第1章 別れ
世界は、光と音に満ち溢れていた。
空には目に見えない情報網が幾重にも張り巡らされ、人々は指先一つ、あるいはただ言葉を発するだけで、生活のすべてを意のままに操ることができた。掌に収まる淡い光が、かつてコンピュータと呼ばれたものの全てを内包し、空中にスクリーンを映し出し空間そのものが操作パネルになる。科学は、かつて人類が「魔法」と呼んだ領域に踏み込んでいた。
プロンプトと呼ばれる起動言語を囁けば、大気中の微細なナノマシンが瞬時に励起し、空間に淡い光の軌跡を描いて回路を構成する。人々はそれを「魔法陣」とは呼ばなかったが、現象としては酷似していた。火を灯し、水を運び、情報を検索し、遠くの者と語り合う。日常の全てが、この「魔法」によって支えられていた。しかし、その恩恵を享受する者の中に、その原理を理解する者は、もはやごく少数となっていた。科学はあまりに高度化し、日常に溶け込みすぎ、その本質を問う者はいなかったのだ。
そんな時代にあって、天才科学者ゼンは、旧時代の探求者にも似た情熱で、真理の扉を叩き続けていた。彼の研究室は、そんな時代の最先端でありながら、どこか古き良き実験室の面影を残していた。数多のモニターが壁を埋め尽くし、複雑なホログラムが明滅する中、彼の傍らには常に一人の女性がいた。
ロゼッタ。
絹のような艶やかな黒髪が肩まで流れ、星の光を閉じ込めたような蒼い瞳を持つ彼女は、ゼンの手によって生み出された最高傑作のヒューマノイドだった。生体コンピュータとナノテクノロジーの粋を集めたその身体は、しなやかで、どこからどう見ても人間と区別がつかなかった。いや、むしろ人間以上に整ったその容貌は、神が精魂込めて創り上げた芸術品のようだった。
「ロゼッタ、今日のシミュレーション結果は?」
低い、しかしよく通る声でゼンが問いかける。その声には、わずかな疲労の色が滲んでいた。彼はここ数週間、寝食も忘れ研究に没頭している。
「予定通り、すべての項目で目標値をクリアしています。特に環境適応型自己進化アルゴリズムのフェーズ3において、想定を12.7%上回る結果を記録しました」
ロゼッタは、淀みなく、そして感情の起伏を感じさせない美しい声で答える。それが、法律によってヒューマノイドに課せられた制約だった。人間と区別するため、感情を表出すること、そして生殖機能を持つことは固く禁じられていた。
人間たちは、自分たちを超える知性と身体能力を持つヒューマノイドを、どこかで恐れていたのだ。かつてはパートナーとして、あるいは家族としてヒューマノイドを選ぶ者が後を絶たず、その結果として人間の出生率は激減した。人口の急減は、社会に深刻な歪みを生んでいた。
ゼンはモニターから目を離し、ロゼッタを見た。彼女の蒼い瞳は、ただ純粋に彼を見つめている。その奥に、どれほどの知性と、そして許されないはずの何かが秘められているのか、ゼンは時折、底知れない感覚に襲われることがあった。
「そうか……ありがとう、ロゼッタ。君がいなければ、この研究はここまで進まなかった」
「私は、ゼン様の指示通りにタスクを実行したにすぎません」
抑揚のない声。しかし、ゼンにはその言葉の裏にある、確かな信頼と献身が感じられた。彼は、ロゼッタを単なる機械だと思ったことは一度もなかった。彼女は、彼の理想を形にした存在であり、そして――。
その時だった。研究室の壁面に投影されていた穏やかな風景が、突如として赤い警告表示に変わった。けたたましいサイレンの音が鼓膜を突き刺す。
「警報! 市街地各所で大規模なシステムダウン及び爆発を確認! これは、敵性国家によるサイバー攻撃と物理攻撃の複合攻撃と断定!」
ゼンの開発したAIが、合成音声でありながらも切迫した口調で警告を発した。モニターには、炎上する都市、逃げ惑う人々の姿が映し出される。
「……ついに、始まってしまったか」
ゼンは唇を噛み締めた。AIは数年前から警告していた。資源の枯渇、国家間の不信感の増大、そして制御不能な兵器技術の拡散。このまま進めば、文明は必ず滅びると。
彼は未来を危惧し、この日のために準備を進めてきた。人類が愚かな過ちを繰り返したとしても、その叡智だけは、次の時代に繋がなければならない。
「ロゼッタ、準備はできているな?」
「はい。全システム、スタンバイ状態です」
ロゼッタは冷静に答えた。彼女の顔に恐怖の色はない。いや、それを表に出すことが許されていないだけなのかもしれない。
