第二十二話『常識人の胃痛、あるいは多重並列思考による高速事務処理』
アッシュトン領、執務室。 今日からここが、ジムニー・ワイズマンの職場であり、処刑場(予定)だ。
「……いいか、ジムニー君」
レンが、書類の山に埋もれながら、死んだ魚のような目で語りかける。 彼の周囲には、50本もの羽ペンが宙に浮き、それぞれが別々の書類の上で踊っていた。
「僕が求めているのは『効率』と『静寂』だ。……だから、単純な決裁処理は僕がやる。君には、その前段階の『仕分け』と『クレーム対応』を頼みたい」
「……は、はい」
ジムニーは引きつった笑顔で頷いた。 目の前の光景が、人間のそれではないからだ。
カカカカカカカカッ!!
50本のペンが、目にも留まらぬ速さで署名、捺印、修正を行っている。 レン本人は、頬杖をついてあくびをしているだけだ。 視線すら書類に向けていない。
「(……どうなっている? 彼は今、全く書類を見ていないぞ?)」
ジムニーは恐る恐る尋ねた。
「あの……レン殿。中身を確認せずに承認印を押すのは、リスク管理として……」
「見ているよ」
レンは気だるげに答えた。
「『魔力探知』でインクの形状と紙の質感、筆圧をスキャンして、脳内で文字情報に変換している。……いちいち目で追うと眼球疲労の原因になるからね。直接脳に流し込んだ方が楽だ」
「……」
「あたおか」だ。 視覚を使わずに、脳直結で50人分の仕事を並列処理? それを「楽だから」という理由で? どこの世界に、ドライアイ対策で脳の処理領域を限界突破させる人間がいるんだ。
「よし、終わった」
レンが指を鳴らすと、50本のペンがピタリと止まり、数百枚の書類が綺麗に分類されて積み上がった。 所要時間、30秒。 アカデミーの全教授が束になっても三日はかかる量だ。
「……あ、これ、一枚だけ隣国のスパイが紛れ込ませた『暗殺依頼書』だね。燃やしておいて」
レンは、一枚の羊皮紙を無造作に弾いた。 ボッ。 羊皮紙が空中で塵となる。
「……え? いま、さらっと……」
「中身を読むと気分が悪くなる(精神的ノイズになる)から、読む前に魔力構成だけで『悪意』を感知して焼却した。……さて、休憩だ」
レンはアイマスクを装着し、瞬時に寝息を立て始めた。
ジムニーは震える手で、残された完璧な書類の山に触れた。 ミスひとつない。 不正の予兆すら、発生前に潰されている。
「(……この人は、怠惰なんじゃない。『怠けるためなら、神の領域の力すら躊躇なく行使する』怪物だ……!)」
ジムニーが戦慄していると、窓の外から爆音が響いた。
「レンー! 訓練場でドラゴンが出たぞ! 私が素手で倒していいか!?」 ヴェルミリアの声だ。
「レン様! 不浄な生き物です! 街ごと浄化しますわ!」 アリアの声だ。
「師匠! 拙者が斬り捨てて、その皮で新しい座布団を作るでござる!」 ノブツナの声だ。
うるさい。 レンがピクリと眉を動かした。
「……ジムニー君」
「は、はい!」
「うるさい。……あれ、黙らせてきて」
「無理です!! あの猛獣たちを私が!? 死にます!!」
ジムニーが叫ぶと、レンは「チッ」と舌打ちをした(この舌打ちだけで、窓ガラスが共鳴して割れそうになった)。
「……仕方ない」
レンはアイマスクをしたまま、窓の方へ手のひらを向けた。
「『超重力・防音結界』」
ズンッ……。
外の音が、完全に消えた。 ジムニーが窓から覗くと、訓練場にいたドラゴンと、そしてヒロイン三人が、地面にめり込んで動けなくなっていた。 まるで巨大な透明のプレス機で押し潰されたかのように、全員が「大の字」で地面に張り付いている。
『グ……グゥ……(声が出ない)』 『レン様……愛が……重い……♡』 『これが……師匠の……重圧……!』
「……これで静かだ。二度寝する」
レンは再び深い眠りについた。
ジムニーは、床にめり込んだ王女と公爵令嬢を見下ろし、そしてスヤスヤと眠る上司を見た。
「……私の仕事は、『事務』じゃない」
ジムニーは胃薬を取り出し、大量の水で流し込んだ。
「……この『魔王』が、世界を滅ぼさないように監視する『看守』だ……!」
彼は覚悟を決めた。 常識人ジムニーの、長くて辛い戦いが始まった瞬間だった。




