「君は何もしなくていい」と言われ続けた王太子妃候補は、本当に何もしないことにした
「君は何もしなくていい」
王太子は、何度もそう言った。
慈善事業の改善案を出しても。
外交使節の受け入れ準備をしても。
王宮行事の運営に口を出しても。
「余計なことをするな。君は黙って笑っていればいい」
だから王太子妃候補クラウディアは、とうとう従うことにした。
本当に、何もしない。
その日から。
なぜか王宮の仕事が、次々と止まり始めた。
「君は何もしなくていい」
まただ。私は手にしていた企画書を閉じた。
「ですが殿下。来月の孤児院寄付会について、現在の方式では予算の三割近くが輸送費と装飾費に」
「クラウディア」
向かいに座る王太子レオニスが、面倒そうに私の言葉を遮る。
レオニス・アルヴェイン、二十五歳。
アルヴェイン王国の王太子であり、私が十七歳のころから六年間婚約している相手だ。
「慈善事業の細かい数字まで、君が気にする必要はない」
「ですが」
「担当官がいる」
「その担当官から相談を受けたのです」
「なら、その者に任せればいい」
私は黙った。
「君は王太子妃候補だ」
レオニスは続ける。
「王太子妃に求められるのは、王家の品位と社交だ。帳簿をめくったり、下働きの仕事へ口を出したりすることではない」
下働き。
そう言われた瞬間。
胸の奥で何かが、静かに切れた。
「……分かりました」
「そうしてくれ」
レオニスは安心したように書類へ視線を戻す。私は立ち上がった。
「では、今後は何もしません」
「うん?」
「殿下のご希望通りに」
「そういう意味では」
「失礼いたします」
私は一礼した。
そして。
その日から、本当に何もしないことにした。
私はクラウディア・エルノー、二十三歳。エルノー侯爵家の長女だ。
父は王国南部に広大な農地を持ち、母は元外交官の家系。私は幼いころから、王太子妃候補として育てられてきた。
語学。歴史。礼儀作法。外交。会計。領地経営。慈善事業。儀礼。舞踏。音楽。
六年間。婚約者として王宮へ通い。王太子妃になる準備をしてきた。
ただ、正式な役職はない。そこが問題だった。私がやっていたことの多くは、命令された業務ではなかった。誰かが困っている。担当部署が詰まっている。情報が部署間で共有されていない。そんなとき、私は勝手にではなく、相談されて、調整していた。それが、気づけば当然になっていた。
最初にやめたのは、王宮行事の事前確認だった。
毎月第一金曜日。王宮では各部署の翌月予定を集めた一覧が作られる。
外交使節。晩餐会。軍関係者の謁見。王妃主催の慈善行事。王族の地方訪問。
私はいつも、その一覧を確認していた。
日程が重なっていないか。必要な部屋が同時に予約されていないか。通訳が足りるか。警備人数に無理がないか。厨房の仕入れが間に合うか。問題があれば担当部署へ連絡した。
今月は、見なかった。
だって、何もしなくていいのだから。
一週間後、王宮へ行くと、廊下で侍従長に呼び止められた。
「クラウディア様!」
王家に三十年以上仕える侍従長バルドは、普段ほとんど走らない男だ。その彼が走っている。
「どうされました?」
「本日の東方使節団の歓迎晩餐会についてですが」
「はい」
「大広間が、軍功叙勲式と重複しておりまして」
「あら」
知っていた。予定表を見れば分かる。
「どうすれば」
「私に聞かれましても」
バルドが固まる。
「これまではクラウディア様が」
「殿下から、余計なことはせず、担当部署へ任せるよう言われましたので」
「……殿下が?」
「はい」
侍従長の顔がゆっくり曇った。
その日の晩餐会は、中広間へ急遽変更された。当然、席が足りない。追加の机。追加の食器。厨房も混乱。何とか開催されたものの、東方使節団の代表が一言。
「ずいぶん、急ごしらえですな」
外交官の顔が引きつったらしい。
次にやめたのは、王妃の慈善基金だった。王妃主催の孤児院支援事業。私は三年前から。
寄付金。施設別支出。物資購入費。輸送費。収支を見ていた。公式に会計官がいる。ただ、会計官は数字を記録するだけ。私は、なぜこの施設だけ毛布の単価が高いのか。なぜ同じ町へ別々の馬車で荷物を送るのか。なぜ毎年装飾費が増えているのか。そういうことを確認していた。そして、寄付会で使う花や幕を減らし、浮いた予算で冬用毛布を増やした。
今年は、何もしない。
結果、寄付会は豪華だった。花。金糸の幕。音楽隊。
一方、翌月。北部の孤児院から届いた報告には。
『毛布不足につき、追加支援を希望』
と書いてあった。慈善基金担当官が私のもとへ来た。
「クラウディア様」
「はい」
「北部孤児院の追加予算について」
「担当部署へ」
「ですが」
「私は何もしなくてよいそうです」
「……またですか」
また?どうやら、王宮内では少しずつ知られ始めているらしい。
三つ目。外交。
