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「君は何もしなくていい」と言われ続けた王太子妃候補は、本当に何もしないことにした

作者: 久世こはる
掲載日:2026/09/05

「君は何もしなくていい」


王太子は、何度もそう言った。


慈善事業の改善案を出しても。

外交使節の受け入れ準備をしても。

王宮行事の運営に口を出しても。


「余計なことをするな。君は黙って笑っていればいい」


だから王太子妃候補クラウディアは、とうとう従うことにした。


本当に、何もしない。


その日から。


なぜか王宮の仕事が、次々と止まり始めた。



「君は何もしなくていい」


まただ。私は手にしていた企画書を閉じた。


「ですが殿下。来月の孤児院寄付会について、現在の方式では予算の三割近くが輸送費と装飾費に」


「クラウディア」


向かいに座る王太子レオニスが、面倒そうに私の言葉を遮る。

レオニス・アルヴェイン、二十五歳。

アルヴェイン王国の王太子であり、私が十七歳のころから六年間婚約している相手だ。


「慈善事業の細かい数字まで、君が気にする必要はない」


「ですが」


「担当官がいる」


「その担当官から相談を受けたのです」


「なら、その者に任せればいい」


私は黙った。


「君は王太子妃候補だ」


レオニスは続ける。


「王太子妃に求められるのは、王家の品位と社交だ。帳簿をめくったり、下働きの仕事へ口を出したりすることではない」


下働き。

そう言われた瞬間。

胸の奥で何かが、静かに切れた。


「……分かりました」


「そうしてくれ」


レオニスは安心したように書類へ視線を戻す。私は立ち上がった。


「では、今後は何もしません」


「うん?」


「殿下のご希望通りに」


「そういう意味では」


「失礼いたします」


私は一礼した。


そして。


その日から、本当に何もしないことにした。


私はクラウディア・エルノー、二十三歳。エルノー侯爵家の長女だ。

父は王国南部に広大な農地を持ち、母は元外交官の家系。私は幼いころから、王太子妃候補として育てられてきた。


語学。歴史。礼儀作法。外交。会計。領地経営。慈善事業。儀礼。舞踏。音楽。

六年間。婚約者として王宮へ通い。王太子妃になる準備をしてきた。


ただ、正式な役職はない。そこが問題だった。私がやっていたことの多くは、命令された業務ではなかった。誰かが困っている。担当部署が詰まっている。情報が部署間で共有されていない。そんなとき、私は勝手にではなく、相談されて、調整していた。それが、気づけば当然になっていた。


最初にやめたのは、王宮行事の事前確認だった。


毎月第一金曜日。王宮では各部署の翌月予定を集めた一覧が作られる。

外交使節。晩餐会。軍関係者の謁見。王妃主催の慈善行事。王族の地方訪問。


私はいつも、その一覧を確認していた。

日程が重なっていないか。必要な部屋が同時に予約されていないか。通訳が足りるか。警備人数に無理がないか。厨房の仕入れが間に合うか。問題があれば担当部署へ連絡した。


今月は、見なかった。


だって、何もしなくていいのだから。


一週間後、王宮へ行くと、廊下で侍従長に呼び止められた。


「クラウディア様!」


王家に三十年以上仕える侍従長バルドは、普段ほとんど走らない男だ。その彼が走っている。


「どうされました?」


「本日の東方使節団の歓迎晩餐会についてですが」


「はい」


「大広間が、軍功叙勲式と重複しておりまして」


「あら」


知っていた。予定表を見れば分かる。


「どうすれば」


「私に聞かれましても」


バルドが固まる。


「これまではクラウディア様が」


「殿下から、余計なことはせず、担当部署へ任せるよう言われましたので」


「……殿下が?」


「はい」


侍従長の顔がゆっくり曇った。


その日の晩餐会は、中広間へ急遽変更された。当然、席が足りない。追加の机。追加の食器。厨房も混乱。何とか開催されたものの、東方使節団の代表が一言。


「ずいぶん、急ごしらえですな」


外交官の顔が引きつったらしい。


次にやめたのは、王妃の慈善基金だった。王妃主催の孤児院支援事業。私は三年前から。

寄付金。施設別支出。物資購入費。輸送費。収支を見ていた。公式に会計官がいる。ただ、会計官は数字を記録するだけ。私は、なぜこの施設だけ毛布の単価が高いのか。なぜ同じ町へ別々の馬車で荷物を送るのか。なぜ毎年装飾費が増えているのか。そういうことを確認していた。そして、寄付会で使う花や幕を減らし、浮いた予算で冬用毛布を増やした。


今年は、何もしない。



結果、寄付会は豪華だった。花。金糸の幕。音楽隊。


一方、翌月。北部の孤児院から届いた報告には。


『毛布不足につき、追加支援を希望』


と書いてあった。慈善基金担当官が私のもとへ来た。


「クラウディア様」


「はい」


「北部孤児院の追加予算について」


「担当部署へ」


「ですが」


「私は何もしなくてよいそうです」


「……またですか」


また?どうやら、王宮内では少しずつ知られ始めているらしい。


三つ目。外交。


南方王国の大使夫妻が来訪した。大使夫人は乳製品を口にできない。私は二年前から知っていた。厨房にも毎回事前に伝えていた。今回は、伝えなかった。正式な外交記録には、食物アレルギーではなく「嗜好」としか書かれていない。


