?」
リーブス氏は何とも嫌な目つきでマリエルを見据えながら、試すような口調で言った。
ケイトはとっさに傍らのマリエルを振りかえった。
「お引き受けします」
意外だったのか、それとも当然のことだったのか、ケイトにも一瞬どちらか分からなかった。
「そうか。引きうけてくれるか」
己の膝を軽く叩いて、リーブス氏は満足そうに笑った。だが、その目は、おまえになどできるものかとマリエルを露骨に嘲笑っている。
「よし、ではこれで商談成立だ。明日の9時に遺体を引き取りに来るから、すぐに運び出せるよう支度を整えておいてくれ」
そう言って椅子から立ちあがるリーブス氏に、マリエルがふいに声をかけた。
「待ってください」
「何だ?」
「1つお聞きしたいのですが、婦人とはずっと別居状態でいらしたのですか?」
リーブス氏の眉間に深いしわがよった。
「そうだ。それが、どうした?」
「では、夫人が病院に入院されて亡くなられるのまでの間、面会には…?」
「どうしても手を離せない、新作映画のプロジェクトがあったんだ。それに、まさか死ぬとは思っていなかった」
「では、亡くなられたという知らせを受けて、初めて病院に?」
「そういうことになるな」
「夫人のお顔は、その時初めてご覧になったんですね」
「ああ」
何を思い出したのか、ぞっとしたような顔でリーブス氏は言った。
「正直言って、驚いた。まさか、あんなことになっているとは…」
「彼女には、触れましたか?」
「何だと?」
「あなたの奥さんじゃないですか。キスをしたり、抱きしめたり、せめて手を握ることくらい、されたのでしょう?」
リーブス氏は険しい顔で、マリエルを睨みつけた。
「そんなことが、一体おまえの仕事と何の関わりがある? たかが防腐処理人が、私に説教をたれようというのか?」
「いいえ。私はあなたを責めるべき立場にはありません。それをするのは、あなたの奥さんでしょう」
リーブスははっと息を飲んだ。それから、改めてマリエルの氷のように整った顔を青く輝く底知れぬ瞳をつくづくと見つめ、冷たい水を浴びせ掛けられた人のようにぶるっと身震いして、顔を背けた。
「変わり者だとは聞いていたが、どうやら本当に頭がおかしいらしいな。死体ばかりと一緒にいるせいだろう」
それから、少しでも早くこの場から逃れたいというかのように扉に向かって歩き出した。
「これ以上ここにいるのは、我慢ならない。死臭が染みついていて、ぞっとする」
「あ、お待ち下さい」
ソファから立ちあがったルイが、慌てて後を追う。
2人が出ていった扉を、部屋に残された者たちは凝然と見つめた。
向こう側ではリーブス氏の怒鳴り声がし、哀れなルイが必死になって謝りなだめようとしている。
「あの…」
遠慮がちな声がしてそちらを振りかえると、目を泣き腫らした老婦人が尊敬と信頼のこもった眼差しでマリエルを見つめていた。
「ありがとうございます…あの男をあんなふうに黙らせることのできる肝の坐った者はめったにおりません。あなたの言葉を聞いて、私は何だか胸のつかえが下りるような気がしました。よかった…あなたはお嬢さんの無念をちゃんと分かって下さっている。あなたになら、安心してお嬢さんをお任せできます」
リーブス氏に対する非人間的なまでの冷たさとは打って変わって、マリエルは薄い唇に優しい微笑をうかべた。
「彼女を愛していらしたんですね」
マーサはこくりと頷いた。思い出したようにバックを引き寄せ、中から一枚の写真を取り出した。
「お嬢さんが結婚したばかりの頃、新婚旅行でカナダに旅行に行った時のものです。この頃は、まだあの男もお嬢さんに優しくて…こんな幸せそうな美しい顔で写っている写真はこれが最後です」
マーサは、また悲しみが込み上げて来たらしく、鼻をすすった。
マリエルはテーブルの上に置かれた写真を手にとって眺めた。ケイトも横から覗き込んだ。
湖の前で、淡いブルーのワンピースを着て笑っている女性が写っている。先程リーブス氏が突きつけるように見せた雑誌の表紙のモデルと同じ人物だが、全く違う印象だった。この写真の中で、彼女はほとんど化粧もなく、綺麗な薔薇色をした頬を輝かせて心から幸せそうに笑っている。それは、メイクや衣装で飾り立てられた華麗な蝶を思わせる姿よりもずっと自然な美しさで、快活な表情とは裏腹の瞳にうかぶ繊細さが、この女性の本質をよく表していた。
