メロディー
「さ、あがって」
「お邪魔します」
電車に乗って数駅。
閑静な住宅街の一軒家にあった和久井さんの家に、僕はお邪魔していた。
「どうぞ」
「あ、どうも」
和久井さんが出してくれたスリッパに履き替えながら、僕は辺りをキョロキョロと見回した。
都内。三階立ての一軒家。まだ廊下だけしか見ていないが、全体的に掃除は行き届いているように見えた。
「あんまりジロジロ見ないでよ」
「仕方ないだろ。同級生の家にお邪魔する機会なんて、これまで一度もなかったんだから」
「なあに? じゃああたし、青山君の初めてをもらっちゃったってこと?」
「うん。まあね」
和久井さんは絶句していた。理由はよくわからない。
「と、とりあえず、防音室行こうか」
「あ、うん」
「むー……」
僕が頷いたら、和久井さんは面白くなさそうに唇を尖らせていた。
「青山君、ここ、驚くところだから」
「何が?」
「普通、家に防音室なんてないからね」
「ウチにはあるよ?」
「そうだよね。八歳から歌手活動してたら、世間知らずにもなるよね」
「ち、違うっ! ウチの場合は……母さんが結構有名な、ボイスレッスンの先生だったからだよ」
そもそも僕が歌手デビューなどしなくても、我が家はある程度裕福だったのだ。
「へえ、じゃあ青山君の声もお母さん譲り?」
「まあね」
そう。
僕の歌声は、ボイスレッスンの先生をしていた母と僕とで、二人で築き上げたもの……だった。
「それより、さっさと歌ってしまおう。あんまり帰りが遅くなると、父さんが心配する」
「お母さんは?」
「……行こう」
和久井さんは訝しげに僕を見た後、諦めて防音室に僕を案内してくれた。
明かりをつけると、真っ先に目に入ったのはグランドピアノ。真上から鍵盤が望めるようにカメラも隣に設置されていた。
他にも、三脚や集音マイクなんかも置かれている。
「ここが君の動画撮影場所?」
「うん」
和久井さんはグランドピアノの傍にまで近寄り、カメラの操作を始めた。
「すぐ準備するから」
「……ちょっと待って」
「どうしたの?」
「何を歌うの?」
コラボをしようと提案してきた割に、ここまで彼女は、僕にどの曲を歌うか教えてくれていなかった。
「君の1stシングルを歌おう」
ただ、聞いて後悔した。
まさか……その曲をチョイスしてくるだなんて。
「……嫌?」
「嫌だね。当然だろ。声変わりで夢を絶たれたこの僕に、声変わり前に一番売れた曲を歌えって言っているんだぞ?」
「じゃあ、キー下げよう」
「そういう問題じゃない。……いや、わかった」
どうせ、こうなった彼女は譲らない。
それに諦めがつくじゃないか。
前までは上手く歌えていたあの曲を歌えなくなっていれば……僕も。彼女も、諦めがつくじゃないか。
「よし、出来た」
和久井さんはコンデンサーマイクをスタンドに刺して、僕の前に置いた。
「これに歌って」
手短に告げて、和久井さんはピアノ椅子に腰を下ろした。
そして……一息ついて、彼女はピアノを弾き始めた。
僕も大きく息を吸って、歌い始めた。
……ふいに思った。
中々ない体験だ。
これ程の奏者に伴奏を弾いてもらいながら歌を歌えることは。
少しだけ……。
ほんの少しだけワクワクした。
でも、すぐに現実に引き戻された。
高い……っ!
声変わり前は当たり前に出せた音が、今の僕には高くて……思わず顔を歪めたのだ。
昔から機会がある度に歌ってきた曲のはずなのに。
慣れ親しんだ4分50秒の曲が、今の僕にはまるで赤の他人のようだった。
「はぁはぁ」
歌い終えた時、僕は疲労のあまり肩で息をしていた。
今の音、マイクに乗ってしまっただろうか……?