南方王国の大使夫妻が来訪した。大使夫人は乳製品を口にできない。私は二年前から知っていた。厨房にも毎回事前に伝えていた。今回は、伝えなかった。正式な外交記録には、食物アレルギーではなく「嗜好」としか書かれていない。
結果、前菜。スープ。主菜のソース。デザート。全て乳製品が使用された。
大使夫人は笑顔で、「今日はパンをいただきますわ」と言った。
その夜、外交局長が青い顔で私を訪ねた。
「クラウディア様!」
「どうされました?」
「大使夫人の食事について」
「はい」
「乳製品を避けられるとご存じでしたか?」
「知っています」
「ではなぜ」
「なぜ、私が伝える前提なのです?」
外交局長が口を閉じた。
「正式な記録があるなら、外交局が厨房へ伝えるべきでしょう」
「それは……」
「私が王太子妃候補として、個人的に覚えていただけです」
仕事ではない。だから、やめた。
一か月、王宮は滅びなかった。ただし、小さな問題が毎日のように発生した。
招待状の敬称違い。警備配置の重複。慈善予算の無駄。晩餐会の席順ミス。王族の地方訪問と収穫祭の日程衝突。外国商人への贈答品不足。王女の誕生日行事で、同じ楽団が二つの会場に予約される。
一つ一つは国家を揺るがすほどではない。しかし、積み重なる。そして、誰かが言い始めた。
「以前は、こんなことはなかった」
そう。
以前は、私が拾っていたから。
ある午後、王宮図書室で本を読んでいると、レオニスが来た。
「クラウディア」
「殿下」
「少しいいか」
「どうぞ」
向かいに座る。珍しく。彼は少し疲れていた。
「最近、王宮で問題が多い」
「そうなのですね」
「知らないのか?」
「詳しくは」
「外交使節の晩餐会。慈善基金。地方訪問の日程。警備の不備」
「はい」
「前は、こうではなかった」
「そうですね」
「なぜだと思う?」
私は本を閉じた。
「分かりません」
「クラウディア」
「はい」
「君が何かしていたのではないか?」
ようやく気づいたらしい。
「多少は」
「多少?」
「予定表の確認。部署間の調整。会計の精査。来訪者情報の共有。担当官からの相談対応」
レオニスの顔が変わる。
「そんなに?」
「ほかにもあります」
「なぜ報告しなかった」
その質問には、少し驚いた。
「報告していました」
「いつ」
「毎月、王太子妃準備報告として提出していました」
「……あれか」
あれ。そう言った。
「読んでいなかったのですね」
「いや」
「何が書いてあったか、覚えています?」
沈黙。
「分かりました」
私は本を開いた。
「待ってくれ」
「何でしょう」
「今後は」
少し間がある。
「前のようにやってくれないか」
私は彼を見る。
「なぜです?」
「なぜって」
「私は何もしなくていいのでは?」
「言い方が悪かった」
「どういう意味だったのです?」
「君に細かい実務まで背負ってほしくなかった」
「なら、担当者へ権限と責任を整理してください」
「それは」
「私が戻れば解決します?」
レオニスが黙る。
「一時的には」
私は答えた。
「でも、また私一人が非公式に穴を埋めるだけです」
「君は王太子妃になるのだから」
「まだなっていません」
「いずれなる」
「それなら聞きます」
本を閉じる。
「王太子妃は、何をする人ですか?」
「王家を支え」
「具体的に」
「外交、慈善、社交」
「では、その仕事へ口を出すなと言ったのは誰です?」
レオニスは、何も言えなかった。
その翌週、王妃陛下から呼び出された。
王妃エレノア。五十歳。隣国の公爵家から嫁ぎ、二十五年以上王妃として外交と慈善事業を担ってきた女性だ。
「座って」
「失礼いたします」
王妃は茶を注ぐ。
「最近、面白いことになっているわね」
「面白い、でしょうか」
「私は面白いわ」
少し笑っている。
「レオニスが、ようやく困っているもの」
「陛下」
「あなたが支えていたことに、あの子は気づいていなかった」
「……はい」
「私もです」
驚いた。
「王妃陛下も?」
「全部ではないわ」
王妃は真面目な顔になる。
「あなたが優秀なのは知っていた。ただ、ここまで王宮の細部を調整していたとは思っていなかった」
「勝手にしていた部分もあります」
「相談されていたのでしょう?」
「はい」
「なら、問題はそこね」
王妃が茶器を置く。
「なぜ、正式な役職も権限もない婚約者へ、これほど仕事が集まっていたのか」
私は黙った。
「あなたが有能だから」
王妃は続けた。
「そして、頼めばやってくれるから」
まさに、その通り。
「クラウディア」
「はい」
「王太子妃になりたい?」
突然だった。私は、すぐに答えられなかった。
「……分かりません」
「初めて聞いたわ」
「何がでしょう」
「あなたが、分からないと言うのを」
王妃は微笑んだ。
「考えなさい」
「はい」
「王太子妃になるべきか、ではなく」
まっすぐ見られる。
「なりたいかどうかを」
その夜、私は考えた。王太子妃になる。幼いころから、当然だと思っていた。
家が決め、王家が決め、教育され、努力した。嫌ではなかった。国を支える仕事にも興味があった。
