第4話 綻びゆく「聖女」の仮面
王都を覆う空は、もはや青を忘れ、鉛色の雲が重く垂れこめていた。
「黒い霧」という名の疫病は、目に見えぬ毒虫のように路地裏から王宮の最奥まで侵食し、人々の心を疑心暗鬼という名の泥沼へ引きずり込んでいた。
かつて栄華を極めた街路には、死を待つ者の呻きと、祈りを忘れた者たちの罵声が響き渡る。
王宮の執務室の窓から狂騒を見下ろすカイル王子の顔は、かつての凛々しさを失い、焦燥ばかりが滲む。
「……なぜだ。なぜリンの祈りで、この霧が晴れない!」
カイルが振り返り、絶叫に近い声を浴びせる。
視線の先には、純白のドレスに身を包んだリンが、糸の切れた人形のように椅子に頽おれていた。
「わ、私にはわかりませんわ、カイル様……。毎日、血を吐く思いで祈りを捧げているのに……」
リンの声は震え、白磁のような肌には、隠しようのない暗い影が差していた。
彼女がヴィオラから奪った魔力は、今や毒に変わっていた。
ヴィオラの憎悪が深まるほどに、その力は「浄化」を拒み、内側からリンの生命力を蝕んでいく。
鏡の中に映る自分の瞳に、時折、ヴィオラの嘲笑うような残像が過る。
その恐怖に、リンの精神は極限まで摩耗していた。
「民は、貴女を『偽りの聖女』と呼び始めている。このままでは、王家の威信は地に落ちる!」
カイルの瞳に宿るのは、愛ではなく、保身だった。
彼はリンの肩を強く掴んだ。爪が柔らかな肉に食い込む。
「……明日、処刑を行う。あの『黒い霧』を呼び込んだとされる異端者たちを、広場で焼き殺す。その火を、貴女の浄化の光で包み込め。そうすれば、民は再び貴女を信じるだろう」
カイルが選んだ「異端者」とは、かつてヴィオラが幼少期に支援していた孤児院の子供たちや、彼女の潔白を信じていた数少ない使用人たちであった。
無辜の血を流すことで、自らの失態を塗り潰そうとする。
醜悪なまでの浅ましさに、リンは拒絶する言葉も持たず、ただ震える唇で「はい」と答えるしかなかった。
その様子を、王宮の影に潜む「死霊」の眼を通じて、ヴィオラはつぶさに眺めていた。
「ふふ……素敵。なんて甘美な地獄なのかしら」
霧のサロンの奥、ヴィオラはエドワードの膝の上で、愉悦に満ちた溜息を漏らした。
エドワードの長い銀髪が、彼女の黒いドレスの上に零れ落ちる。
彼はヴィオラの細い腰を抱き寄せ、頬の傷跡の縁に、羽毛のような軽い接吻を落とした。
「あの王子は、自ら墓穴を掘り進めているようだね。君を焼いたその手で、今度は民の信頼までもを焼き尽くそうとしている」
「ええ。彼らがその火を灯した瞬間に、私は降臨するわ。……エドワード、準備はいいかしら?」
「もちろんだよ、私の愛しい魔女。死の軍勢は、君の一言を待っている。明日の朝、王都の鐘が鳴る時、すべてを終わらせよう」
エドワードの左目——氷蒼の瞳が、凍てつくような光を放つ。
ヴィオラは彼の手を取り、その冷たさに安らぎを覚えながら、自らの中に渦巻く黒い魔力を研ぎ澄ませた。
復讐の刃は、すでにカイルとリンの喉元に届いている。
明日、王都を照らすのは、救済の光ではない。すべてを灰にするまで止まらない、漆黒の業火なのだ。
窓の外では、さらに霧が深く、濃く、街を飲み込んでいった。
まるで、死神が広げる外套のように。