「嘘つき」
演奏後、わずかな余韻を置いて……。
「青山君の嘘つき」
和久井さんは僕を断罪した。
「……今の僕の歌が、君には上手く聞こえたのかい?」
冗談はよしてくれ。
こんなの……。
この程度の歌唱で、過度な評価を下さないでくれ。
虚しくなるだけだから。
「そうじゃないっ!」
和久井さんは叫んだ。
怒りのままに、叫んだ。
「練習してるでしょ!」
「……」
「まだ、歌の練習しているでしょ!」
「……してない」
「嘘よ!」
和久井さんが立ち上がった拍子に、彼女が座っていた椅子がバランスを崩して倒れた。
ドーンと大きな音が鳴ったが、和久井さんがその音に気を取られることはなかった。
それほどまでに、彼女は今、怒っていた。
「本当だよ、練習はもうしていない」
「だったら、なんでファルセット(裏声)が前より安定しているの!?」
……僕は、思わず唇をかみ締めていた。
「嘘つき!」
顔を上げることが出来なかった。
「さっきは散々、歌うことは諦めたみたいなことを言っていた癖に!」
彼女の怒りに。
「歌うことに未練はないみたいな態度でいた癖に!」
図星な部分に触れられたことに……。
「……素直に言ってよ。まだ歌っていたいって。まだ未練があるって」
僕は、俯いていることしか出来なかった。
和久井さんはそれ以降、言葉をくれなかった。
恐らく、僕の返事を待っていた。
僕は考えた。
この場をどう言って誤魔化すか。
この期に及んで言い訳を考えていた。
……よし。
覚悟を決めて、僕はゆっくりと顔を上げた。
そして、言葉を失った。
「なんで君が歌を諦めないといけないのよぅ……」
和久井さんは泣いていた。
……素直にならない僕なんかのせいで、泣いてしまったのだ。
「……嘘、じゃない」
「……嘘言わないで」
「嘘じゃない」
「……」
「練習は、もうしていない。最後に練習したのは半年前。事務所の退所直前までだ」
……言いたくなかったのに、言ってしまった。
ただ、話し始めた途端、ずっと重く圧し掛かっていた肩の重みが取れたような気がした。
「……事務所の退所は、自分で選んだ」
そのせいか、僕の口は止まらなかった。
「僕の歌をずっと聞いてくれていた母さんが自殺したんだ」
「……え」
「変声期を迎えた時、母さんは僕に道を示してくれた。手術すれば、変声期を遅らせることが出来るかもしれないって」
喉仏が出てきて、上手く歌が歌えなくなった日のことは……今でもはっきりと思い出せる。
あの時から、僕の人生はずっと……。
「母さんは僕に判断を委ねたよ。手術したいのか、どうなのか」
当時の僕は……手術に対して、良いイメージは持っていなかった。
「簡単な手術ではないらしい。健康被害を及ぼすケースもあるらしい」
母も、手術すれば今の問題は絶対に解決するとは言い切らなかったし、僕は痛いのが嫌いだった。
「迷いはなかった。僕は手術したいと嘆願した」
でも、あの時の僕は、変声期が遅れるならば……手術に対する恐れなんて一切なかった。
「……でも、僕は最終的に手術をしなかった」
声変わりを終えた……声変わり前より凛々しく、暗く、薄汚れた声で、僕は言った。
「丁度さ、週刊誌の取材があったんだよ。そこで記者は、僕に声変わりについて尋ねてきた。少年歌手にそういう話を聞くのは、別に珍しいことじゃないらしい」
感覚的には……子役がバラエティ番組に出た時に、大きくなったね、だとか、あのドラマからもうそんなに時間が経つのか、とかを言われるのと近いそうだ。
「ともかく、声変わりについて尋ねられた僕は、嬉々として答えたよ。手術をしますって」
「……それで?」
「僕のそのコメントに、週刊誌を買った評論家がSNSで噛み付いてきたんだ」
「……」
「あっという間に炎上したよ。叩かれたのは母さんだった。僕ではなく、母さんだった……っ」
今でも、あの当時のことは思い出せる。
「声変わりは人間の成長過程で当然起こることだろって。それを親の立場から止めないだなんて、人権侵害甚だしい。子供にそんな難しい判断を委ねること自体育児放棄だ。そんなことをたくさん……毎日のように言われていた」
僕はあざ笑うように言った。
