第6話
集会小屋は、外から見るより狭かった。
壁は乾いた木で組まれ、隙間風を防ぐために布が何枚も打ちつけられている。中央に粗い机、端に長椅子、隅に火鉢。村の寄り合いと、道具置き場と、悪天候の避難場所を兼ねたような部屋だった。
いまはそこに、ユウトひとりがいた。
正確には、ひとりにされていた。
聖剣は壁に立てかけてある。
手のひらの火傷は、布を巻いただけだ。薬も奇跡もない。じくじくと痛みが残っている。こうして座っていると、むしろ前よりはっきりわかった。今まで自分がどれだけ、痛みの少ない側で戦っていたのか。
外では、まだ人の動く気配がしていた。
夜明け前の暗さの中で、村人たちは眠れず、誰かの看病や、焚き火の後始末や、さっきまでの夜の整理をしているのだろう。
その気配が、自分から少し遠い。
数時間前まで、自分はあの輪の中心にいたはずなのに、とユウトは思った。
戸が鳴る。
入ってきたのは、ハザマだった。
相変わらず黒い外套を着ている。泥も血もついていない。さっき広場であれだけ動いていたのに、不思議なくらい乱れがなかった。手には、湯気の立つ小さな木杯がある。
「飲んでください」
机に置かれたそれを見て、ユウトは眉をひそめた。
「毒でも入ってるのか」
「必要ならもっと効率のいい方法を使います」
「感じ悪いな」
ハザマは答えない。
ユウトは少し迷ってから、左手で木杯を取った。
白湯に近い、薄い薬草の匂いがする。うまくはない。けれど、冷えた身体に落ちていく熱が、少しだけ助かった。
「……何しに来た」
ハザマは戸の近くではなく、机をはさんだ向かい側に立った。
座らない。
「確認です」
「何を」
「逃げる意思がないか」
「ないって言っただろ」
「言葉は記録します。意思は別に確認します」
ユウトは鼻で笑いかけて、うまくいかなかった。
「おまえ、ほんと嫌な奴だな」
「よく言われます」
「今の、ちょっと嬉しそうだったぞ」
「気のせいです」
そこで会話が途切れる。
静かな小屋の中で、火鉢の炭が小さく鳴った。
ユウトはその音を聞きながら、ふと、前の世界のアパートを思い出した。冬の夜、安い電気ストーブの前でコンビニ飯を食っていた部屋。別に帰りたくはない。あそこに戻りたいわけじゃない。ただ、あの世界の自分と、この世界の自分のあいだに、一本の線が引けなくなっている感じがした。
「……俺を消したら」
ユウトが言う。
「この村の連中は、どうなる」
ハザマは少しだけ間を置いた。
「大きな破綻は起きません」
「聞いてない」
「記憶が消えるとは限りません」
「はっきり言えよ」
「説明しづらい」
ユウトは苛立って木杯を置く。
「そういうのがいちばん腹立つんだよ」
「そうでしょうね」
「俺がここでやってきたことは?」
「痕跡は残る可能性があります」
「可能性って何だ」
ハザマは、机の木目を見るみたいな目で言った。
「人は、失ったものの輪郭をいつも正確に覚えているわけではない。ですが、失った感じだけが残ることはある」
「……何だよ、それ」
「たとえば、よく通る道に隣接した建物が解体される。もう次の日には、そこに何があったのか明確に思い出せない。何かが違うと感じる。けれど何が違うかもわからない。そういう残り方です」
ユウトは黙る。
ぞっとする話だった。
自分が消えたあと、リリサや村の子どもたちが、はっきり自分を思い出せないまま、説明のつかない空白だけ抱えるかもしれない。
忘れられるより、少しひどい。
「……残酷だな」
「そうですね」
ハザマは否定しなかった。
ユウトは顔を上げる。
「おまえ、自分でそれ言ってて何とも思わないのか」
「思わないなら、もっと楽です」
初めて少しだけ、言葉がほのかな熱を帯びた。
ほんのわずかだが、ユウトはそれを聞き逃さなかった。
「じゃあ何でやる」
「必要だからです」
「誰にとって」
「全体にとって」
「またそれか」
ユウトは背もたれのない椅子に体重を預け、天井を見た。
「全体って便利な言葉だよな。顔が見えない。痛くもない。誰が泣くかもわからない」
「見えているから、そう言うんです」
「は?」
「見えないなら、ここまで面倒ではない」
その返答は少し意外だった。
ユウトは数秒、黙ってハザマを見る。
この男は冷たい。
たぶん本当に冷たい。
