畜生道昇天レース
「プギー! プギィ―!」
「おらおら人間のクズどもが。もっと泣き叫ぶがいい」
鬼が俺を鞭で叩く。その痛みに耐えかねて俺は叫び声をあげた。最も、その声は人間のものではなく、豚の鳴き声だ。
ここは人間の死後に逝く六つあるという世界の一つ、畜生道。ここに導かれた者は姿を牛や馬などの畜生に変えられ、地獄の門番の象徴である鬼にただひたすら虐げられる。ここに来る者は多くが生前に罪を犯した者だと聞く。しかし、俺は何かの手違いでここに堕とされた。俺は生前、犯罪などしていない。真面目な青年だった。俺は天界道に逝けるはずだった。なのに、どうしてこうなってしまったのか……
今はこの姿に慣れてしまったが、ここに連れて来られた時のあの気味悪い変身を今でも生々しく覚えている。ゴキバキと生々しい音を立てながら、俺の体が変化していくのだ。この苦痛を理解できる人は少ないだろう。体全体が膨張し始め、足が縮むと同時に地面に手を突くと、二度と立ち上がれないようにそれぞれの指先がすべて癒合し、黒くて固い蹄に変化する。鼻の穴が開き大きくなると顔全体が前方へ引っ張られる。髪の毛が抜け落ちるのと同時に耳が頭の頂点に移動する。気持ち程度にしっぽが生やされ、体全体が薄いピンク色に染まる。口からヨダレが止まらず、常に空腹感を覚えてしまう。この変身に耐えきれなかった者は自我が崩壊し、ただの畜生になり果てるという。俺は何とか自我を持って耐え抜くことができた。しかし、人間の意識を持ったまま豚の姿に変えられ、鬼に虐げられる毎日は屈辱以外の何物でもなかった。
ある時、畜生道全体に通達がやってきた。
「人間のクズども喜べ。閻魔大王様の気紛れで〝昇天レース〟が開催されることになった。このレースを勝ち抜いた者はすべての罪が浄化され、天界道に逝く資格を得ることができる。どんな手を使ってもゴールに辿り着くことができればいい。開催は三日後だ」
唐突な鬼の説明に俺は困惑した。しかし、これはチャンスだ。この屈辱の日々から抜け出すことができる。遠い昔に忘れてしまった期待という感情を俺は久々に思い出した。
〝昇天レース〟開催前、自我の残っている畜生達は皆、生前の姿に戻された。普段、畜生に変えられた姿しか見たことがなかったから、生前の姿になると、老若男女様々な人間がいることを初めて知った。話が通じるようになって、このレースのことを聞くと、これは数百年に一回開催される畜生道の〝救い〟なのだそうだ。この機を逃しては次にいつ開かれるのかはわからない。絶対に勝ち抜いてみせる。生前俺は、心身ともに極限にまで鍛え抜かれた自衛隊の一人だった。人間の姿に戻ると様々な思い出が鮮明によみがえる。懐かしい思い出達……しかし、俺はどうして死んだのか。ここに堕とされたのかについては思い出せなかった。
〝昇天レース〟は六道の中で最も苦しみのある世界・地獄道で行われることになった。この地獄道の端から端までを脱落することなく走り抜けられれば、天界道までの道が開かれる。しかし、脱落した者は再び畜生に姿を変えられ、あの屈辱の日々を延々と強いられる。死者はどんなに過酷な状況下に於いても死ぬことはない。脱落とは精神的な死の方だ。どんなに苦しくてもつらくても心だけは折れないようにしなければならない。
畜生道に堕とされた魂達が揃ったところで、いよいよ〝昇天レース〟が開催された。魂達は一斉に走り出す。この時、遠い昔に畜生道に堕とされた者は特殊な力を身に付けていることがある。古株は自らの堕とされた姿に変身し、他者の先を行く。
「くそっ、馬か……俺も豚じゃなく馬だったらよかったのに」