「世論が味方しない以上、曲の不買運動にも繋がる可能性があるから、僕はもう手術をするわけにはいかなくなった。そして、声変わりが安定するまでの休止期間を挟んで次のシングル。売り上げは一気に落ちた。次もその次も……僕の曲は全然売れなくなった」
当時の僕を、あざ笑うように言ったのだ。
「そして、シングルが売れなければ売れない程、母さんは落ち込んでいった」
僕は俯いた。
「……あの日は、傘を差してもズボンが濡れるくらいの大雨の日だった。土砂降りで学校から帰ってきて、参ったなと思って、リビングにいるだろう母さんに言ったんだ。タオル頂戴って。返事はなかった。おかしいなと思ってリビングを覗いたら、そこに母さんはいなかった。いたのは風呂場」
真っ赤に染まった浴槽。
真っ青な母さん。
僕は、呆然と立ち尽くしていることしか出来なかった。
「事務所には慰留もされたけど、僕は表舞台から去ることを決めた。母さんを失って、父さんも辛そうで……だから、これからは普通の人生を歩んでいこうと決めたんだ」
だから……。
だから僕は……和久井さんとのコラボを頑として拒んだ。
父さんに気苦労をかけないようにと立ち振る舞った。
僕の正体を……隠したいと思った。
もう、誰にも見つけてほしくなかった。
僕のことを、誰にも見つけ出さないでほしかった。
忘れ去ってほしかった……。
そうなるべきだと思ったんだ。
皆のためにも……。
「嘘つき」
和久井さんの声は、冷たかった。
「嘘つき。嘘つき……」
だけど、優しかった。
「嘘なんて……」
「嘘だよ。だって今の青山君の台詞、全部他人のためを思っているだけじゃない」
母を失った責任を感じて。
父をこれ以上気苦労させないように。
……確かに、和久井さんの言う通りだった。
「自分はどうしたいのよ」
「……自分は」
「青山君は……。青山君の本心はどうなのよ」
「僕の……」
僕の……本心は。
……事務所を退所すると決めた時から。
いいや、もっと前……。それこそ、そう。声変わりが始まった時から。声変わりがこれから始まる、と認識した頃から……。
多分、ずっと同じだ。
自分で決めた道を真っ直ぐ歩んで失敗したのなら、多分僕は納得出来た。
手術して、声変わりを遅らせて……それでも売り上げが減ったのなら、きっと僕は納得して次へ進めた。
でも今、僕は立ち止まっている。
あの日から……。
母を失った日ではない。
『純、手術は……ごめんね。出来ない』
世論の圧力で声変わりを遅らせる手術が出来ないと決まったあの日から……僕はずっと立ち止まっている。
……許せなかった。
僕の進路を、他人の分際で邪魔してきた連中が。
僕の人生の邪魔をしてきた癖に、僕の人生の責任を誰も取ってくれないことが……っ!
そんな奴らが、僕の母の命を奪ったことがっ!!!
……許せなかった。
許せないのに。
『なんで声変わりしなくなる手術受けなかったの? 今の声に魅力皆無』
あいつらは未だに、無責任な発言を続けている……。
あいつらに僕は……未だに軽んじられたままだ。
「青山君」
戸惑う和久井さんを見て、僕は気付いた。
「許せない……」
僕は今、泣いていた。
「許せるはずないじゃないか」
悔しくて泣いていた。
「認めさせたい」
拳を固く握った。
「見返してやりたい……っ!」
血が滴るくらい、固く握った。
「あいつらに僕の今の歌声を聞かせてやりたい! 聞かせて、上手いって! 俺の目が狂ってたって、証明させてやりたい……!」
……母さんが死ぬまで、いくら曲が売れなくなっても練習を続けていた意味。
あの時は漠然としていたけど、今ならわかる。
あの時僕は……また、皆を認めさせたかったんだ。
だから、声変わりをする前以上に練習に打ち込んだんだ。
「証明しようよ」
和久井さんが言った。
「……ねえ、青山君?」
和久井さんは……涙で腫れた目で、微笑んだ。
そして、僕の背中を押してマイクの前に立たせた。
「もう一回歌って」
和久井さんは椅子に座った。
「今の気持ちを全て乗せて……もう一回歌って」
「でも……今の声は、泣いたせいで」
叫んだこと。
泣いたこと。
嗚咽や喉の違和感など、状態はすこぶる悪かった。こんな状態で歌ったことなど、これまで一度もありはしない。
