第3章秘恋(3)
「2週間、よく音をあげずにがんばりましたね」
マリエルがルビー色をしたワインの入ったグラスをテーブルごしに掲げるのに倣って、ケイトはオレンジジュースのコップを持ち上げた。
「この調子で続いてくれればいいのですが…」
さて、どうなることか、とでも言いたげな目でケイトをからかうように眺めながら、マリエルはワインのグラスを口に運んだ。
「もう大丈夫よ。今日だって、倒れなかったでしょう?」
「おやおや、真っ青になっていたじゃないですか」
ダイニングの照明は、ほの明るい程度におとされている。
楕円形のテーブルの中心には切子ガラスのキャンドルスタンドの揺らめく炎が輝いている。その光を受けてテーブルの両側で和やかに談笑している者達の顔も輝く。
グリーンヒル・モーチュアリ社で働くようになって以来、あんまり忙しく夢中になって毎日を過ごしていたものだから、何時の間にか半月がたっていたということにもケイトは気がつかなかった。
くつろいだ様子でワインを飲んでいるマリエルをちらっと見ながら、ケイトは料理を口に運んだ。
「マリエルって、意外に料理上手なんだぁ」
実際、マリエルが作ったロースト・ビーフは完璧な火の通り具合だった。少なくとも彼はケイトよりずっといいシェフのようだ。
「よければ、まだおかわりもあるから、たくさん食べてください。たまには人を食事に招待するのもいいですね。普段では、こんな料理わざわざ作ることはありませんから」
そう言うマリエルは食事よりもワイングラスに手をつける回数の方が多い。
「お酒、好きなんだ」
「そうですね…何時間も処置室に立ち続けての作業の後は、さすがに体が冷え切ってしまいますから、そんな時は体を温めて疲れを癒してくれるものが欲しくなります。昔はそうでもなかったのに、この仕事を始めてから確かに酒量は上がりましたよ。食事の時もそうですが、熱い湯を張ったバスタブの中につかってゆっくりとグラスを傾けることが、あまり楽しみのない生活の中で唯一私が楽しみにしているもので…ルイなどは、そんな悪い習慣はやめないと、そのうち入浴中に酔いつぶれて溺死するぞなんて、脅かすんですが」
「ふうん…」
今夜のマリエルは珍しくよくしゃべった。普段はまるで声を出すことが惜しいとでもいうかのように必要最小限のことしか話さないのに、程よく回ってきたワインのせいか、それとも自宅のダイニングでの食事という寛いだ雰囲気のせいか。お喋りのケイトが今夜に限っては聞き手に回っているくらいだ。
「ねえ、マリエル、1つ、聞いてもいい?」
打ち解けた雰囲気にすっかり気分をよくしたケイトは、ふと思いつくままに切り出した。
「あなたが今まであたしに見せてくれたエンバーミングは、どれもすごいものだったけれど…学校の授業で習ったはずの方法が技術者の腕次第でここまで違ったものになるのは驚きだったけれど、あなたがあたしの父さんにしたような処置は、あれ以来しなくなったの?」
マリエルは口に運びかけたグラスをテーブルに戻した。
ケイトはもしかして聞いてはいけないことを聞いたのだろうかと、一瞬ひやっとした。しかし、ケイトに向けられる青い目は、別に怒っている様子ではなかった。
「あれはね、本当に特別な処置だったんですよ。あのエンバーミングについては色々と噂が広まってしまって、おかげで私は資格も失ったというのに、むしろ以前よりも数多くの異常死体の依頼が舞い込むようになったんです。ほとんどは丁重にお断りしましたし、引きうけたとしても通常許される範囲の処置を施したに過ぎません。もちろん全力は注ぎましたが。ただ、一件だけ、どうしても引きうけざるを得なかった依頼を除いてはね」
そんなふうに語り出すマリエルの顔はどことなく面白がっているように見えた。
「それは、一体どういう依頼だったの?」
マリエルは空になった自分のグラスにワインを注いだ。
「ニューヨーク一のマフィアと言われるファルネーリ・ファミリーの名前は聞いたことがあるでしょう? 1年程前に内部抗争が激化して、ニュースでも度々取り上げられていた…」
「イタリアン・レストランで誰かが襲撃を受けたっていう、あれ…?」
「そう、殺されたのはドンの息子でした。私がエンバーミングを施したんです」
「あなたが?」
ケイトは目を丸くした。
その事件なら、いつかテレビのニュース番組で見た覚えがある。初めは対立する組織による暗殺だと言われていたが、実際には内部抗争だったという話だ。
