第3章秘恋(1)
グリーンヒル斎場の弔問室では、耳に微かに感じ取れるくらいの低い厳かな曲が流れている。
『アベ・マリア』だと、部屋の奥、祭壇に安置された棺を見守る格好でルイと並んで立ちながら、ケイトはぼんやりと思った。
午後もまだ早い時間、遺体との対面式に訪れる弔問客の足は絶えない。
椅子に座って悲しみに暮れる遺族を取り囲んで、故人と旧交のあった弔い顔の友人達が慰めるように静かな声音で何か話しかけている。
「…実に安らかなお顔ですな」
一瞬意識をさまよい出させかけたケイトは、近くでした声に我に返った。
大きな献花に囲まれた棺の中を覗き込むように、一人の弔問客が立っていた。
「ひどい事故だと聞いていましたので、苦悶の表情をうかべたトニーと会うことを覚悟していたのですが、傷一つない綺麗な顔をして…何と言いますか、素晴らしい技術ですな」
心底感嘆した声で遺体の修復した技術者に対する賛辞を述べる初老の男性に、ルイが実に謙虚な態度で応える。
「ありがとうございます」
ケイトは神妙な面持ちで彼らの様子を見守っていたが、その胸はこのエンバーミングをした者に対する尊敬と誇らしさでいっぱいだった。
そう、これもまたマリエルの仕事なのだった。
契約していたエンバーマーが突然入院し、その穴を結局一番暇なマリエルが埋めることになったため、彼の仕事場はこのところなかなかの盛況振りだ。とはいっても、一日に一体、仕事があるかないかという、依然ゆっくりしたペースなのだが。
「当社専属のエンバーマーがスミス様の処置を行なわせていただきました。こちらのミス・ハヤマは実習生ですが、助手として立ち合いまして…」
「ほう…また随分とお若いエンバーマーですな。大変な仕事でしたでしょう」
「はい」
このような席であったので、よく通る声を努めて押さえながら落ちついた態度でケイトは応えた。
「ですが、大変やりがいのある仕事だとも思っています。私どもの仕事が、少しでもご遺族の慰めとなれば嬉しいのですが…」
葬儀会社社員としてはまずまずのケイトの態度に、鋭い目でチェックを入れていたルイもほっとしたようだ。
もともとケイトはあまり葬式向けのタイプではない。普通にしていても笑っているように見える大きな目も、人懐っこい表情も、不必要に明るく響く声も、よく晴れた日の公園や遊園地ならともかく厳粛な場の雰囲気にはそぐわない。ケイトに葬儀の手伝いをさせ始めた当初、ルイは彼女の仕事の全てに神経を尖らせていた。
服装から言葉使い、態度や表情に至るまでルイはケイトを細かく指導し、常に傍に置いてへまをやらかせばアルバイトだろうと容赦せずに叱り飛ばした。しかし、勉強をしたいというケイトを気遣って、葬儀ビジネスの細かい部分を彼は色々と教えてやってもいた。
例えば、対面式における棺を安置する位置について。その高さは、高すぎても低すぎてもよくなく、程ほどの距離を弔問客から保っていなければならない。あまりに高すぎると見る者に遺体が自分に迫ってくるような恐怖感を与え、逆に低すぎると、何かしら故人が遠く、既に黄泉に旅だってしまったのだという思いを強く与えてしまう。そんな具合にだ。
入れ代わり立ち代わりやって来る弔問客を遺族に代わって静かなるホスト役として迎え、見守り続け、やがて2時を過ぎた頃、1人の社員が目立たぬようルイ達のもとに近づいてきた。
「交代に来ました」と告げる社員に頷いて、ルイはケイトを振りかえった。
「そろそろ時間ですよ、ケイト。行ってらっしゃい」
この一瞬、ケイトは明るく弾んだ声が口から飛び出すのを押さえられなかった。
「はいっ」
部屋の真ん中辺りで集まって歓談している弔問客達が、怪訝そうに振りかえる。
ルイはたしなめるように顔をしかめた。
「早く行きなさい。ポールがしびれを切らしますよ」
ケイトは今度はぐっと言葉を飲み込んで大きく頷くと、部屋の壁際をそっと歩き式場を後にした。
この日も、マリエルの仕事が夕方から一件入っていた。その補助のために、ケイトはこれから彼のもとへ向かう所なのだ。エンバーミングの仕事にまだ完全に慣れたとは言えなかったが、それでも、こうして仕事があるとなると、ケイトは嬉しかった。マリエルとの仕事はとても充実していて、こう言ったら不謹慎かもしれないが、楽しい。