「でも、きっと今なら……色んな気持ちが聞こえてくる」
「……色んな」
「あたしは、あなたのその気持ちと一緒にピアノを弾きたい」
声変わりを迎える前の僕の歌は。
幼心に、色んな気持ちを。表現を……稚拙ながら、未熟ながら。
たくさん乗せて、歌を歌っていた気がする。
「行くよ」
和久井さんが、ピアノを奏で始めた。
慣れ親しんだ僕の1stシングル。
聞き馴染んだメロディー。
あの時より少し低いキー。
目を閉じると、色んな景色が蘇る。
僕は大きく息を吸った。
* * *
翌朝、寝不足気味の僕は大あくびをかましながらいつもより遅い時間に学校に登校していた。
昨晩は結局、あの後和久井さんの言う通りにもう一回だけ曲を歌い、その後家に帰宅した。家に着いた時間は十時くらいだった。
学校に着いて、教室に近い廊下に差し掛かると、既に教室はガヤガヤと騒がしかった。
「昨日の動画聞いたよー、和久井ちゃん!」
教室。
和久井さんの席の周りにはたくさんの人が集まっていた。
この光景、これまでも何度か見たことがある。
これはそう……和久井さんが動画を投稿した翌日によく見る現象。
一昔前の学生が前夜に見たドラマの感想を友達間で言い合うように、このクラスの人間は和久井さんの動画の感想を教室で言い合うのだ。
「あの歌、懐かしかったねー!」
「ねー!」
……和久井さん、あの後すぐに僕とのコラボ動画投稿したのか。
「結局、顔出ししてなかったもんね。中々異質なコラボ動画だった」
「あはは。そうかもね」
和久井さんの楽しそうな声が聞こえた。
「ねー、で動画聞いた感想だけどさ……」
少し、僕の心臓が早くなった。
今の僕の声を……。
歌声を……。
また、酷評されるかもしれないと思ったから。
酷評されたらどうしよう……。
立ち直れる自信はない。
そもそも和久井さん、どうして僕の顔出しはしないでくれたのだろう……?
確かに昨日は、顔出しNGを条件にコラボ動画の撮影を承諾したけれど……流れ的に、その条件も流れたと思えなくもないし。
であれば……。
もしかしたら、僕の歌声が思ったより酷かったから顔出しさせないでくれたのかも……?
……教室、出ていよう。
しかし、僕の逃亡は間に合わず……。
「すっごい良かった!」
結果、聞こえてきたのは……。
「ね。和久井ちゃんの演奏も相変わらずだけど、歌ってた人もめっちゃ上手かった!」
「わかる。あたしちょっと泣いちゃったもん……」
「ねー。動画の高評価も凄い伸び方してるよね!」
……酷評されると思っていたからか、喜びよりは安堵の方が大きかった。
「最近の動画で、一番再生数を稼いでくれてるよ」
和久井さんが補足してくれた。
「やっぱりー。すっごいいいコラボだったもん!」
「ありがとう。彼も喜んでくれていると思う」
……ま、まあ。
叩かれるよりは、褒められた方が嬉しいよ。当然じゃないか。
「で、コラボ相手は誰だったの?」
うっ……。
「それは内緒」
クラスメイト達は、えー、と嘆いた。
「今後明かすかどうかは……彼の意思次第かな」
「恥ずかしがり屋な人なんだね。ちょっとかわいいかも」
「あはは。そうかもねっ」
「……そういえば」
チラリ、と和久井さんの席の方を見ると、女子の一人と目があって、僕はサッと前を向きなおした。
「昨日、和久井さん。……青山君にコラボしよって言ってたっけ」
「え? ……冗談だと思ってたけど。……え? えぇ?」
「……」
「……」
「まっさかー」
「ね。ねー」
鼻歌交じりに、僕は朝のショートホームルームが始まるのを待った。
1章完結です。
ただただ王道なシンデレラストーリーを書きたいなと思って書き始めたのだが、
無責任な誹謗中傷はやめようね。みたいな大義名分を掲げて書いている風になってしまった。
声変わりの件は実際にあるかは知らないが、昨今のSNS文化とか見てるとありそうな話だと思って書きました。
まあこっからはそんな重い話はなくなると思う。
リテイクしまくったらストックがなくなったことを除けば、今後の展望は明るい。真っ白すぎて何も見えないもん。
評価、ブクマ、感想よろしくお願いします!!!