第1話
その日、勇者ユウトは、村を救った。
夕暮れどきの森は、赤く濁っていた。
西日だけじゃない。地面には黒い体液が飛び散り、倒れた木々のあいだには、巨大な獣の死骸が横たわっている。
黒角熊。
この辺境一帯で名を聞けば子どもが泣くという魔獣だった。熊に似ているが、熊よりずっと大きい。肩までの高さだけで大人の男を越え、額から生えた二本の角は、荷馬車の横板なんて紙みたいに裂く。
実際、裂かれていた。
村へ物資を運ぶための荷馬車は、車輪ごとひっくり返されている。護衛の傭兵は三人いたが、二人は気を失い、もう一人は腕を押さえたまま木にもたれていた。村の若者たちも棒や斧を持って立ち向かったらしいが、戦いですらなかった。踏み散らされ、吹き飛ばされ、ただ生き延びただけだ。
それを止めたのが、ユウトだった。
「――《加速》」
小さく呟いた瞬間、世界が少し遅くなる。
正確には、自分が速くなるのだとわかってはいた。けれどユウトにはいつも、世界のほうが一拍だけ鈍くなったように感じられた。空気が薄くなる。足元の土が爆ぜる。黒角熊が振り上げた右前脚の軌道が、はっきりと見えた。
遅い。
前の世界なら、こんなふうに思えたことは一度もなかった。
間に合わない。
追いつけない。
選ばれない。
そればかりだった。
だが今は違う。
身を沈めて踏み込み、巨体の懐に潜る。黒角熊が咆哮を上げるより先に、ユウトは剣を振り抜いた。白く光る刃が、夕闇に一閃する。
手応えは、驚くほど軽かった。
あれほど硬かった毛皮も、分厚い筋肉も、まるで最初から斬れるようにできていたみたいに裂ける。遅れて噴き出した黒い血が頬にかかった頃には、もうユウトは獣の横を抜けていた。
どさり、と重い音がする。
振り返ると、黒角熊の首が半ばから落ちていた。巨体が傾ぎ、地面を揺らして崩れる。森がしんと静まり返る。
その静寂のなかで最初に聞こえたのは、誰かの、信じられないものを見たような息だった。
「……倒した」
「黒角熊を……ひとりで……」
「勇者様が」
勇者様。
その呼び名を聞くたび、胸の奥に熱いものが灯る。
ユウトは荒い息を整えながら剣を鞘に収めた。刃についた血は、鞘に触れる前に白い光の粒になって消えた。聖剣レヴァンティア。王都の神殿で、誰にも抜けなかった剣。触れた瞬間、なぜか自分には抜けるとわかった。あのとき神官たちが見せた、驚愕と歓喜の入り混じった顔を、ユウトはまだ覚えている。
あなたこそ、神に選ばれた勇者です。
あの言葉が、自分の人生で初めて、何かが確定した瞬間だった。
「ユウト様!」
村長の孫娘、リリサが駆け寄ってきた。
麦色の髪を振り乱し、涙目のまま、それでも笑っている。
「お怪我は!?」
「大丈夫。みんなは?」
「何人か怪我はしましたけど、命に別状はありません。ユウト様が来てくださらなかったら……」
そこまで言って、彼女は唇を震わせた。
泣きそうになっている。
助かったからだ。
自分が間に合ったから。
その事実が、どうしようもなく甘かった。
「よかった」
口にしたのはそれだけだった。
本当はもっといろいろ言いたかった。安心させるようなこととか、勇者らしい立派な言葉とか。だけど、前の世界でそんな台詞を使う機会なんてなかったせいで、いつも少し不器用になる。
それでも、リリサはひどく嬉しそうにうなずいた。
「今夜はお祝いにしましょう。絶対に」
「お祝い?」
「はい。黒角熊を退けたんですもの。村を挙げて祝わないと」
そんな大げさな、と思った。
けれど同時に、悪くない、とも思った。
この世界に来て三年。