「お嬢さんが心のバランスを崩したのは、楽しみにしてらした赤ちゃんを流産された時からです。心に深い傷を負ったお嬢さんは、あの男に支えてもらうことを望みましたが、あの男は仕事が忙しいからと、すがりつくお嬢さんを振り切るようにして外に出かけるばかりで、帰ってこないことも度々ありました。本当の話、お嬢さんが妊娠している時から、あいつは浮気をしていたんですよ。流産してから泣いてばかりで一緒にいても気がふさぐだけの妻より、若くて健康な愛人の方がよかったんですね。そのままあの男は広い家にお嬢さんを残して、ついに出て行ってしまいました。お金はそこそこ贅沢ができるくらいに充分に送ってくれましたし、もっとしたたかな女なら、夫は放っておいて自分は自分で楽しくやっていくこともできたのでしょうが、お嬢さんはそういうタイプではなかったんです。モデルだなんて華やかな仕事をやっていて、それにあの外見ですから誤解されがちだったんですが、実はとても繊細で傷つきやすい人だったんです。思春期に、母親が勝手に家を出ていって厳格な父親に育てられたものですから、温かい家庭に憧れてらして…結婚生活にもすごく夢を持ってらしたんですよ。ああ、どうして、よりによってあんな男を愛してしまったのか。それだけが悔やまれてなりません。世の中には、お嬢さんを幸せにしてくれる、もっと優しい男達もたくさんいたでしょうに…。本当に、運命っていうのはうまくいかないものですねぇ。あの男と結婚してしまったのが最大の過ちだったんですよ。お互い伴侶に対して求めるものが違いすぎたんですね…あの男はあの男で、華やかで人目を引く仕事の席でも自分のパートナーとして充分やっていける社交家の妻を得たつもりで、実際はひどく家庭的な女と結婚してしまったわけで…」
マーサはハンカチで鼻をかみ、さらに続けた。
「あの男は、お嬢さんが拒食症になったのは、お嬢さん自身のせいで自分は関係ないなんて言ってましたけれど…確かに、母親が出ていった後もしばらくものが食べられなくなったことはありましたけれど、それは本人のがんばりもあって克服できたんですよ。そして、努力してトップモデルにまで上り詰めるまでになったんです。あの頃のお嬢さんは幸せでした。全て、あの男と結婚してから、おかしくなったんですよ」
ふいに激しいものが込み上げてきたのか、マーサは叩き付けるように言った。
「1年程前でしょうかね、拒食症がすすんでやせ衰え、生理もとまって、無理に食べさせてもすぐに吐きもどしてしまう状態にまで追いこまれていたお嬢さんのもとに、久し振りにあの男が帰ってきたんですよ。顔を合わせるのは、ほとんど1年ぶりでした。別人のようになってしまったお嬢さんに驚き、そして、嫌悪を覚えたようです。その夜、居間で激しい喧嘩をしている声を私は聞いたんです。どうしてこんなに長い間見捨てたのかとなじるお嬢さんを、あの男は残酷にののしりました。どうして捨てたかだと、あの男は言いました。自分の姿を鏡に映して見てみるがいい。捨てられるのも当然だと分かるだろう。おまえはもう美しかった頃のおまえじゃない、もう女ですらない、そんな骨と皮ばかりの体を抱いてくれる男がいると思うのか。傷ついたお嬢さんをさらに鞭打つような捨て台詞を残して、そのままあの男は家を出ていってしまったんです。それから二度と帰って来ることはありませんでした。ええ、お嬢さんがついに入院することになったと知らせても、もう危ないかもしれないと伝えても、顔を見に来るどころか向こうから様子を尋ねてくることもありませんでした」
「ひどい…ひどすぎる…!」
堪り兼ねたケイトが悲鳴のような声をあげた。感じやすい彼女の目は、既に涙で一杯になっていた。無言のまま動いたポールがティッシュの箱を持って来てケイトに差し出した。
「ありがとう…」
ケイトが鼻をかむのをちらっと見た後、マリエルはマーサに顔を向けて穏やかに尋ねた。
「あなたが見せて下さった、この写真の中の彼女に再び会いたいと思いますか?」
マーサは、込み上げてきた哀しみに唇を震わせながらも、はっきりと答えた。
「ええ。リーブスのせいであんな姿に変えられてしまったお嬢さんをもと通りにしてください。これからの一生、あんな可哀想な姿で亡くなったという記憶を抱いていくなんて耐えられません。それに…お嬢さんの遺体をまるでもの扱いにしているあの男に、最後に、どんなに彼女が美しかったか思い出させ、自分が一体何をしたのか思い知らせてやりたいんです」
マリエルはそっと手を伸ばして、きつくハンカチを握り締めた老婦人の皺だらけの手に触れ、包み込むように握り締めた。
「安心してください。明日の朝には、あなたの覚えているとおりの彼女に再会できますよ」
マーサは大きく目を見開いたまま、しばしマリエルの静かな微笑みをたたえた顔に見入った。
「あ、ありがとうございます…そう、ここに何着かお嬢さんの服を用意してあるんです」
マーサは足元のボストンバックを示した。
「この中で先生がお嬢さんに一番似合うと思うものを着せてあげてください」