外交も、慈善も、行政も、好きだった。
ただ、レオニスと結婚したいかと聞かれれば、分からない。
六年婚約して、尊敬はしていた。正義感がある。決断も速い。王太子として優秀な面もある。
でも、私の仕事を、ずっと「余計なこと」「細かいこと」「下働き」そう呼んだ。
問題は、仕事量ではない。見られていなかったことだった。
翌月、王宮組織改善会議が開かれた。
国王。王妃。レオニス。主要官僚。そして、なぜか私。
「クラウディア嬢」
国王が言う。
「この一か月の問題について、そなたの意見を聞きたい」
「私がですか?」
「多くの部署から、以前そなたが調整していたと報告が上がった」
私は少し迷った。でも、ここでまた黙れば、同じことになる。
「では申し上げます」
会議室を見る。
「私を元に戻すだけでは、何も解決しません」
何人かが顔を上げる。
「これまで王宮では、部署間調整を正式に担う役職がありませんでした」
外交局、宮内局、慈善基金、警備局、王族秘書室。
それぞれが、自分の仕事だけを見る。横断する人がいない。
「だから私が、非公式に穴を埋めていました」
国王が頷く。
「提案があります」
私は資料を配った。
「王宮調整室を新設してください」
「調整室?」
「はい。各部署の日程、来賓情報、予算、警備、儀礼を横断管理する部署です」
「人員は?」
「まず五名」
「責任者は?」
私は答えた。
「私ではありません」
会議室が静かになる。
「クラウディア?」
レオニスがこちらを見る。
「正式な官僚を任命してください」
「君が一番詳しい」
「だからこそです」
「どういう意味だ」
「私が全部やれば、また私に依存します」
レオニスは黙った。
「仕組みにしてください」
国王が、ゆっくり笑った。
「採用する」
王宮調整室は、三か月で機能し始めた。部署間の日程衝突は大幅に減った。外交来賓情報は一元化。慈善基金には予算監査担当が置かれた。
私は、最初の一か月だけ助言し、その後手を離した。何もしなくなったのではない。自分がしなくていいことを、しなくなった。
そして、もう一つ決めたことがある。
「婚約を解消したい?」
レオニスが聞き返した。王宮庭園。六年前、婚約を告げられた場所だった。
「はい」
「理由は」
「王太子妃になりたくないからです」
言葉にすると、驚くほど簡単だった。
「私が悪かったことは分かっている」
「それだけではありません」
「では何だ」
「私自身の問題です」
私は庭を見る。
「王太子妃になるために努力してきました。でも、なりたいかどうかを考えたことがありませんでした」
「今は?」
「なりたくありません」
レオニスは、長く黙った。
「私とは?」
聞かれる。
「結婚したいか?」
正直に答える。
「いいえ」
彼は目を閉じた。しばらくして。
「……そうか」
「申し訳ありません」
「謝るな」
意外だった。
「謝るべきなのは私だ」
私は彼を見る。
「君が何をしているか知らなかった」
「はい」
「知ろうともしなかった」
「はい」
「そこは少しくらい否定してくれ」
「事実なので」
レオニスが苦笑した。
「最後まで君らしいな」
婚約は、正式に解消された。
半年後、私は王女付きの政策補佐官になった。
王女アメリア、十九歳。レオニスの妹で、王国内の女子教育改革に強い関心を持っている。
私は彼女のもとで、学校予算、教師育成、地方視察、法案準備の仕事をしている。
正式な役職、正式な権限、正式な給与。素晴らしい。
ある日の午後、アメリア王女が書類の山から顔を上げた。
「クラウディア」
「はい」
「来週の視察、行かなくていいわよ」
私は手を止めた。
「……何もしなくていい、という意味ですか?」
「違うわよ」
王女が笑う。
「あなた、ここ三週間休んでいないでしょう」
「ですが」
「休暇」
言い切られた。
「仕事は私たちがやるから、休みなさい」
私は、少し笑った。
「承知しました」
「本当に休むのよ」
「はい」
「裏で資料を読んだり」
「しません」
「宿から手紙を送ったり」
「しません」
「本当?」
「努力します」
王女が呆れた。
その週末、私は実家の庭で、何もせず、紅茶を飲んでいた。
書類はない。予定表もない。誰かに頼まれた仕事もない。少し落ち着かない。
でも、悪くない。
六年前、私は王太子妃になるため、王宮へ入った。必要とされることが嬉しくて、頼まれるたび、何でも引き受けた。そしていつの間にか、私がやることが当然になった。
何もしなくていい。
あの言葉は、最初は私を否定する言葉だった。でも今なら、少し違う意味にもできる。
全部自分でやらなくていい。誰かの仕事まで背負わなくていい。休んでもいい。
そして。
本当にやりたいことだけを選べばいい。
私は紅茶を一口飲んだ。明日は休み。明後日から、また仕事だ。
今度は誰かに黙って笑っていろと言われる仕事ではない。
自分で選んだ仕事を、自分の名前で、きちんとやる。
それで十分だった。