最初は混乱しかなかった。目が覚めたら見知らぬ草原で、知らない言葉がなぜか聞き取れて、頭の中には半透明の青い板が浮かんでいた。名前、年齢、レベル、体力、魔力、スキル。ゲームみたいだ、と真っ先に思ったのは、自分がそういうものばかりやっていたからだ。
それから思い出した。
自分は死んだのだ、と。
夜の交差点だった。
コンビニ帰りで、イヤホンをしていて、スマホを見ていた。横断歩道の白い線が雨に濡れて光っていた。クラクション。急に近づくヘッドライト。トラックの運転席で青ざめた顔。体が浮く感覚。アスファルトに叩きつけられたときの、変に乾いた音。
痛みより先に思ったのは、あ、これで終わりか、だった。
情けないほどあっけなくて、悔しいとか未練とかよりも、ただ空白だった。自分の人生って、こんな感じで閉じるんだな、と、どこか他人事みたいに思っていた。
だからこそ、次に目を開けたときは、夢だと思った。
だが夢は終わらなかった。
異世界。
ステータス。
スキル。
聖剣。
魔王復活の兆し。
王国の期待。
村人たちの感謝。
憧れの眼差し。
そんな都合のいいことが本当にあるのかと、最初は何度も疑った。
でも、剣を握れば強くなれた。祈れば傷が塞がった。戦えば勝てた。何かを守れば感謝された。
ここでは、自分はちゃんと必要とされる。
その実感だけは、嘘じゃなかった。
夜、村の広場には焚き火が焚かれた。
肉が焼かれ、樽酒が開けられ、普段は取っておくような白いパンまで並んだ。子どもたちは木の枝を剣に見立てて振り回し、大人たちは昼の戦いを何倍にも膨らませて語り合う。
「黒角熊が、こんなに大きくてな!」
「いや、もっと大きかった! 屋根くらいあったぞ!」
「それを勇者様が一太刀だ!」
さすがに屋根ほどはない。
でも、訂正する気にはなれなかった。
人は救われたあと、救ったものを少し大きく語る。
それくらいは許されていい。
「勇者ユウト様に!」
誰かが木杯を掲げる。
広場中が声を合わせた。
「乾杯!」
酒の味は、まだあまり好きじゃなかった。けれど、喉を通る熱さは心地よかった。リリサが焼き菓子を持ってきて、子どもたちはもっと武勇伝を聞かせてくれとせがみ、村長は白い髭を揺らして何度も頭を下げた。
前の世界で、こんなふうに輪の中心にいたことはない。
話しかけられるのを待つ側じゃない。
いてもいなくても変わらない人間じゃない。
自分はここで、誰かになれたのだ。
そう思ったときだった。
広場の外れ、井戸のそばに、ひとり立っている男が見えた。
知らない顔だった。
旅人にしては、奇妙なくらい荷がない。傭兵にしては武骨さがなく、神官にしては祈る気配がない。黒に近い外套を羽織っているが、布の質感さえ周囲と少し違って見える。夜の闇に馴染んでいるのに、逆にそこだけ輪郭が鋭い。
何より、拍手をしていなかった。
村人たちは誰もまだ気づいていない。
焚き火の向こうで、その男だけが場の熱から切り離されている。
「……誰だ?」
無意識に呟いた声に、隣のリリサが首を傾げた。
「え?」
「いや、あそこに――」
言い終える前に、男が歩き出した。
ゆっくりと、まっすぐこちらへ来る。
それだけなのに、広場の空気が少しずつ変わった。笑い声が細くなる。木杯を持つ手が止まる。誰かが肉を切る包丁を置く。理由は誰にもわからないのに、祝勝会の熱のなかへ、薄い氷の膜みたいなものが滑り込んでくる。
男は卓の前で立ち止まった。
「祝宴の最中に失礼します」
低い声だった。
丁寧だが、そこに人間らしい逡巡がない。
ユウトは眉をひそめる。
「旅の人か? なら座るといい。今夜は祝いだ」
「工藤悠斗さん」
心臓が、ひとつ強く打った。
その名前を、この世界で知っている者はいない。
木杯の縁を持つ指先が冷たくなる。