だが、冷たいままで済ませようとしている感じがある。自然にそうなのではなく、そう作っているような。
「……おまえさ」
ユウトはゆっくり言った。
「最初から、俺のこと、ただのバグだと思ってたわけじゃないだろ」
ハザマの視線が止まる。
「もしそうなら、もっと早く終わらせてる。広場でも、あんなふうにいちいち話さない」
「処理前の確認は規定です」
「嘘つけ」
ユウトは今の自分にできる精一杯の強さで笑った。
「おまえ、規定だけで動いてる顔じゃない」
ハザマは答えなかった。
沈黙が落ちる。
だが今度は、さっきより少し違う沈黙だった。
互いに、相手がまったく理解不能な存在ではなくなってしまったあとの静けさ。
「……三年だった」
ユウトが先に口を開く。
「こっちに来てから。三年、飯食って、戦って、風邪ひいて、馬鹿みたいなことで笑って、何人も埋めた。死んだ奴もいる。助けられなかった奴もいる。全部、俺の中では本当にあったことなんだよ」
火傷した手がずきりと脈打つ。
ユウトは顔をしかめながら続けた。
「それを、おまえは外から来て、許可されてないとか、整合がどうとか、そういう言葉で叩き切る」
「はい」
「腹が立つ」
「そうでしょうね」
「でも」
ユウトはそこで言葉を探した。
「でも、おまえが村のガキを守ったのも見た。傭兵を助けたのも見た。だから余計にわからない」
ハザマは少しだけ目を伏せた。
「両立しているだけです」
「してるように見えない」
「見えなくても、そうです」
外で風が鳴る。
布を打ちつけた壁が、小さく揺れた。
「おまえは」
ユウトが言う。
「おまえは、この世界の連中を本物だと思ってるのか」
その問いには、さすがにハザマもすぐには答えなかった。
本物。
何度も考えないようにしてきた語だ。考えるほど、処理は鈍る。
それでも、嘘はつけなかった。
「……思わないようにしています」
ユウトは目を細める。
「それ、思ってるってことだろ」
「違います」
「違わないだろ」
「違います」
今度の否定は、少しだけ強かった。
ユウトはそこで、ああ、この話題はこいつに効くんだな、と理解する。
ハザマは自分で気づいたのか、声を落とした。
「本物だと定義すると、処理不能になる」
「でも処理してる」
「はい」
「じゃあ、やっぱり残酷だ」
ハザマは反論しなかった。
そのかわり、端末を出す。
青白い表示が空中に開く。ユウトには見える。さっきまでと違って、今はそれを見ただけで吐き気はしなかった。
「夜明け後の処理ですが」
事務的な声に戻っている。
「強制終了に入る前に、外部系権限の最終剥離を行います」
「要するに?」
「勇者としての補正、異常な加護、再侵入の足場になりうる部分を全部切る」
「そのあと」
「あなたをこの世界から終了させます」
「死ぬのか」
「あなたの認識では、それに近いでしょう」
ユウトは笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、木杯の底に残った薄い薬湯を見た。
「……一つだけ訊く」
「どうぞ」
「俺が、ここで生きたこと自体は、無かったことになるのか」
ハザマは、その問いだけには即答した。
「なりません」
ユウトが顔を上げる。
「記録上どう扱われても、あなたの実感は消えない」
「消えるだろ。俺ごと消すなら」
「外から見えなくなることと、無かったことは違う」
それはたぶん、ハザマ自身にも向けた言葉だった。
ユウトはしばらく黙り、それから小さく息を吐く。
「……そうかよ」
強い納得ではない。
でも、さっきまでより少しだけ、座る姿勢が落ち着いた。
ハザマは端末を閉じる。
「夜明けまで、まだ時間があります。眠れるなら眠ってください」
「無茶言うな」
「そうですね」
ハザマは戸口へ向かう。
ユウトは、その背中に言った。
「なあ、ハザマ」
「何ですか」
「おまえ、自分の仕事が正しいと思ってるか」
ハザマは足を止めた。
長い沈黙のあと、振り返らないまま答える。
「……そうでないと困ります」
それだけ言って、外へ出る。
戸が閉まる。
小屋の中に残されたユウトは、火鉢の赤い炭を見つめた。
正しいと思っている、ではなかった。
そうでないと困る。そう言った。
その違いが、妙に頭から離れなかった。
夜はまだ明けない。
けれど、もう完全な暗闇でもなかった。