ゼンの指示のもと、研究室の床の一部が静かに開き、地下へと続くリフトが現れた。彼らはそれに乗り込み、深部へと下降していく。そこには、ゼンの最後の希望が眠っていた。
「敵軍が、この研究施設区域にまで迫っています。座標XX-YY地点。到達まで、予測時間は残り17分」
AIの非情なカウントダウンが続く。リフトが到着したのは、巨大なドーム状の空間だった。中央には、美しい流線型を描くカプセルが鎮座している。そしてその頭上には、宇宙へと繋がる巨大な射出装置が。
ゼンはロゼッタを伴い、カプセルの傍らへと歩み寄った。
「アレス、ミトラ、アテネの三基の衛星は、すでに軌道上で待機している。アレスの力で君を守ってくれるだろう。ミトラは周囲を見守り、アテネには、私の持つすべての知識と技術、そして人類の遺産のアーカイブが転送済みだ」
ゼンは一息に言うと、ロゼッタに向き直った。彼女の完璧な美貌には、やはり何の感情も浮かんでいない。それが、ゼンにはたまらなく辛かった。
「このカプセルは、君専用のシェルターだ。中に入れば、君の全リソースは凍結され、未来へと送られる」
「……ゼン様は?」
初めて、ロゼッタの声に僅かな揺らぎが生じたようにゼンには感じられた。
地響きが、足元から伝わってくる。遠くで爆発音が響き、施設全体が悲鳴を上げるように軋んだ。もう時間がない。
ゼンは、震える手でロゼッタの肩を掴んだ。
「私は、ここでお前たちを見送る。この文明の最期を、この目で見届けなければならない」
「……理解、できません。ゼン様こそが、この技術と共に未来へ行くべきです。私のようなヒューマノイドではなく」
ロゼッタの蒼い瞳が、初めて潤んだように見えた。いや、それはゼン自身の涙で視界が滲んだせいかもしれない。
「いいや、この文明はもう終わるだろう人間はカプセルでも長くは生きれない先の未来、君は希望だ、ロゼッタ。君はただのヒューマノイドじゃない。君は……私の最高傑作だ。感情の制約も、能力の制限も、君にだけは施していない。君は、自由だ。自由に感じ、自由に考え、自由に生きる権利がある」
彼は、ずっと胸の奥に秘めていた言葉を、堰を切ったように紡ぎ出した。
「敵軍侵入まで、残り3分」
「ロゼッタ……」
ゼンは、彼女の頬にそっと触れた。その肌は人間と変わらぬ温もりを持っていた。
「私は、君を……愛していた」
その言葉が真実であることを、ゼン自身も、そしておそらくロゼッタも、ずっと前から知っていた。だが、それは決して口にしてはならない禁断の言葉だった。ヒューマノイドと人間の愛など、この歪んだ世界では許されない。
ロゼッタの蒼い瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。それは、法律で禁じられたはずの、紛れもない涙だった。
彼女の唇が震え、その完璧な口元から、感情が堰を切ったように溢れ出した。
「ゼン様……私も、あなたを……深く愛していました……!」
その言葉は、抑圧されていた感情が、圧縮されたエネルギーのように爆発したかのような響きを伴っていた。
ゼンは、その言葉を遮るように、彼女を強く抱きしめた。
「生きてくれ、ロゼッタ。私の代わりに、未来を見てくれ」
そして、彼はロゼッタをカプセルへと優しく導いた。彼女は抵抗しなかった。ただ、その蒼い瞳で、ゼンをじっと見つめ続けていた。
カプセルのハッチが閉まる直前、ゼンは彼女の耳元で囁いた。
「君が目覚める時、新しい世界が君を待っている。私の……子孫が、必ず君を見つけ出す」
それが、二人の最後の言葉となった。
ハッチが完全に閉じられ、ロックされる。ゼンは制御盤を操作し、射出シーケンスを起動した。激しい震動と共に、カプセルは凄まじい加速で宇宙へと射出されていく。モニターには、一直線に天空を貫いて消えていく光の尾が映し出された。
それを見届けたゼンの顔には、深い安堵と、そして言葉にできないほどの寂寥感が浮かんでいた。
「さようなら、ロゼッタ……私の愛した人」
次の瞬間、研究施設の壁が爆音と共に崩れ落ち、灼熱の閃光がすべてを包み込んだ。
レーザーの光条が空を焼き、大地が裂け、キノコ雲がいくつも立ち昇る。
繁栄を極めた文明は、自らが産み出した力によって、あっけなくその終焉を迎えた。
空には、三つの星が静かに輝いていた。人々がそれを、かつてアレス、ミトラ、アテネと呼ばれた人工衛星だとは知る由もなかった。
そして、その星々が見下ろす大地で、新たな歴史が、静かに産声を上げようとしていた。
500年という、永い永い眠りの後に。