グリーンヒル・モーチュアリ社に入ったばかりの頃は、マリエルが手がける仕事はそうそうあるわけではなく、だから、彼の助手としてよりももっぱら雑用係になるだろうと言われていた。
しかし、実際蓋を開けてみれば、急なエンバーマーの欠員によってマリエルの仕事量が増え、ケイトが助手として彼のもとで働くことは思いの他多くなっていたのだ。
毎日とは言わなくとも、2、3日に一度は顔を合わせられる。彼の神業のような仕事を間近で見、静かだが確信に満ちた声が与える指示を聞き、大抵は死人の方ばかりを向いている青い目が時々ケイトをじっと見つめる、その瞬間に息を飲む、そんな日々だった。
マリエルが今のように真面目に仕事をこなすなど意外なことなのだと、ルイは言う。
以前はマリエルでなければできないような特別な仕事しか彼は請け負おうとはせず、暇な時間は研究に明け暮れていた。しかし、ケイトが来てからは、なぜかマリエルにとってあまり食指が動かないような簡単な処置でも素直に引き受けるようになった。
ケイトに教えるためという意図でもあるのだろうか。ちょっと信じられないが、もしそうだったらと考えると、ケイトの胸はどきどきした。
「初めてハイウェイを走るのだから、慎重に行け。俺が先導してやるから、それについて来ればいいだけなんだが、万一はぐれても焦らんようにな」
「ええ」
この日初めて、中古で購入した車を運転してマリエルの家まで行くことにしたケイトを車の窓越しに穏かな声で励ました後、ポールは自らも別の車に乗りこんだ。
平日の午後のこの時間、道路は空いていて、初心者のケイトの運転でも車は難なく進み、無事にマリエルの家に到着した。
ケイトがほっとしたように車から降りると、マリエルは玄関前からわざわざ迎えにやってきた。
「自分で運転して来たんですか…」
その顔は、見るからに大丈夫だったのかと疑っているようだった。
「うん。全然、平気よ。大丈夫、ライセンスだってちゃんと持ってるんだもの。今までは必要なかったから、乗らなかっただけで…でも、この仕事を始めたら、やっぱり車は運転できた方が何かと便利でしょう? それに、ここに来るのだって、毎回ポールに連れて来てもらうのも悪いし」
いつもの社用車から降りてきたポールを、マリエルはちょっと咎めるような目で見た。
「ケイトが運転したいと言うのだから、仕方がないだろう。確かに、いつまでも俺が連れて来て仕事が終わるのを待っているというのも効率が悪いしな」
そう言って、ケイトに向かって確認するように頷きかける。
「この調子なら、一人でも大丈夫そうだな。帰りは、ラッシュの時間は避けて、ゆっくり帰るようにしろ」
「ええ、ありがとう、ポール」
今日は届ける薬品もなかったため、ポールはそのままとんぼ返りでオフィスに戻るようだ。
マリエルがおもむろに口を開いた。
「帰りは…私が、ハイウェイを出るところまでは、車で送りますよ」
マリエルらしくない親切な申し出が意外だったのか、ポールは軽く目を見開いた。
ポールが立ち去るのを見送ると、無言で踵を返して早速裏の仕事場の方にすたすたと歩き出すマリエルを、ケイトは慌てて追いかけた。
「あの…マリエル」
「何です?」
「昨日エンバーミングをした人の葬儀の手伝いをしたんだけれどね、あの人の家族も弔問に来てくれた人達も皆、あなたの仕事ぶりを喜んでいたわ。おかげで安心して見送ることができたって、いい仕事だって。それでね、あの人の友人の一人が、あたしが助手として手伝ったって聞いて、大変な仕事だったでしょうって言ったの。それでね、あたし、この仕事は大変なことが確かに多いけれどとてもやりがいのあるって、答えたのよ」
マリエルはふと足を止め、後ろからついてくるケイトを振りかえった。
「本当にそう思っているんですか?」
いまだに損傷の激しい遺体を前にすると青ざめ汗びっしょりになるケイトを、からかっているようだ。
「うん。…もう少し死体に慣れることができたらいいのに、とは思うけれど」
ケイトは素直に認めて、そう付け加えた。
「遺体は、先に処置室に到着しています」
仕事場の中に入った途端、マリエルはいつも通りの事務的な口調に戻った。
「すぐに仕事に取り掛かりますよ」
「はいっ」
姿勢を正して元気よく返事をするケイトのよく通る声が、無機質で殺風景な仕事場の中に不似合いなほど明るく響き渡った。