第一幕:サン・ラザール伯爵家専用席①
序曲が終わり、幕が上がる。
最初は、侯爵家の邸宅の場面だ。
主役のマリア・リーリアとその夫役のバリトンが出てきて、歌い始めた。
舞踏会に夫婦ででかける直前、もっと大人しいドレスを着ろという堅物の夫と、このくらい普通でしょと突っぱねる妻のやりとりがコミカルに続く。
サン・ラザール伯爵家の席の最前列に陣取ったサン・ラザール公爵令嬢カタリナは、螺鈿細工をほどこした華奢なオペラグラスを取り出すと、すっと目元にあてがった。
向けるのは、贅を凝らした舞台ではない。
ほぼ真正面に見える、ノアルスイユ家専用席だ。
一番舞台が見やすい、その分他の席から姿を確認しやすいところにジュリエット。
ピンクブロンドの髪をハーフアップにし、毛先はきっちり巻いて、明るい黄色のドレスを着ている。
小さめのパフスリーブが初々しい。
わかりやすい愛らしさに、カタリナは思わず鼻で笑ってしまった。
その隣は、銀髪に眼鏡をかけたノアルスイユ。
アルフォンスの幼馴染で、父は当代の宰相。
今は、王立大学で法律の勉強をしている。
眼鏡を押し上げながら、ノアルスイユがこちらを見るが、カタリナは動じない。
ジュリエットの後ろには、赤毛のサン・フォン。
これもアルフォンスの幼馴染で騎士団長の三男。
去年、騎士団に入った。
大柄で、顔立ちもいかついが、気の良い好男子として社交界では知られている。
そしてアルフォンスは、向かいのこの席からでなければほぼ見えない、一段上がった奥に、所在なさげに座っていた。
意味がわからない。
ジュリエットを恋人のように扱い、カタリナとジュスティーヌに揺さぶりをかけたいのなら、堂々と並んで座るべきだろう。
「……ほんっと肝っ玉が小さいわね。
結局、なにがしたいのよ」
毒づきながらオペラグラスを外すカタリナに、サン・ラザール伯爵の三男、オーギュストがふふっと笑みを漏らす。
オーギュストはカタリナの父方の従兄弟で、3歳年上。
大学を卒業して一応宮廷庁に籍を置いているものの、ふらふらしている遊び人だ。
たくさんいる従兄弟達の中でもなかなかの美形な上、あまり煩いことを言わないので、カタリナはオーギュストとつるんでいることが多い。
今日も、アルフォンスがお忍びで観劇するらしいと聞きつけたオーギュストが、面白半分に誘ってくれたのだ。
「なんだかんだで、君は殿下に執着しているよね」
「バカ言わないで。
あんな、ぐっだぐだにもじもじしてるだけの、優柔不断でどうしようもない男。
王太子でなければ、とっくに見捨ててるわ」
「『でも、顔はいい』、だろう?」
オーギュストに口癖を先回りされて、カタリナは黙り込んだ。
王妃は大陸一の美姫と謳われた隣国の王女。
その王妃に、アルフォンスはそっくりなのだ。
成長するにつれて、身体つきにも顔つきにも男性らしさが出て、女性と見間違えられることはないが、女顔系の貴公子で、アルフォンスより美しい男は見たことがない。
しかも、ぐだぐだもじもじでも王太子であり、自分とジュスティーヌが絡まないことであればそこそこ優秀だ。
自分大好き、贅沢も大大大好きなカタリナとしては、王太子妃の座は非常に魅力的だ。
王太子妃になれば、あの美しい顔を愛でながら、ちやほやされまくりの人生を送ることができる。
とはいえ──
アルフォンスが自分に向ける表情は、あくまで気心の知れた女友達に向けるものだ。
ジュスティーヌに向ける表情は違う。
甘く、時にせつない視線を見れば、アルフォンスがジュスティーヌを愛おしんでいることを見て取るのはたやすい。
カタリナとしては、自分にもワンチャンなくもないが、結局ジュスティーヌになるのだろうとは踏んでいる。
「いい加減、退いてやればいいのに」
「厭よ。
そんなことをしたら、わたくしがジュスティーヌに降参したように見えるじゃないの。
それに例の『沼の貴公子』が、落ちそうで落ちなくて、もうちょっとで落ちそうだし……」
「まだそんなことを」
オーギュストが呆れる。
「沼の貴公子」というのは、王太子妃教育で土木工学を担当している王立大学の講師だ。
瓶底眼鏡をかけている上に、癖のある黒髪がもっさもっさで、普段はほとんど鼻先しか見えない。
専門分野は沼沢地の干拓。
重要な研究ではあるが、地味だ。
当然、男性だと意識したこともなかったのだが、ある時、たまたま眼鏡を外したところを見たら、悩ましげな目元に通った鼻筋、薄くかたちのよい唇と、男の色気ダダ漏れ系のもんのすごい美形だったのだ。
王太子妃教育が終わってしまえば、彼との接点がなくなるので、カタリナは完全に見放されない程度に土木工学を勉強しているフリをしながら、ずるずると引っ張り続けている。
ただし、「沼の貴公子」がカタリナに「落ちた」としても、それに応えるつもりはない。
要は、美形に惚れさせて、「やっぱりわたくしの美しさは世界一ィィィイ!」と高笑いしたいだけなのだ。
カタリナの魅力に落ちない男など、この世にアルフォンス一人で十分なのだから。
「というか、シャラントンが退けばいいのよ。
あちらはちゃんと、婿を確保してるのだし」
カタリナは、王室席の隣りにあるシャラントン公爵家の席をみやった。
鳩羽色のすっきりしたドレスを着て、いつものようにほんのり微笑んでいるように見えるジュスティーヌと並んで、養子のドニが座っている。
数年前、養子に入ったときは、少女と見間違えるような小柄で華奢な少年だったが、だいぶ背も伸びて、体つきもしっかりしてきたようだ。
昔は肩の上で切りそろえていた銀髪を伸ばして、後ろで軽く括っている。
顔立ちはそこまで似ていないが、髪色や物静かな雰囲気が似ているせいか、遠目だと血を分けた姉弟のように見えた。
「ドニ卿か。
彼も気の毒に」
オーギュストは非難がましく、横目でカタリナを睨んだ。
ドニは、ジュスティーヌ一人しか子のいない公爵家が、遠縁から跡継ぎとして迎えた少年である。
噂では、もしジュスティーヌが王太子妃にならなかったら、そのまま婿として結婚させる腹積もりもあるらしい。
ドニも17歳になり、そろそろ将来の妻を決めなければならないのだが、公爵家はまったく縁談を探していないのだ。
そして、どうもドニはジュスティーヌに恋をしている。
自分の恋する女が、自分ではない男と結婚するために不断の努力を続け、苦しんでいる姿を間近で見続けるのは、なかなかな地獄だろう。
ジュスティーヌが嫁ぐことが決まっていれば、諦めをつけて、義姉が嫁ぐまでの日々を大切に過ごそうと切り替えられるかもしれないが、結局どうなるのかはっきりしないままなのだ。
「それもこれも、もだもだ殿下のせいよ
陛下も王妃様も、殿下が決めてよいっておっしゃっているのに」
あくまで自分は悪くない、とカタリナは主張する。