第三十二話(第一部・最終話)『鉄の秘書の遺産、あるいは静寂への遠き道』
「キャシーィィィ!! 戻ってきてくれぇぇぇ!!」
執務室にジムニーの絶叫が響き渡った。 鉄の秘書が去って三日。彼女が構築した自動統治システム『C-System』は、主を失ったことで、その「過剰なまでの効率性」を暴走させていた。
「レン殿! 見てください、この『領主の昼寝最適化スケジュール』を! 閣下の寝返りの角度に合わせて、街の広場の噴水の水圧が自動調整されるようになっています! 意味が分かりません!!」
「……あ、本当だ。左を向くと虹が出るな」
レンはソファで寝返りを打ちながら、窓の外の噴水が美しく虹を描くのを眺めていた。 快適だ。だが、その背後でジムニーが泡を吹いている。
「そんな情緒的な機能はどうでもいいんです! 問題は、彼女が遺した『資産運用プログラム』ですわ! ミリス様の盗品……失礼、戦利品を勝手にレバレッジ取引にかけて、我が国の国家予算が今朝、隣国の国家予算を上回りました!!」
「……増えたならいいじゃないか」
「良すぎるのが問題なんです! 金がありすぎて、周辺諸国が『アッシュトンが世界を買収しに来る!』と戦慄して、連合軍を組織し始めてますよ!!」
これが、キャシーの遺産。 彼女はレンの「働きたくない」という願いを叶えるため、**「働かなくても世界を支配できるシステム」**を構築してしまったのだ。
◇
そこへ、システムの「恩恵(呪い)」を受けたヒロインたちが乱入してきた。
「レン様! キャシーさんが遺した『自動婚約受理システム』、私の指紋でロックが解除できましたわ! 今から108枚の婚姻届を提出します!!」 「待てルナリア! 私の『筋肉増強プログラム』の報酬は、レンとの混浴券だとC-Systemに設定されているぞ!」 「拙者の『一刀両断』の成功報酬は……師匠の膝枕一時間でござるッ!!」
キャシーは、ヒロインたちの「労働意欲」を維持するために、レンの身の安全(貞操)を「報酬」としてシステムに組み込んでいたのだ。 完璧なインセンティブ設計。だが、レンにとっては地獄の契約書でしかない。
「……ジムニー君。あのサーバー、物理的に壊して」
「無理です! 防衛ゴーレムが『領主の資産を守れ』という命令に従って、私を排除しようとしてきます!!」
◇
ついに、アッシュトン独立国の外壁に、周辺諸国の連合軍が集結した。 「暗黒帝国アッシュトンを討て!」という正義の叫び。
だが、レンは動かなかった。 動くのが面倒だったからではない。キャシーが遺した『自動防衛プロトコル』が発動したからだ。
『警告:外部からの騒音を確認。安眠妨害レベル:大』 『対策:強制沈黙および、最新型・癒やしの温泉・広域散布』
ドゴォォォォォン!!
壁から巨大なスプリンクラーがせり出し、連合軍に向けて、ドラゴンハートで沸かした「神の湯」を霧状に散布した。 聖女アリアの浄化魔法が混ざったその霧を浴びた兵士たちは、 「あ、洗われる……。心が……」「なんかもう、争いとかどうでもいい気がしてきた……」 と、戦意を喪失してその場で入浴を始めてしまった。
「……」
レンは、窓から平和に(?)入浴する敵軍を眺め、深く溜息をついた。
「……ジムニー君。僕はただ、静かに暮らしたかっただけなんだ」
「知ってますよ……。でも貴方の『怠惰』が、世界を救ったり滅ぼしたりするんです」
ジムニーは、教本を小脇に抱え、胃薬を点滴袋に詰め替えながら、レンの隣に立った。 外では、虹のかかった噴水の下で、ヒロインたちがレンを巡って三つ巴の乱闘を再開している。 サーバーは勝手に金を稼ぎ続け、王様からは「さすが我が友だ!」という親書が届く。
「……レン殿。これからも、この『完璧に狂った国』の経営、手伝わせてもらいますよ」
「……頼むよ、ジムニー君。給料は、あのサーバーから好きなだけ抜いていいから」
レンはアイマスクを装着した。 どんなに環境が変わっても、どんなに国が大きくなっても、彼のやることは変わらない。 目を閉じ、意識を断絶し、自分だけの静寂へと潜り込むこと。
アッシュトン独立国。 そこは、世界で最も騒がしくて、世界で最も平和で、そして世界で最も「領主が寝ている」場所。
レン・アシュトンの、不本意な英雄譚(第一部)。 それは、一人の常識人の盛大な胃痛と、一人のシゾイドの深い眠りの中で、一時の幕を閉じた。
第一部・完