「私は、まさか自分の人生でマフィアと関わることがあろうとは夢にも思っていませんでしたが、向こうは、私の噂を聞きつけてすぐに居場所つきとめてきたんですね。そして、会社を通じての依頼なんて回りくどい方法ではなく、実に強引に、私を拉致したんですよ」
「拉致?」
仰天して、ケイトは叫んだ。
「ショッピングセンターで買い物をした帰り、駐車場で怪しげな2人組に襲われたんです。薬をかがされて…クロロフォルムだとすぐに分かりましたが、その瞬間には私は意識を失っていました。そして、次に気がついた時には、私はニューヨーク市内の某葬儀社の防腐処置施設に連れてこられていたというわけです。そこで初めて事情の説明を受けました。ファルネーリ氏その人と秘書だという男、それと用心棒風の人相の悪い男達が施設内をうろついていましたね。葬儀社ごと買収したのかもともと繋がりがあったのかは知りませんが。ともかく、彼らは私に死んだ男の修復を依頼したんです。およそ百発の銃弾を体中に撃ちこまれて文字通り蜂の巣になった遺体のエンバーミングをね。国中から親族達が集まってくる葬儀の日までにはどうしても息子を元通りの姿にして欲しいと、ドンに手を取られて頼みこまれましたよ。その為の協力は惜しまないからと。そうして、彼らはストレッチャーに乗せたもう一体の遺体を処置室に運びこんできたんです。ほら、この通り、修復に使うパーツ用の遺体も用意してある。どうぞ、これを使ってくれとまで言われて、彼らが心底本気なのだと分かりました。ドンの息子の遺体は確かに悲惨なものでしたが、ワックスの多用やビルディングといった通常の方法でも、それなりに生前の面影を取り戻すことはできたと思います。けれど、彼らはどうしても私に、かつてしたような特別な処置を望んだんです。後で分かったことなのですが、彼らが運んできたもう一体の遺体、それは暗殺の首謀者である元幹部のものだったんです。つまり憎い仇をただ殺すだけではなく、変わり果てた姿にされた息子の体を修復するために使った。復讐ですよ。それには、周囲に対する見せしめの意味もあったのでしょう」
「それで、あなたは、その仕事を引き受けた」
思わずゴクリと喉を鳴らして、ケイトは言った。
「だって、あの状況で嫌だとは言えませんから。仕事を引きうけて彼らが満足する処置を完成させなければ、私があそこから無事に帰れる保証はなかったんです」
絶句しているケイトをチラリと眺め、マリエルはワインで喉を潤した後、再び口を開いた。
「幸い、私の仕事はファルネーリ氏を大変満足させたようです。無事に家に帰してもらいましたし、後日、謝礼にと多額の小切手を秘書の方が自宅までわざわざ持って来てくれました。それどころか、私はどうやら気にいられたようで、以来ファミリーの誰かに不幸があった時には私にお呼びがかかるようになりました。今では私のお得意様です。何かあった時には力になるからぜひ声をかけてくれと言ってもらっていますが、あまりマフィアの助けを得なければならないような窮地には陥りたくはないですね。ああいう法律破りな処置も、できれば二度と御免ですよ」
マリエルはテーブルの上に両肘をついて手を胸の前で組み、ケイトの顔をじっと覗き込んだ。
「どうです? ちょっと映画みたいな話でしょう?」
「う…そんなブラックな映画、あたし、知らない」
ケイトが頭を抱えるのに、マリエルは珍しくも声をたてて笑った。そして、椅子を音もなく引いて席を立った。
「デザートを用意しますね。待っていてください」
デザートのアイスクリームを食べ終わった後、ケイトはリビングの方に移った。マリエルはコーヒーを煎れてくれている。ぼんやりとソファに坐って、ケイトが珍しげに周囲を見渡していると、やがてコーヒーのいい匂いが漂ってきた。
ケイトは、グラス類やブランデーやリキュールの類を収めたサイドボードの上に置かれている、幾つもの写真たてに目をとめた。立ち上がって近づき、興味津々眺めてみる。
この家のもともとの主人だったというマリエルの祖父母らしい老夫婦が家の玄関の前で仲良く写っている写真を中央に、ピンと尻尾をたてた銀色の猫、また別に白いサマードレスに身を包んだ一人の若い女性が写っているものがある。
ケイトの注意はその女性に集中した。思わず手に取って、しげしげと眺める。
