第3章秘恋(2)
この日扱うことになった遺体は、地下鉄で事故にあった中年女性のものだった。ホームに立っている時に急に目眩を起こして、構内にちょうど入ってきた列車の前に転落したのだ。
ケイトがこの仕事を始めて、もう2週間が経つ。死体を見ることにも触ることにも次第に慣れて来たので、初日のように無様に気を失うことはもうないだろうと彼女は思っていた。
それでも、首を胴から切断されたその遺体を見た瞬間は、さすがにケイトは気が遠くなりかけた。だが、すぐ傍らで自分を鋭く見ているマリエルの冷たい視線を感じ、『今度倒れたら、クビ』という彼の非情な宣告を思い出して、何とか倒れずに持ちこたえた。
気をしっかりさせようと頬っぺたを両手でぴしゃりと叩いて、黙々と処置の準備を始めるマリエルにケイトは話しかけた。
「轢死体っていうのは、やっぱり悲惨ね…ホームで貧血を起こしたなんて、本当に運が悪い。ちょっと前まで元気だった人がこんな姿になって死んでしまったなんで、家族にしてみたらやりきれないわよね」
マリエルはステンレスの処置台に置かれた遺体の上に屈みこんで損傷の程度を調べながら、処置の手順を考えているようだ。
致命傷となった首の傷以外は、かすり傷程度の挫傷が右側の腕と脚にあるくらいできれいものだった。切断部を丁寧に縫合し、傷跡をワックスで隠して、ファンデーションなどで仕上げをすれば、生前と変わらぬ姿に戻せるだろう。
「大丈夫ですよ」
ケイトの声に出されない考えまで読み取ったかのように、マリエルは冷静な口調で請合った。
「今朝彼女が家を出た時と少しも変わらぬ姿で、家に帰してあげます」
そして、その言葉に嘘はなかった。
数時間後、防腐処置を済ませ、遺族が用意したラベンダー色のスーツを着付けし化粧を施した生き生きとした遺体を霊安室に運びこみ、ひとまず今日の仕事を終えた2人は、1階の休憩室でコーヒーを飲みながら人心地ついていた。
マリエルは全然平気そうだが、ケイトはげっそりと憔悴しきっていた。
体力的なきつさよりも遺体を扱うことには大変な精神力を要するのだ。さすがに今すぐに車を運転して帰るだけの元気は残っていなかった。まだ7時過ぎだし、もう少し休んでから帰ろうとケイトは思った。
「疲れましたか?」
そんなケイトに、あまり抑揚のない冷めた声が呼びかける。
「うん、ちょっと」
ケイトはそちらに向けてにこりと笑いかけた。マリエルに心配してもらえるのが、ちょっぴり嬉しかった。
「たぶん、いまだに遺体に触ると緊張しちゃうせいね。初めに比べたら、大分楽になったんだけれど」
休憩室は、四角い白いテーブルを真ん中に置いて、後は小さなカップボードとその上のコーヒーメーカーがあるくらいの殺風景な部屋だ。
1人でこんな所でお茶など飲んでいても、心が休まるどころか気がふさぐだけだろう。処置後の遺体を安置するゲストルームの方が、よほど温かみがあって人間らしい雰囲気があるくらいだ。
マリエルにはあまり生きている人間にとっての快適さを気遣う習慣はないらしい。
「緊張する…それは、恐いということ?」
椅子に座りテーブルの上にぐったりと肘をついてコーヒーを飲んでいるケイトを、壁に背中をもたせかけるようにして立って見下ろしながら、マリエルはポツリと言った。
「え?」
疲れてぼんやりとしていたケイトは、思わずマリエルの方を見て聞き返した。
「いえ…親しい友人でも、家族でさえも、死者に触れることに抵抗を覚える人は多いので…処置前の遺体にある感染のリスクは別にしても、直接肌に触れること、生前では当たり前の抱擁やキスをすることも、もうできなくなってしまう。…死とはそれほど忌み嫌われるものなのでしょうかね」
ケイトはちょっと首を傾げた。
「うん…恐いというのは、あるでしょうね。目の前の死を受け入れるというのは、いつかは自分もそうなるって現実もまた受け入れることだし…ほとんどの人は自分が死ぬ覚悟なんてできてないもの。それに、平和なこの国じゃ、身近な所で死を意識することもないから」
父を母を、そして伯父を、身近な人間を次々に亡くし見送ってきた少女は、意外に穏やかな声でそう言った。
「父さんの場合は…初めにあのひどい姿を見た時は、あたしは触れるどころか逃げ出してしまったけれど、あなたがすっかり元通りに修復してくれた体には思わす手が出て触ってしまったわ。怖いという感じもなかったし、死んでしまったんだという事実も一瞬忘れていたみたい…うまくいったエンバーミングは人にそんな錯覚を起こさせるのね。あなたが手がけた遺体を、死んでいるみたいだって怖がったり触ることに抵抗を覚える人はいないと思うわ。生きている時と同じように、家族や友達に優しく迎えられて、見送ってもらえると思う」
ケイトの言葉に、マリエルは僅かに目を細めるようにして微笑んだ。
その顔を見て、マリエルでも自分の仕事の意味について悩むことがあるのだろうかと、ケイトは考えた。
エンバーマーの仕事の成果は遺体が埋葬されるまでのほんの僅かな時間に限られる。
どんな技術をつくし熱意を込めた仕事をしても、それら遺体達はすぐに地面に埋められ、二度と誰の目に触れることもなく次第に朽ちて土に返っていく。
もしかしたらこんなことをしている意味などないのかもしれない、無駄な努力をしているだけではないかという迷いを打ち払ってくれるのは、結局、物言わぬ遺体に残された者達がどう接し、それによって慰めが得られたかという点に尽きるのだ。
「ケイト」
ふいにマリエルがケイトの名前を呼んだ。
「よかったら、食事をしていきませんか?」
とっさに、ケイトは何を言われたか理解できなかった。
「丁度いい時間だし、よかったら夕食を一緒にと思って…嫌なら、いいですが」
ケイトは慌ててかぶりを振った。
「ううん、ありがとう、マリエル…」
ここで働くようになってもう2週間以上になるが、ケイトが食事の招待など受けたのは初めてだ。
ケイトがマリエルと会うのはいつもこの作業所内だけだった。マリエルの近寄りがたい雰囲気から、仕事に関係する所ならともかくプライベートな空間に他人を入れるのはたぶん嫌いなのだろうと、ケイトは何となく思っていた。
それにしても―。
「マリエル、料理なんて作れるの?」
素朴な疑問にはたと突き当たって、ケイトは問うた。そんな生活じみたことをしているマリエルという図は、やはりケイトには想像しにくい。
「簡単なローストディナーですよ」
マリエルはちょっと照れたように、壁の方に視線を向けて言った。
「その…あなたはこの2週間、私の予想以上にとてもよくやってくれましたから…」
「ご褒美ってわけ?」
ケイトが嬉しそうに笑いかけるとマリエルは素っ気無く背中を向けた。
「肉の下ごしらえはしてあるので、後はオーブンで焼くだけです。サラダを作るのを、手伝ってくれますか?」