俺は先を行く魂を恨めしく思いながらも他者と混じって走っていく。
最初の障害は炎熱地獄だった。自分より高く燃え盛る火柱の中を通らねばならない。俺は心を強く持ち、火の中に飛び込んだ。業火の中ですぐに体は焼けただれ、灰となる。しかし、次の瞬間にはすぐに再生し、再び火に焼かれる苦痛を強いられる。地獄道に堕とされた者は死ねない体で同じ苦痛を延々と受け、自らの苦しみを償いに変えていくという。俺は燃え盛る自分の体を必死に前へ前へと進め、この地獄を乗り切った。俺がこの地獄を抜け出した時点で、すでに半分以上が脱落していた……
次の障害は紅蓮地獄だった。紅蓮という名は熱いものを連想させるが、ここでいう紅蓮とはあまりの寒さに皮膚が裂けて流血し、その流血痕が紅色の蓮の花に似るというところからきている。さっきとは真逆の苦しみだった。凍てついた大地の上を裸足で歩いて行く。体が痺れ、動けなくなる。完全に動けなくなったら終わりだ。俺は必死に前へ前へと足を踏み出す。しかし、皮膚が氷に張り付いて動くこともままならない。これならまだ豚のままの方がよかった。蹄だったら氷に張り付くこともなかっただろう。意識が遠退いていく。俺はここで脱落してしまうのか……そう思った時だった。足の指先が突然一つに癒合して固くなり、豚の蹄となった。
「!」
みるみるうちに下半身が豚になった。どうやら俺にも変身能力が備わったみたいだ。
「いける!」
俺は蹄を氷の上で滑らせて紅蓮地獄を乗り越えた――
それから、俺は変身能力を上手く駆使し、針の山を越え、血の海を泳ぎ……様々な苦痛を耐え、ゴール目前まで辿り着いた。ここまで辿りつけた者はほんの一握りだった。
ゴールの前には鬼がいた。しかし、その前に等身大の鏡が立ってある。先に辿り着いた者達はその鏡の前で、ある者は懺悔し、泣き喚き、放心し……様々な苦痛の表情を浮かべていた。
「お前も鏡の前に立て」
鬼の指示で俺も鏡の前に立った。これまでの地獄と雰囲気が違う。これから一体何が行われるのか……
鏡の前に立つと周りの景色が歪み、生前の光景が現れた。俺はその光景を第三者として見つめている。
それは今際の際の光景だった。
――俺は銃撃訓練中、突然狂い出して乱射し、近くにいた数名の仲間の命を奪った。
「おい……何してるんだよ!」
仲間の一人が怒りに震えながら俺に向かって銃を向ける。
「何って? 訓練だよ。実際に人を撃つとどうなのるか知っておきたかったんだ」
俺は冷血に答えた。
「この……っ、バカ野郎っっ!」
仲間は俺に向けて銃を発砲し、それは俺の眉間を貫通した――
「嘘だ……何だよ、これ……」
記憶に無い光景。これが自分の死んだ瞬間だというのか? 俺は真面目な人間ではなかったのか? 俺は最期の光景が目に焼き付いて離れず、鏡の前から動くことができなくなった。嗚咽が溢れ出る。あの時、俺はどうしてあんなことを……
その時、目の前に俺が殺した仲間達が現れた。
「俺達には大切な人達がいた。いくらお前が二重人格者であっても昇天は許さない」
「俺は二重人格者だったのか? あ……あぁ……許してくれ……許してくれぇ……」
俺は逃げるようにゴールの方に走り出した。しかし、殺した仲間達が俺の体を覆い、俺の姿を変えてゆく。
「嫌だぁ……許し……ぐぴぃー……プギィー!!!」
真実を知り、心が折れた俺は畜生に姿を変えられ、ゴール目前で畜生道に戻された――
「プギー! プギィ―!」
そして、俺はまた豚として鬼に虐げられている。後から思うに、最後のあれは罠だったのではないかと思う。俺は自分との勝負に敗れた。次のレースまで、果たして人としての自我を維持できるだろうか……