随分古いものらしい写真。だが、その若い女性の顔かたちははっきりと分かる。何ということだろう、マリエルにそっくりだ。
「あまり、じろじろ見ないで下さいよ。恥ずかしいですから」
いきなり背中に声をかけられて、ケイトは一瞬飛びあがりそうになった。
「あ…ごめんなさい、つい…」
マリエルは肩越しに手を伸ばして、ケイトからその写真を取り上げ、サイドボードの上に戻した。
「あなたの…お母さん?」
「よく似ているでしょう? 年に取るにつれて、どんどん似てきて…おかげで、その写真を見るのはちょっと照れくさいんです。何だか自分が女性になったかのようで」
ケイトはサイドボードの上に戻された写真を見、それからマリエルの照れくさそうな顔をつくづくと見、改めて驚いたような溜め息をついた。
親子が似るのは当然だが、マリエルはまさしく写真の中の女性を鋳型にして作られた分身そのものだった。父親から受け継いだ部分など果たしてあるのだろうかと思われる程だ。
ケイトの思いが伝わったのか、マリエルはふと遠い目になった。
「外見だけじゃなく性情も私は母に似ていて、父親はそれがずっと気に入らなったようです。私のやることなすこと理解できないと言っては、いつも腹をたてていました。決して悪人という訳ではなかったのですが、自分と全く別の種類の人間を妻にしてしまったことが彼の最大の過ちであり、罪だったんです。彼が望んでいたのは、自分と同じ現実的な価値観を持った、家事をきちんとこなして明るく平凡な家庭を守っていける平均的な妻と、休みの度に一緒にキャッチボールをして遊んでくれとせがんでくるやんちゃで可愛い息子だったんですが、手に入れたものはそれとはあまりにも違っていたんですね。思えば、彼は彼で不幸だったのかもしれませんが」
「その…あなたのお父さんは、今は…?」
「さあ…私が医者を辞めて、葬儀社を継ぐことに決めたことに激怒した彼は、私とはもう縁を切ることにしたようです。フロリダ州に移り住むという連絡を受けたのを最後に、もうずっと音信不通ですよ。たぶん、生きてはいるのでしょうが」
極めて淡々とした口調でそう話すマリエルを、ケイトは黙って見守っていた。ケイトの哀しげな眼差しに、マリエルは一瞬言葉を切った。
「母を…病院に入れると決めたのは、父でした」
マリエルはふいに手を伸ばして、写真たてを伏せた。マリエルによく似た女性の姿はケイトの視線から隠された。
「私が母とともに祖父の実家であるこの家で暮らしていた時のことは、少し話しましたよね。幻想の中で生きていたような母と夜中によく墓地に遊びに行ったと…」
「ええ」
「実は、ある夜、事故があったんです。墓地の中にある池に私が落ちて、溺れたんです。たまたまその墓地に同じように忍び込んでいた若いカップルが近くにいて騒ぎを聞きつけてやってこなければ、私は本当に死んでいたでしょうね。実際、引き上げられた時は、私の呼吸はとまっていたそうで…すぐに救命処置をされて病院に運ばれても、続く3日間意識を取り戻しませんでした。別居中だった父親が連絡を受けて慌てて飛んできたんですが、彼は母が私を殺そうとしたんだと言い張って、私が病院で眠っている間に彼女を無理矢理病院に入れてしまったんです」
「そんな…」
「目を覚ました私がどんなに頼んでも、父は決して母を返してはくれませんでした。こうすることが母のためだと、病院で治療をしてもらってよくなったらすぐに戻れるのだと、あやすように言ってね。結局2年後に母は帰ってきましたが、ほとんど廃人同様になっていましたよ。そうして、最後に自らの手で命を絶つまで、彼女が私や他の家族を認識することはありませんでした。母の人生を殺したのは父だという思いが、ずっと心の中につきまとっています…父が実際にはどんな人間であろうと、彼は彼なりに苦しんでいたのだろうと、私は忘れることも許すこともできないんです」
沈黙が、2人の間に訪れた。
サイドボードの上に伏せられた写真立てを、マリエルは彼にしては珍しい、静かだが激しいものを秘めた目で見つめている。
そう、この家だったのだ。ふいにその事実にケイトは行き当たった。
マリエルの母が自ら命を断った。彼女の遺体と2人きりで一晩過ごしたマリエルは、その手で死んだ母の体を綺麗に洗い、好きだった服を着せて、死に顔が安らかに美しく見えるよう化粧をした。彼がわずか12才の時に。
「お母さんのこと…好きだったのね」
ぽつりともらすケイトに、マリエルはふと眼差しを伏せた。.
