第1話 絶望のパーティ・ナイト
水晶宮を思わせる大舞踏会の空気は、甘美なまでの毒を孕んでいた。
天井に連なる百のシャンデリアが放つ玲瓏たる輝きは、床に敷き詰められた最高級の瑠璃色のタイルに反射し、あたかも光の海に浮遊しているかのような錯覚を抱かせる。
だが、その光の海の中心で、ヴィオラ・ド・ラ・メール公爵令嬢が浴びていたのは、称賛の視線ではなく、鋭利な刃物にも似た冷酷な拒絶であった。
「ヴィオラ。貴女との婚約を破棄し、この場で罪を問う。貴女のような腐った魂を持つ女性は、わが王国の未来には不要だ」
第一王子カイルの声が、大理石の壁に反響し、音楽を止めた。
彼の傍らには、か弱い白百合を思わせる男爵令嬢リンが、今にも折れそうな風情で寄り添っている。
ヴィオラは立ち尽くしていた。
コルセットで締め上げられた胸の奥で、心臓が絶望の鐘を打ち鳴らしている。 彼女の脳裏には、数分前から異質な記憶が奔流となって流れ込んでいた。
——激務の末に命を落とした、前世の記憶。
——そして、ここが「乙女ゲーム」の世界であり、自分が破滅の運命を辿る「悪役令嬢」であるという残酷な真実。
「殿下、私は……私はそのような、リン様を毒殺しようなどという卑劣な真似は……」
ヴィオラが震える唇を開いた瞬間、カイルの瞳に宿ったのは、燃え盛るような嫌悪の炎だった。
「黙れ! 証拠は揃っている。貴女の嫉妬は、この麗しき学園の庭園を枯らす毒草そのものだ。その醜い心を、一生忘れぬよう刻んでやろう」
カイルが右手を掲げる。彼の指先に、魔術による紅蓮の火炎が凝縮された。
それは恋人たちを温める残り火ではなく、異端者を処刑するための審判の業火。
「やめて……やめてください、カイル様!」
ヴィオラの悲鳴は、嘲笑と冷笑の渦に飲み込まれて消えた。
カイルの手が、ヴィオラの陶磁器のように滑らかな頬を掴む。
次の瞬間、逃げ場のない熱が、彼女の皮膚を、肉を、そして誇りを焼き尽くした。
「あ、ああああああああああああああ!」
甘やかな薔薇の香りが漂っていた会場に、肉の焼ける悍ましい臭気が混じり込む。
ヴィオラの右頬には、罪人であることを示す呪印——「堕落した毒婦」を意味する禍々しい紋章が、赤黒い傷跡となって刻みつけられた。
崩れ落ちるヴィオラの視界の中で、カイルはリンの肩を抱き寄せ、勝利者の瞳で彼女を見下ろしている。 リンの瞳の奥に、一瞬だけ浮かんだ勝ち誇ったような、歪なまでの悦楽。
周囲の貴族たちは、まるで舞台上の悲劇を鑑賞するかのような優雅な仕草で、扇子を広げ、口元を隠して囁き合っている。
(ああ、なんて美しい地獄……)
痛みはいつしか、凍てつくような冷気へと変わっていた。
前世で、どれほど真面目に働いても報われず、使い捨ての歯車として死んでいった自分。
現世で、公爵令嬢として完璧な振る舞いを求められ、ただ愛されたいと願った末に、この仕打ち。
理不尽。その三文字が、ヴィオラの魂を黒く染め上げていく。
絶望の底で、彼女の意識は深い、深い、奈落へと堕ちていった。 その奈落の暗闇の中で、ヴィオラは「視た」。
この華やかな王都が、憎悪の火柱に包まれ、泣き叫ぶ人々の声が夜空を埋め尽くす光景を。
「……いいわ。すべて壊しましょう。この麗しき箱庭も、私を嘲笑った者たちも」
ヴィオラは意識が遠のく中、確かに笑った。
その顔は焼かれ、醜く歪んでいたが、その双眸だけは、魔性の輝きを放つ黒曜石のように澄み渡っていた。
「死神さま……。もしあなたが本当にこの世にいるのなら、私のこの命を……甘美な復讐の供物として捧げますわ」
彼女の祈りに応えるように、豪華絢爛な舞踏会場に、誰も気づかぬほど微かな、死の香りが漂い始めた。
それは葬送の列に添えられる、枯れ果てた百合の芳香。
これこそが、後に「血塗られた魔女」と呼ばれるヴィオラ・ド・ラ・メールが、この世界で最初に放った、呪いの産声であった。