リリサが不思議そうにこちらを見る。村人たちには、その名前の重さがわからない。ただユウトだけが、目の前の男を見ながら、胸の奥を無造作に掴まれたような感覚に襲われていた。
「……誰だ、おまえ」
「確認します。自己認識は安定。人格連続性、維持。違法インターフェース、常時接続状態」
意味のわからない言葉だった。
けれど、男の視線が自分の右手に落ちた瞬間、ユウトの喉がわずかに詰まる。
「無意識に空中を払う癖がある。画面を閉じる動作ですか」
ユウトは反射的に右手を引いた。
癖になっていた。
頭の中に出る青白い板――ステータス画面を閉じるとき、いつも右手を横に払う。
誰にも説明したことのない、いや、説明できなかったはずの動作だった。
「何を、言ってる」
「気づくべきでした」
男は淡々と続ける。
「この世界の住人には、それは見えていない」
ざわ、と背筋が粟立つ。
最初の頃、確かに何度か尋ねたことがある。
この数字は何だ。スキルって何だ。なぜ自分だけ見える。
皆、意味がわからないという顔をした。そのうえで、勇者だけに与えられた神の啓示なのだろう、と言った。
だから、そういうものだと思うことにした。
思い込むことにした。
だが今、目の前の男は、それを祝福ではなく、別の何かみたいに言った。
「あなたは、ここに存在してはいけない情報です」
「ふざけるな」
椅子を鳴らして立ち上がる。
酒気が一気に飛んだ。
「俺はこの村を救った。今日だけじゃない。何度もだ。街道の魔物だって、盗賊団だって、疫病の薬草だって――」
「観測しています」
「だったら」
「それでも、です」
男は表情ひとつ変えなかった。
「この世界は、君を必要としない」
ユウトは、言葉を失った。
必要としないはずがない。
そんなことはありえない。
村人たちは助けを求めた。自分は応えた。感謝された。歓迎された。憧れられた。
ここは、自分が初めて誰かになれた場所なのに。
ユウトは腰の剣に手をかけた。
聖剣レヴァンティア。誰よりも速く抜ける。誰よりも確かに敵を斬れる。神に選ばれた証。
鞘を払う。
だが、半ばまで抜いた刃に、いつもの光がなかった。
白金の輝きはどこにもない。
手に伝わる重さも違う。
神聖な清浄さは消え失せ、ただの鈍い鉄を握っているみたいだった。
「……え?」
「権限を一部剥奪しました」
男が言う。
「王家の血統認証、女神系加護、英雄称号補正。整合の取れない部分だけです」
「意味が、わからない」
「わからなくて構いません」
男は懐から薄い紙片のようなものを取り出した。
紙に見えたが、焚き火の光を受けても質感がない。文字らしきものが並んでいるのに、村人たちの誰一人、それを読む気配がない。
広場の空気は、もう完全に変わっていた。
ついさっきまで、ここには祝福があった。
熱と酒と笑いと、英雄を称える安心があった。
今あるのは、説明できない寒さだけだ。何が起きているのかわからないのに、誰もが、大切な何かが先に壊れたことだけは感じ取っている。
リリサが、小さく声を漏らした。
「ユウト様……?」
その震えが、ユウトにはいちばん堪えた。
剣を抜ききれない。
指先が震える。
怒りより先に、ひどくみじめな恐怖が込み上げてくる。
「俺は……」
やっと手に入れたのだ。
この世界で。
この名前で。
誰かに必要とされる自分を。
その続きを、声にできなかった。
男はまっすぐユウトを見ていた。
憐れみも、軽蔑もない。
ただ、処理すべき対象を確認する静かな目だった。
「異世界管理局クレンジング部門、特務官ハザマです」
初めて男は名乗った。
そして事務的な口調のまま、冷たく告げる。
「君の処分に来ました、汚染データ」