「そうですね…私は、友達はなく、父親からもほとんど見捨てられた寂しい子供で、美しく捕らえどころのない母親を女神のように崇拝していたんだと思います。それに私達は同じ夜の生き物でしたから、どんな姿になっても私には母の思いがよく分かったし…もし彼女があんなことにならなくて今も生きていたら、私のよい理解者になってくれただろうとも思うんです。言っても仕方のないことですが」
すべてを諦めたような陽炎じみた淡い微笑が、マリエルの薄い唇にうかんだ。
「ここの写真に写っている私の家族、数少ない友人と呼べる者達…考えてみれば、皆、この世にはいない人たちばかりです。ドクター・ジョーンズも、亡くなられましたし…どうやら私はこの世に生きている人とは縁が薄いらしい…愛した者達は皆墓の中、そして、私は死を扱うことを生業にしている…そういう運命なのでしょうかね」
「寂しい…?」
思わず問いかけてしまったケイトは、マリエルがふいに黙りこんでしまうのに、己の口を手でそっと押さえた。
マリエルがいつになく親密な様子で様々な打ち明け話をしてくれたものだから、つい調子に乗って深く追求してしまったけれど、ちょっとぶしつけだったかもしれない。己の心の深い部分を他人に語ることには、マリエルはたぶん慣れていないだろう。それに、ケイトはまだ出会ってから日も浅い、ただの助手に過ぎない。
「ごめんなさい…気を悪くした…?」
マリエルはそっとかぶりを振って、ケイトの方に首を巡らせた。
「いいんですよ。ちょっと考えこんだだけなんです。寂しいのかと自分に問い掛けてみましたが、よく分からなくて…1人でいることが長い間私にとって当たり前で、他人と交わることには彼らと自分の違いを思い知らされて余計な孤立感を覚えるだけでしたから…今の生活は私にあっているし、満足しているんです。生きている人達とは縁が薄いけれど死んだ人達とは大勢会えますから、別に寂しいという気持ちにはなりません」
ちょっと面食らった顔になるケイトを目を細めようにして眺め、マリエルは続けた。
「太陽はまぶしすぎて長く見つめることはできない。…あなたがいる世界はどんな所だろう、そこで当たり前の生き方をすることはどんな気分なのだろうと思うことはあるけれど、違う世界からの呼ぶ声がいつも聞こえるんです。平凡に生きようとしても、死者達の声が私をあの世界に引き戻す…私は追い求めずにはいられなくなる。私が死にたがっているのだとは思わないで下さい。ただ私は知りたいんです…感じたいんです、この生の先にあるものが何なのか、一線を越えた時に何が見つかるのか」
「一線を越えた時に見つかるもの…それは、何…?」
死に対するマリエルの熱意が伝わったかのように、ケイトの目も何かしら熱にうかされたように潤んできていた。
「見たことがあるんです…輝く世界を…」
マリエルは低い声で囁いた。
「私が池に落ちて死にかけた時のことです。ついさっきまで溺れていたはずなのに、急に体が軽くなって上に向かって上昇していくのを感じました。そうして、気がつけば、私は池のはるか上方にふわふわとうかんでいて、自分が沈んだはずの池やそのほとりに立つ母を見下ろしていたんです。そこは見慣れた墓場の中の風景なのにまるで別のもののように見えました。真夜中だというのに、何もかもがすごい光を発して輝いていたんです。まぶしいほどでしたが、太陽の光のように目を焼きはせず、その美しさにうっとりとなっていつまでも見つめていられるものでした。本当に綺麗でした。池の水の一滴一滴、風にそよぐ羊歯の葉の一枚一枚、そして、あの時の母の姿…白い星のように輝いて、まるで命そのものが光を発しているかのようでした。