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『道化師の仮面は、硝子(ガラス)でできている』  作者: 沼口ちるの


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第二十九話『鉄の秘書の来訪、あるいは管理された怠惰』

「……あ、あ……もうダメです……」


執務室の床で、ジムニーが泡を吹いて痙攣していた。 無理もない。 独立国家「アッシュトン」には、世界中から闇の商人、魔王崇拝者、筋肉マニア、そして普通の移民が殺到し、人口は爆発。 行政手続きはパンクし、書類の山は天井まで届いていた。


「……ジムニー君。しっかりして。君が倒れたら、誰が僕の代わりに判子を押すんだ」


レンはソファから声をかけるが、動こうとはしない。 彼は今、『現実逃避』という名の瞑想中だ。


「……無駄よ、ジムニーは限界」


その時。 コツ、コツ、コツ。 規律正しいヒール音が、カオスな執務室に響いた。


「誰だ?」 レンが目を開ける。 扉の前に立っていたのは、眼鏡をかけた、冷徹な美貌の女性だった。 隙のないスーツ姿(軍服のアレンジ)。手にはバインダー。 その瞳は、部屋の惨状をスキャンし、コンマ一秒で「ゴミ」と「資源」を分別していた。


「ひっ……!? き、ききき、キャシー室長!?」


死にかけていたジムニーが、電気ショックを受けたように飛び起きた。 そして直立不動で敬礼する。


「お、お久しぶりであります! な、なぜこのような辺境に!?」


「久しぶりね、ジムニー」 キャシーと呼ばれた女性は、氷のような声で言った。 「貴方が『楽園を見つけた』と言って出奔したから、様子を見に来たの。……まさか、こんな『豚小屋』で燻っているとはね」


「豚小屋……!」 ジムニーがショックを受ける。


「なによ、偉そうな女ね!」 ルナリアが噛み付いた。 「ここはレン様の神聖な執務室よ! 不敬罪で……」


「黙りなさい、公爵家の小娘」 キャシーが眼鏡をクイッと上げる。


「貴女が提出した『レン様ファンクラブ設立届』、不備が12箇所あるわ。あと、ヴェルミリア王女。貴女の『城壁破壊報告書』、書き直し。ミリス、貴女の『戦利品申告』は脱税の疑いがあるから監査します」


「えっ……?」 三人がたじろぐ。 キャシーは、彼女たちが隠していた(あるいは適当に書いた)書類の不備を、一瞬で見抜いていたのだ。


「……何者だ」 レンが身を起こす。 ただの事務員ではない。この場の空気を一瞬で支配した。


「初めまして、レン・アシュトン閣下」 キャシーは優雅に、しかし無駄のない動作で一礼した。


「私はキャシー。かつて王宮で『筆頭書記官』を務めておりました。……ジムニーの元上司です」


「元上司……」


「見るに見かねて、私が指揮を執ることにしました。……雇用契約書はこちら。サインを(強制)」


キャシーはバインダーをレンの目の前に突き出した。 拒否権はないオーラだ。 だが、レンは面倒くさそうに言った。


「……いらない。秘書ならジムニー君がいる」


「ジムニーでは、貴方の『怠惰』を支えきれません」 キャシーは断言した。


「貴方が求めているのは『静寂』と『睡眠』。……ですが、今の貴方は『非効率なサボり方』をしているせいで、逆にトラブルを招いています」


「……何?」


「私なら、貴方の睡眠時間を『公務』として定義し、周囲を黙らせ、かつ領地を完璧に回せます。……どうしますか?」


レンの目が変わった。 この女……僕のニーズ(サボりたい)を完全に理解している。


「……採用だ。即戦力として期待する」


「賢明な判断です。では、業務を開始します」


   ◇


そこからのキャシーは、まさに「チート」だった。


「スキル発動――『超速事務処理オーバー・ワーク』」


シュババババババッ!!!


彼女の手が残像と化した。 山積みだった書類が、秒速で処理されていく。 承認、却下、保留、修正指示。 ジムニーが三日かかる量を、彼女はコーヒーを淹れる片手間で終わらせた。


「ヴェルミリア様、貴女の筋肉は『土木課』へ。その力でトンネルを掘りなさい」 「おう! 任せろ!」(上手く乗せられた)


「アリア様、貴女の祈りは『農業課』へ。作物の成長促進に使ってください」 「レン様の国の糧になるなら!」(上手く誘導された)


「ノブツナ様、貴女の殺気は『治安維持』へ。不審者を睨むだけでいいです」 「心得た!」(適材適所)


そして、レンに対して。


「閣下。本日の業務は『終了』です」 キャシーは、綺麗になった机の上に、ふかふかの枕を置いた。


「えっ、まだ昼の2時だけど」


「私が全て処理しました。今の貴方の仕事は『そこで寝て、象徴としての威厳を示すこと』です。……さあ、どうぞ」


「……最高かよ」


レンは感動した。 これまでジムニーは「起きてください!」と泣きついてきたが、キャシーは「寝ろ(仕事として)」と言ってくれる。 これぞ、求めていた人材だ。


レンは枕に顔を埋め、幸福な眠りについた。


   ◇


しかし。 その夜、ジムニーがこっそりとレンに耳打ちした。


「……レン殿。気をつけてください」 「ん? 何が?」 「キャシーさんは、『完璧主義』なんです」


「?」


翌朝。 レンが目を覚ますと、ベッドの横にキャシーが立っていた。 手にはストップウォッチ。


「おはようございます、閣下。睡眠時間8時間と3分。……予定より3分のオーバーです」


「え?」


「完璧な『怠惰』を維持するためには、規則正しい生活が不可欠。……さあ、朝食は4分30秒で摂取してください。その後、15分の二度寝タイムを経て、10時から30分間、バルコニーで手を振る業務があります」


「……え、あの、僕はもっと自由に……」


「『自由』とは『管理された秩序』の上に成り立つものです。さあ、スケジュール通りに動いてください。1秒の遅れも許しません」


キャシーの眼鏡が光った。


レンは悟った。 ジムニーは「泣きついてくる」だけだったが、キャシーは**「逃がしてくれない」。 彼女の手のひらの上で、「世界一効率的なニート」**を演じさせられるハメになったのだと。


「……ジムニー君」 「はい……」 「……君のありがたみが、今わかったよ」


最強の管理職キャシーの登場により、アッシュトン領は「暗黒帝国」から**「超管理型・効率化帝国」**へと変貌を遂げようとしていた。

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