第2話 監獄の死神と、狂った契約
最果ての地に聳え立つ「嘆きの塔」は、世界から見捨てられた亡者たちが最後に辿り着く、石造りの棺桶であった。
打ち寄せる荒波は岩礁を砕き、潮風は塩の刃となって、囚人たちの肌を容赦なく削り取る。ヴィオラが投げ込まれた独房は、湿った苔と腐敗した藁の臭気に満ちていた。
かつて公爵邸の天蓋付きベッドで、最上の絹に包まれていた令嬢の姿は、そこにはない。
右頬に刻まれた「罪人の烙印」は、今もなお、毒を孕んだ熱を持って彼女の肉を苛んでいる。
だが、肉体の苦痛以上に、ヴィオラを蝕んでいたのは、底知れぬ虚無であった。
「……誰も、来ないわね。当然かしら」
涸れ果てた声が、冷たい壁に虚しく吸い込まれる。
父の公爵は保身のために彼女を即座に勘当し、兄たちは汚物を見るような眼差しで背を向けた。
愛を誓ったはずのカイル王子は、今頃、あの聖女と偽る女と、薔薇色の夢に浸っていることだろう。
ヴィオラは、窓のない闇の中で、自らの細い指を見つめた。
魔力を奪われ、誇りを踏みにじられ、もはや死を待つだけの「抜け殻」。 その時である。
独房の隅で、影が蠢いた。
それは、闇よりもなお深い、絶対的な「無」の揺らぎ。
凍てつくような死の気配が、音もなく部屋を満たしていく。ヴィオラの首筋に、冷ややかな指先が触れたような錯覚が走り、彼女は思わず息を呑んだ。
「……誰?」
「死を希う乙女の呼び声に応えた、ただの亡霊さ」
闇を切り裂いて現れたのは、一人の男だった。 透き通るような白磁の肌に、月の雫を溶かし込んだような銀髪。
そして、その瞳は——。左右で色が異なる、不吉なるオドアイ。
右目は深淵を映す漆黒、左目は凍てついた冬の空を思わせる氷蒼。
その姿を見た瞬間、ヴィオラの脳裏に一つの名が浮かんだ。
数年前、王位継承争いの果てに処刑されたはずの、伝説の美貌の将——。
「死神公爵」エドワード・ド・ラ・ヴァリエール。
「貴方は……処刑されたはずの……」
「死神が死に絶えることなど、あり得ないのだよ、愛しいヴィオラ」
エドワードは優雅な所作で膝をつき、ヴィオラの前に跪いた。
その指先が、彼女の焼かれた頬を愛おしげになぞる。狂おしいほどの冷気が、傷の熱を奪っていく。
「醜く焼かれたものだ。だが、この傷跡こそが、君を完成させた。今の君は、どの宝石よりも美しく、どの毒薬よりも芳しい」
「私を……嘲笑いに来たの?」
「まさか。君の瞳に宿る、その烈火のような憎悪に、私は恋をしたのだ」
エドワードの薄い唇が、妖艶な弧を描く。
彼はヴィオラの顎を掬い上げ、至近距離でその異形の瞳を覗き込んだ。
「契約しよう。君の残りの寿命、そして死後の魂を、すべて私に捧げたまえ。引き換えに、君を奈落の底から引きずり出し、王都を焼き尽くすための『死の力』を授けよう」
それは、神への背信であり、人間であることを捨てる宣言。
だが、ヴィオラに迷いはなかった。
清廉に生きて裏切られたのなら、悪魔に魂を売り渡してでも、あの者たちに同じ絶望を味わわせてやりたい。
「……ええ。喜んで。この命も、魂も、貴方の好きになさって」
ヴィオラの答えを聞くと、エドワードは満足げに目を細め、彼女の唇に、氷のような冷たい接吻を落とした。
瞬間、ヴィオラの体内に、悍ましくも力強い黒の魔力が奔流となって流れ込む。 血管が焼き切れるような衝撃。視界が真紅に染まり、彼女の背中から漆黒の翼が広がる幻視が弾けた。
「あ、ああああああ……!」
絶叫と共に、ヴィオラの魔力回路が再構築されていく。それはかつての「聖なる光」ではなく、万物を朽ち果てさせる「死の闇」。
エドワードは彼女を抱き留め、その耳元で甘く、残酷に囁いた。
「さあ、始めようか。可憐な復讐者。君が望むなら、この国を灰の園に変えてあげよう」
月明かりさえ届かぬ監獄の奥底で、一人の令嬢が死に、一つの怪物が産声を上げた。
これが、後に王国を震撼させる「黒の災厄」の、真なる幕開けであった。