そして、空を見上げて、私は思わず悲鳴をあげました。そこにあったのは月には違いなかったのですが、恐ろしく巨大で、空を覆い尽くす光の塊のような怪物じみた、この世のものならぬ月でした。まるで、それ自体生きているかのようでした…私は目を逸らすこともできずにじっと見続け、次第に体ごとその月の中に取り込まれていき…それまでに味わったことがないような高揚感と幸福感の中で己が溶け出していくのを覚えました。私の肉体は、その時たぶん死に瀕していたんです…にもかかわらず、私は自分が確かに生きているのだという実感を噛み締めていました」
ケイトはマリエルの話にすっかり圧倒されて、溜め息をついた。
「それって…いわゆる臨死体験なのかしら…?」
小首を傾げるようにして、ケイトは考えこんだ。
「分かりません」
「死ぬということは、その光に包まれて、どこかに行くこと…?」
「さあ…行くという感じはなかったけれど、その時何かを越えてしまったように思いました。それに、私は実際に死んだわけではないので、その点は何とも言えません。ただ、その光のイメージは私の感じる死と密接に結びついているようで、時々ちょっと現実から遊離しそうになる時、浅い夢の中でまどろんでいる時にあの光を見ることはよくありますし、それに…これを言うとまた薄気味悪く思われそうですが、私には死者の体が淡い光を発するように見えることがあるんです。死んでからあまり時間がたっていない遺体に多いのですが…体の中で爆発した生命が発する最後の輝きであるかのように…不思議なことに個性があって、人それぞれに違うんですよ。見ていると、その人のことがよく分かってきて、親しみを覚えるようになります。古くからの友人や恋人のように…ポールは私があまりに死者に対して入れこみすぎる、あたかも生きた人間のように扱うのは間違っていると言うのですが、仕方がないことなんですよ。私にとっては本当に生きている人と変わりない存在なんですから」
ケイトは驚嘆のあまりしばし絶句していたが、やがて、ぽつりともらした。
「あたしも、そんなふうに感じることができたらなぁ」
マリエルは不思議そうに瞬きをした。
「死を身近に感じたいんですか? 私から変な影響を受けることはありませんよ。私は、それが好きで、必要だから求めているだけで、でも、あなたはあなたの世界で充分幸せに生きていける人じゃないですか。生きているうちからわざわざ死に取りつかれる必要はありません。急がなくてもいずれは誰もが行く所なのですから、今は生きていることを楽しみなさい」
もっともらしい説教をするマリエルをケイトは黒い大きな瞳でにこりともせずに見ていた。訳もない胸騒ぎを見ている人に起こさせる表情だった。
ふいに、思いだしたように、ケイトはソファの前のテーブルに置きっぱなしにされていたコーヒーを振りかえった。
「あ、コーヒー、飲まないと冷めちゃうわよ」
慌ててソファの所に行ってマグカップの1つを取り上げて一口啜り、やっぱり冷めちゃってると惜しそうに呟くケイトを、マリエルはサイドボードの前に立ったまま凝然と見守った。胸の辺りをそっと押さえた。一瞬よぎった正体不明の不安を鎮めようとするかのように。
「コーヒーを飲んだら、約束通り、車で途中まで送りますよ」
マリエルは平静な口調で呼びかけた。
「あまり遅くなると、明日の授業や仕事に差し支えますからね」
「ありがとう、マリエル」
マグカップの陰からケイトはにこりと笑いかけた。先程彼女が見せた暗さはたぶん錯覚だったのだろうとマリエルに思わせるほど、いつもと同じ無邪気な明るさをたたえて―。