第5話『虚無の精神世界、あるいは悪魔が覗いた深淵』
「……ここが、レンの夢の中?」
キロが目を開けると、そこは真っ白な空間だった。 空もなければ、地面もない。 上下左右の感覚すら曖昧な、完全なる「無」の世界。 音もしない。風も吹かない。
「……何これ。普通、人間の精神世界って、もっと『欲望』とか『恐怖』が渦巻いてるもんじゃないの?」
色欲、権力欲、過去のトラウマ。 そういったものが形を成しているのが普通だ。 だが、ここには何もない。 ただ、中央にちゃぶ台が一つあり、そこでレン(精神体)がお茶を啜っているだけだ。
「……あ、いた」
キロはニヤリと笑い、レンの背後に忍び寄った。 ここなら僕の独壇場だ。精神世界では、イメージ力こそが強さ。 僕の想像力で、とびきりの恐怖を具現化してやる。
「出でよ、地獄の業火! 絶望の亡者たち! この男を恐怖のドン底に……!」
キロが指を鳴らす。 ドロドロとしたマグマと、悲鳴を上げる骸骨の軍団が、レンを取り囲むように出現した――はずだった。
パリン。
「……え?」
出現したはずの恐怖映像が、ガラスが割れるように一瞬で砕け散った。 そして、元の真っ白な空間に戻る。
「……うるさいな」
レンが、ちゃぶ台でお茶を飲みながらボソッと呟いた。
「せっかく静かに過ごしてるのに、なんで騒がしい映像を流すんだ。……チャンネル変えて」
「は、はぁ!? チャンネル!?」
キロは狼狽えた。 僕の魔法が、「テレビのチャンネルを変える」程度の感覚でキャンセルされた?
「ま、まだだ! ならばこれはどうだ! 『巨大ゴキブリの群れ』!」
ザワザワザワ……! 無数の黒い影がレンに迫る。生理的嫌悪感の極みだ。
「……不快だ。削除」
レンが視線を向けただけで、ゴキブリたちは「最初から存在しなかった」かのように消滅した。
「な、なんで!? 僕のイメージ力が負けてる!? 悪魔の僕が!?」
キロは後ずさった。 違う。 これは「イメージの勝負」じゃない。 この空間において、レンの「拒絶」という意志は、絶対的な「消失(虚無)」と同義なのだ。
「……君、誰?」
レンがようやくキロの方を向いた。 その瞳は、現実世界以上に深く、暗く、光のない「深淵」だった。
「……君も、うるさいね」
レンが手をかざす。 リモコンで音量を下げるような仕草。
『ミュート』。
「あ、あが、が……!?」
キロの声が出なくなった。 喉が塞がれたのではない。「音」という概念そのものが、キロから剥奪された。
「……色も、派手で目が痛い」
『モノクローム』。
キロの体から色彩が消え、白黒の漫画のような姿になった。
「……動きも、鬱陶しい」
『一時停止』。
キロの体が、空間に固定された。 指一本動かせない。思考だけが残された状態で、完全なる静止画にされた。
(な、なんだこれ……!? 魔法じゃない……! これは『編集』だ……!!)
キロは戦慄した。 この男の精神世界は、ただの夢じゃない。 彼にとって「不快なもの」を徹底的に排除し、編集し、加工して作られた**「完全なる自己完結の世界」**だ。 そこに異物が入り込めば、当然のように「編集(削除)」される。
「……ふぅ。これで静かになった」
レンは満足げに頷くと、再びお茶を啜り始めた。 動けないキロを、ただの「置物」として部屋の隅に配置して。
(……怖い。……怖い怖い怖い!!)
キロの精神が悲鳴を上げた。 悪魔である彼は「混沌」や「恐怖」には強い。 だが、この圧倒的な「無関心」と「静寂」。 自分の存在を認知されず、ただのデータとして処理される感覚。 それは、悪魔にとって最も恐ろしい「虚無地獄」だった。
(出してくれ! 帰してくれ! 僕が悪かった! もういたずらしないからぁぁぁ!!)
キロが心の中で絶叫した、その時。
「……ん? 朝か」
レンの姿が薄れ始めた。 現実世界で目が覚めようとしているのだ。
パリーン!!
精神世界が崩壊し、キロの意識は強引に現実へと弾き飛ばされた。
◇
「はっ……!?」
現実世界。アッシュトンの塔、最上階。 キロは床にへたり込み、肩で息をしていた。 全身冷や汗まみれだ。
「……あ、あ、悪魔だ……あいつは、本物の悪魔だ……」
目の前のポッドで、レンがゆっくりと起き上がる。 アイマスクを外し、寝ぼけ眼でキロを見た。
「……ん? 誰だっけ、君」
レンは、夢の中の出来事を覚えていなかった(どうでもいいから)。 だが、キロにとっては、その「忘れている」という事実こそが、最大の恐怖だった。
「ひぃっ!?」
キロは後ずさった。 勝てない。 物理も、魔法も、精神攻撃も通じない。 この男は、「自分以外の全てをノイズとして処理できる」という、最強の精神構造を持っている。
「……あ、あの」
キロは震えながら、その場に土下座した。
「……弟子にしてください」
「は?」
「僕の『いたずら』なんて、貴方の『虚無』に比べたらお遊びでした……! 勉強させてください! 真の魔王のあり方を!!」
「……帰ってくれないかな」
こうして、アッシュトン独立国に、新たな下っ端(元・ダンジョンマスター)が加わった。 彼の仕事は、レンの「編集」スキルに怯えながら、ジムニーの手伝いをすることになるのだった。