結果、前菜。スープ。主菜のソース。デザート。全て乳製品が使用された。

大使夫人は笑顔で、「今日はパンをいただきますわ」と言った。


その夜、外交局長が青い顔で私を訪ねた。


「クラウディア様!」


「どうされました?」


「大使夫人の食事について」


「はい」


「乳製品を避けられるとご存じでしたか?」


「知っています」


「ではなぜ」


「なぜ、私が伝える前提なのです?」


外交局長が口を閉じた。


「正式な記録があるなら、外交局が厨房へ伝えるべきでしょう」


「それは……」


「私が王太子妃候補として、個人的に覚えていただけです」


仕事ではない。だから、やめた。


一か月、王宮は滅びなかった。ただし、小さな問題が毎日のように発生した。


招待状の敬称違い。警備配置の重複。慈善予算の無駄。晩餐会の席順ミス。王族の地方訪問と収穫祭の日程衝突。外国商人への贈答品不足。王女の誕生日行事で、同じ楽団が二つの会場に予約される。

一つ一つは国家を揺るがすほどではない。しかし、積み重なる。そして、誰かが言い始めた。


「以前は、こんなことはなかった」


そう。

以前は、私が拾っていたから。


ある午後、王宮図書室で本を読んでいると、レオニスが来た。


「クラウディア」


「殿下」


「少しいいか」


「どうぞ」


向かいに座る。珍しく。彼は少し疲れていた。


「最近、王宮で問題が多い」


「そうなのですね」


「知らないのか?」


「詳しくは」


「外交使節の晩餐会。慈善基金。地方訪問の日程。警備の不備」


「はい」


「前は、こうではなかった」


「そうですね」


「なぜだと思う?」


私は本を閉じた。


「分かりません」


「クラウディア」


「はい」


「君が何かしていたのではないか?」


ようやく気づいたらしい。


「多少は」


「多少?」


「予定表の確認。部署間の調整。会計の精査。来訪者情報の共有。担当官からの相談対応」


レオニスの顔が変わる。


「そんなに?」


「ほかにもあります」


「なぜ報告しなかった」


その質問には、少し驚いた。


「報告していました」


「いつ」


「毎月、王太子妃準備報告として提出していました」


「……あれか」


あれ。そう言った。


「読んでいなかったのですね」


「いや」


「何が書いてあったか、覚えています?」


沈黙。


「分かりました」


私は本を開いた。


「待ってくれ」


「何でしょう」


「今後は」


少し間がある。


「前のようにやってくれないか」


私は彼を見る。


「なぜです?」


「なぜって」


「私は何もしなくていいのでは?」


「言い方が悪かった」


「どういう意味だったのです?」


「君に細かい実務まで背負ってほしくなかった」


「なら、担当者へ権限と責任を整理してください」


「それは」


「私が戻れば解決します?」


レオニスが黙る。


「一時的には」


私は答えた。


「でも、また私一人が非公式に穴を埋めるだけです」


「君は王太子妃になるのだから」


「まだなっていません」


「いずれなる」


「それなら聞きます」


本を閉じる。


「王太子妃は、何をする人ですか?」


「王家を支え」


「具体的に」


「外交、慈善、社交」


「では、その仕事へ口を出すなと言ったのは誰です?」


レオニスは、何も言えなかった。


その翌週、王妃陛下から呼び出された。

王妃エレノア。五十歳。隣国の公爵家から嫁ぎ、二十五年以上王妃として外交と慈善事業を担ってきた女性だ。


「座って」


「失礼いたします」


王妃は茶を注ぐ。


「最近、面白いことになっているわね」


「面白い、でしょうか」


「私は面白いわ」


少し笑っている。


「レオニスが、ようやく困っているもの」


「陛下」


「あなたが支えていたことに、あの子は気づいていなかった」


「……はい」


「私もです」


驚いた。


「王妃陛下も?」


「全部ではないわ」


王妃は真面目な顔になる。


「あなたが優秀なのは知っていた。ただ、ここまで王宮の細部を調整していたとは思っていなかった」


「勝手にしていた部分もあります」


「相談されていたのでしょう?」


「はい」


「なら、問題はそこね」


王妃が茶器を置く。


「なぜ、正式な役職も権限もない婚約者へ、これほど仕事が集まっていたのか」


私は黙った。


「あなたが有能だから」


王妃は続けた。


「そして、頼めばやってくれるから」


まさに、その通り。


「クラウディア」


「はい」


「王太子妃になりたい?」


突然だった。私は、すぐに答えられなかった。


「……分かりません」


「初めて聞いたわ」


「何がでしょう」


「あなたが、分からないと言うのを」


王妃は微笑んだ。


「考えなさい」


「はい」


「王太子妃になるべきか、ではなく」


まっすぐ見られる。


「なりたいかどうかを」


その夜、私は考えた。王太子妃になる。幼いころから、当然だと思っていた。

家が決め、王家が決め、教育され、努力した。嫌ではなかった。国を支える仕事にも興味があった。

外交も、慈善も、行政も、好きだった。