「分かりました。どうぞ後のことはすべて私に任せて、今日はホテルでゆっくり休んでください。葬儀が終わるまで、しばらくの間ゆっくりする暇もないでしょうし」
マーサはまだ名残惜しげにマリエルの顔を見ていたが、外でいらいらしながら待っているリーブス氏の存在を思い出したのだろう、思いきるようにソファから立ち上がった。
これでやっと肩の荷が下りたのだろう、マーサはうっすらと微笑みさえうかべた。
「それにしても、防腐処理人なんていうとてっきり太った肉屋みたいな人が出てくるのかとばかり思っていたら、まさか先生みたいな人だなんて。何だか安心しましたよ。ごつい男に、あの繊細な人の体を無造作に触らせるのかと思うと可哀想だったんですが…何というかいつまでも少女趣味なところがあって、綺麗なものがとても好きな人でしたから…。でも、先生なら、きっと大丈夫ですわ」
「だといいのですが」
マリエルは少し苦笑したようだ。
「保証しますわ。お嬢さんは、きっと先生のことはお気にいられるはずですよ」
マーサが出ていくのを玄関先まで送った後、マリエルとケイトはどちらともなく顔を見合わせた。
「仕事、がんばろうね」と囁くケイトに、マリエルは黙って頷く。
あの老婦人のおかげで、一時はとても気の重いものになりかけた今回のエンバーミングの意義を見つけられたような気がした。
精一杯の仕事をしよう。マーサのために。そして、可哀想なリーブス夫人の名誉の為にも。
「それにしても」
ふいに思いだしたかのようにマリエルが呟いた。
「防腐処理人のイメージって、ああいうものなのでしょうかね…肉屋って…ねえ…」
「ああ」
さっきのやり取りを思い出して、何だかおかしくなりながら、ケイトが続けた。
「いくらなんでも、あんまりよねぇ、それは」
笑いかけるケイトにマリエルも口許をわずかにほころばせた。それから、ふいに厳しいプロの顔になった。
「さあ、いつまでもリーブス夫人を待たせていてはいけません。早速仕事に取り掛かりますよ」
「はいっ」
すぐに踵を返して奥に戻っていくマリエルをケイトが追いかけようとした時だ。マリエルと擦れ違うようにしてやってきたポールに引きとめられた。
「俺は、ルイと一緒にこれからあの厄介な客達をホテルまで送っていかねばならんが、ケイト、マリエルをくれぐれも気をつけて見ていてやってくれ」
いつにない深刻な表情で囁くポールに、ケイトは戸惑った。
「気をつけるって…どういうこと?」
「単なる思い過ごしかもしれんが、マリエルの奴、今回処理をする遺体に随分感情移入をしているようだから…奴ほどのプロなら、それで仕事に差し障りが出ることはあり得ないが…何というのか、ただでさえ死者に対してただならぬ情熱を注いでいる男だから、あんなふうに感情的になってしまうことに、何やら危うさのようなものを感じるのだ」
「感情的って、マリエルが?」
「気づかなかったのか?」
「うん…随分同情はしているみたいだなって思っていたけれど…」
「あの夫婦の話を聞いていて、ピンとこなかったか…妻のことを顧みなかった身勝手な夫とその犠牲になって破滅させられた妻と…」
「あ…」
ケイトははっと息を飲んだ。
「もしかして、マリエルの両親のことを言っているの?」
「ああ、あいつは自分の親とあの夫婦を重ねて見ている。だから、あんなふうに気持ちがあの死んだ女性に向いているのだろう。同情するのは構わんが、俺は死者を生きた存在のように錯覚してしまうのはとても不健康だと思うのだ。それで今回は、あいつの精神状態をちょっと心配している。何というのか、死者の世界に引き込まれてしまいそうで、危うく思えるのだ」
ケイトはとっさに何と答えればいいのか分からなかった。
ポールの言いたいことはよく分かるし、心配する気持ちも理解できる。死者を生きているかのごとく錯覚してしまうのは、確かに正常な精神状態ではないのだろう。けれど、マリエル自身が語ってくれた、彼が常に感じている別の世界のことを思い出せば、ポールの言う常識など彼には届かないことは明らかだった。死者であろうと生きている人とは変わらぬ接し方をするのは、マリエルには本当にそんなふうに見えているからだ。星のように光を発する、死者の姿が見えるからだ。
「うん…分かったわ、おかしなことにならないように注意するから…」
ポールを納得させるためにそう言ったものの、何にどう気をつければいいのか、ケイトにはよく分からなかった。
ポールを見送った後、ケイトは階上で待っているマリエルのもとへ急いだ。
マリエルが非業の最期を遂げた母と今回処置をすることになった女性を重ねているのかと思うと、この仕事に対する感情の複雑さは増したが、今はそんなことを脇にのけておいて、仕事に専念しようと自らに言い聞かせた。
それはただでさえ、とても大変な仕事になることは間違いなかったから。