第7話 死神と踊る永遠の夜
人間界の喧騒は、もはや遠い岸辺に打ち寄せて砕け散る波の音にも似て、ヴィオラの意識に届くことはなかった。
王都を焼き、傲慢な王子と偽りの聖女を奈落へ突き落とした復讐の劫火は、彼女の魂をも焼き尽くしたかのように見えた。
だが、今彼女を包んでいるのは、灼熱の痛みではなく、ビロウドのように滑らかで、深い安らぎを湛えた「永遠の闇」であった。
そこは、生者と死者の境界に位置する、エドワードの領地——「影の王国」。
空には、青白く凍てついた月が二つ浮かび、地表には水晶のような輝きを放つ黒い薔薇が凛然と咲き乱れている。
静寂を支配するのは、崩れかけた回廊を吹き抜ける風の溜息と、主人の帰還を祝う死霊たちの微かな囁きだけであった。
「……終わったのね、すべて」
古城のバルコニーに立ち、ヴィオラは自らの白い掌を見つめた。
かつては他者のために尽くし、祈りを捧げていたその手は、今や一国を滅ぼし得る死の魔力を宿している。
右頬の呪印は、もはや彼女を苛む火傷ではなく、闇の魔女としての気高き証となって、月光の下で妖しく輝いていた。
「満足そうな顔だ、わが麗しき魔女」
背後から忍び寄る、芳醇な古酒を思わせる声。
エドワードが、影の中から溶け出るように姿を現した。
彼はヴィオラの腰に腕を回し、その項に冷ややかな唇を寄せる。
彼の長い銀髪が、ヴィオラの漆黒のドレスを彩り、白と黒の対比が美しい絵画を作り出していた。
「ええ。後悔はないわ。あの者たちの絶望の叫びは、私にとって何よりの鎮魂歌だった。……でも、エドワード。私はもう、人間たちの世界には戻れない」
「戻る必要などどこにある?」
エドワードは彼女を自分の方へ向かせ、その氷蒼と漆黒の異形の瞳で、ヴィオラの魂の奥底を覗き込んだ。
「君はあの日、監獄の底で、私にすべてを捧げると誓った。忘れたわけではあるまいに」
「……覚えているわ。私の寿命も、死後の魂も、すべてあなたのものだと」
「ならば、今こそ契約の報酬を受け取らせてもらおうか」
エドワードの指先が、ヴィオラのハーフマスクを優雅に外す。
隠されていた素顔が、月光の下で露わになった。
醜く焼かれたはずの肌は、今や死神の魔力によって、この世のものとは思えぬ艶やかな光沢を放っている。
彼はヴィオラの顎を掬い上げると、狂おしいほどの情熱と、絶対的な所有欲を込めて囁いた。
「君を、誰の目にも触れぬこの深淵の宮殿に閉じ込め、未来永劫、私だけのものにする。君の苦しみも、喜びも、溜息の一つでさえ、私の支配下に置く。……それが私の望む『報酬』だ」
甘美なまでに残酷な「監禁」の宣告。
しかし、ヴィオラにとってそれは、救済という名の祝福であった。
偽りの愛に踊らされ、真面目に生きることに疲弊した彼女にとって、彼の愛着こそが、唯一信頼に足る絆だったのだ。
「……ええ。貴方の望むままに。私の死神」
ヴィオラは自らエドワードの首に腕を回し、その冷たい唇を迎え入れた。
口づけと共に、彼女の意識はさらに深い闇へと沈んでいく。それは死に勝る悦楽であり、生きていることの実感であった。
城の広間では、主人の帰還を祝うための、葬送の舞踏曲が流れ始めた。
エドワードはヴィオラを抱き上げ、漆黒の大理石が敷き詰められたダンスホールへと踏み出す。
人間の歴史からは抹消され、乙女ゲームのシナリオからも外れた、二つの影。
王都を焼き、神を裏切った悪役令嬢は、死神の腕の中で、幸せそうな微笑を浮かべていた。
「さあ、踊ろう。夜はまだ始まったばかりだ。私たちの永遠という名の、至福の夜は」
二人の影は重なり合い、やがて一つになって闇に溶けていく。
外の世界では、滅びゆく王国の悲鳴がまだ響いていたかもしれない。
なんにせよ、この影の王国のカーテンが開くことは、二度となかった。
これこそが、奈落の底で死を願った少女が手に入れた最高にダークで、最高に幸福な物語の終焉であった。