ただ、レオニスと結婚したいかと聞かれれば、分からない。

六年婚約して、尊敬はしていた。正義感がある。決断も速い。王太子として優秀な面もある。


でも、私の仕事を、ずっと「余計なこと」「細かいこと」「下働き」そう呼んだ。


問題は、仕事量ではない。見られていなかったことだった。


翌月、王宮組織改善会議が開かれた。

国王。王妃。レオニス。主要官僚。そして、なぜか私。


「クラウディア嬢」


国王が言う。


「この一か月の問題について、そなたの意見を聞きたい」


「私がですか?」


「多くの部署から、以前そなたが調整していたと報告が上がった」


私は少し迷った。でも、ここでまた黙れば、同じことになる。


「では申し上げます」


会議室を見る。


「私を元に戻すだけでは、何も解決しません」


何人かが顔を上げる。


「これまで王宮では、部署間調整を正式に担う役職がありませんでした」


外交局、宮内局、慈善基金、警備局、王族秘書室。

それぞれが、自分の仕事だけを見る。横断する人がいない。


「だから私が、非公式に穴を埋めていました」


国王が頷く。


「提案があります」


私は資料を配った。


「王宮調整室を新設してください」


「調整室?」


「はい。各部署の日程、来賓情報、予算、警備、儀礼を横断管理する部署です」


「人員は?」


「まず五名」


「責任者は?」


私は答えた。


「私ではありません」


会議室が静かになる。


「クラウディア?」


レオニスがこちらを見る。


「正式な官僚を任命してください」


「君が一番詳しい」


「だからこそです」


「どういう意味だ」


「私が全部やれば、また私に依存します」


レオニスは黙った。


「仕組みにしてください」


国王が、ゆっくり笑った。


「採用する」


王宮調整室は、三か月で機能し始めた。部署間の日程衝突は大幅に減った。外交来賓情報は一元化。慈善基金には予算監査担当が置かれた。


私は、最初の一か月だけ助言し、その後手を離した。何もしなくなったのではない。自分がしなくていいことを、しなくなった。


そして、もう一つ決めたことがある。


「婚約を解消したい?」


レオニスが聞き返した。王宮庭園。六年前、婚約を告げられた場所だった。


「はい」


「理由は」


「王太子妃になりたくないからです」


言葉にすると、驚くほど簡単だった。


「私が悪かったことは分かっている」


「それだけではありません」


「では何だ」


「私自身の問題です」


私は庭を見る。


「王太子妃になるために努力してきました。でも、なりたいかどうかを考えたことがありませんでした」


「今は?」


「なりたくありません」


レオニスは、長く黙った。


「私とは?」


聞かれる。


「結婚したいか?」


正直に答える。


「いいえ」


彼は目を閉じた。しばらくして。


「……そうか」


「申し訳ありません」


「謝るな」


意外だった。


「謝るべきなのは私だ」


私は彼を見る。


「君が何をしているか知らなかった」


「はい」


「知ろうともしなかった」


「はい」


「そこは少しくらい否定してくれ」


「事実なので」


レオニスが苦笑した。


「最後まで君らしいな」


婚約は、正式に解消された。


半年後、私は王女付きの政策補佐官になった。


王女アメリア、十九歳。レオニスの妹で、王国内の女子教育改革に強い関心を持っている。

私は彼女のもとで、学校予算、教師育成、地方視察、法案準備の仕事をしている。


正式な役職、正式な権限、正式な給与。素晴らしい。

ある日の午後、アメリア王女が書類の山から顔を上げた。


「クラウディア」


「はい」


「来週の視察、行かなくていいわよ」


私は手を止めた。


「……何もしなくていい、という意味ですか?」


「違うわよ」


王女が笑う。


「あなた、ここ三週間休んでいないでしょう」


「ですが」


「休暇」


言い切られた。


「仕事は私たちがやるから、休みなさい」


私は、少し笑った。


「承知しました」


「本当に休むのよ」


「はい」


「裏で資料を読んだり」


「しません」


「宿から手紙を送ったり」


「しません」


「本当?」


「努力します」


王女が呆れた。


その週末、私は実家の庭で、何もせず、紅茶を飲んでいた。

書類はない。予定表もない。誰かに頼まれた仕事もない。少し落ち着かない。


でも、悪くない。


六年前、私は王太子妃になるため、王宮へ入った。必要とされることが嬉しくて、頼まれるたび、何でも引き受けた。そしていつの間にか、私がやることが当然になった。


何もしなくていい。


あの言葉は、最初は私を否定する言葉だった。でも今なら、少し違う意味にもできる。

全部自分でやらなくていい。誰かの仕事まで背負わなくていい。休んでもいい。


そして。


本当にやりたいことだけを選べばいい。


私は紅茶を一口飲んだ。明日は休み。明後日から、また仕事だ。

今度は誰かに黙って笑っていろと言われる仕事ではない。


自分で選んだ仕事を、自分の名前で、きちんとやる。

それで十分だった。




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