開場:シャラントン公爵家専用席②
長い間、自分になにが足りないのか、ジュスティーヌにはわからなかった。
アルフォンスとの関係が悪いわけではない。
会える機会は限られていたが、アルフォンスはいつも愛しげに自分を見つめ、努力をねぎらいながら、挙げた成果を素直に褒めてくれた。
自分が困っていることを相談してくれもした。
周囲の眼も温かく、侍女も護衛も、なるべく2人きりの時間を楽しめるよう、許されるぎりぎりまで距離をとってくれる。
舞踏会だって、最初にアルフォンスが手をとるのは自分だ。
多忙を極めた王太子妃教育中でも、社交にも励んできた。
時間の余裕がなく、顔を出せたのは王家主催の夜会や園遊会が中心だったが、王太子妃教育を修了した後はもう少し幅広く顔を出せるようになったし、公爵家が夜会を催す時は女主人として仕切ることもある。
もともと王妃や王女達とは親しかったが、王太后ら一世代上の女性王族にも礼を尽くし、歴史書にはなかなか出てこない、彼女たちの生き様や隠れた業績について聞き書きをまとめたものを論壇雑誌に発表し、好評を得たこともある。
あの時は少々困惑するような話も聞いてしまったし、まとめるのには苦労したが、学ぶものはあった。
これ以上、なにをどうすればいいのかわからないと思っていたのだが──
半年ほど前、遠国から来た、新しい大使を歓迎する舞踏会があった。
大使に母国の言葉で話しかけると、流暢な発音を驚かれ、褒め称えられた。
しかし、怪しい発音でギリギリ挨拶できるだけのカタリナの方が、身振り手振りを交えた会話で大使と盛り上がっていた。
少女の頃と変わらず、カタリナは破天荒で、あれこれトラブルを起こしている。
気に入らないことがあるとキツい皮肉を飛ばすので、夜会でアルフォンスに近づこうとした令嬢を泣かせてしまい、騒動になったこともあった。
だが、華があって、次になにをするかわからないカタリナの周りには人が集まる。
なにか面白いことが起きれば、カタリナがなんと言うか知りたくて、皆、いち早く知らせようとするのだ。
一方、ジュスティーヌには人が集まらない。
別に社交用の会話ができないわけではない。
むしろ、聞き上手だと褒められる。
よく知らない人との会話が下手だという自覚があったから、ならば相手に話させればよいと、傾聴のやり方を習い、練習したのだ。
ジュスティーヌは、自分の感情や思いを巧く出すことができない。
もともと、自分の気持を伝えるのは苦手ではあった。
だが今はそれだけではない。
うっかりしたことを口にして、王太子妃として不適格だと言われるのが怖いのだ。
だから自分からは上っ面の会話しかできないし、そんな者に集まる者はいない。
そもそも、王太子妃の選考はどうなっているのか、アルフォンスに訊けばよいのだ。
当人に訊くのが難しければ、今も月に二三度は会う王妃にでも王女たちでもいい。
なのにそれが出来ない。
上品に会話する方法には熟達したが、気がつけばジュスティーヌは誰にも心を打ち明けることができなくなってしまった。
誰も信頼していないからだ。
宙ぶらりんの状態が長引くにつれ、ここまで頑張ってもなにも言ってくれないアルフォンスも、王妃も、王女たちも信じられない。
父公爵も、義弟のドニも、本当は自分が王太子妃になれない理由を知っていて隠しているのではないかと思ってしまう。
最近では、周囲の者は皆、自分がなにか致命的なことをしでかして、「やっぱり王太子妃は無理だ」と言えるのを待っているのではないかという妄想に囚われてしまうことすらあった。
ジュスティーヌの懊悩をよそに、カタリナは愉しげに高笑いをし、困惑するアルフォンスをからかい、自分好みの「顔のいい殿方」や気の合う令嬢達とわいわいやっている。
ジュスティーヌはこんなに疲れ果て、途方に暮れているのに。
さらに、少し前から、アルフォンスはジュリエットという男爵令嬢を連れ歩き始めたらしい。
ジュスティーヌにはもう、それを咎めたり、止めるように働きかける気力はなかった。
カタリナがどう反応したのかも知らない。
それでもまだ、王太子妃候補を降りるとはどうしても言えない。
ここまで辛い目に遭っても、ジュスティーヌはアルフォンスを愛しているのだ。
とはいえ、これ以上、自分の愛と努力をないがしろにされるようなことがあるならば、覚悟していることもあるが──
「……義姉上」
馬車の外を眺めながら物思いに耽っていたジュスティーヌに、数年前、公爵家の跡継ぎとして養子に入ったドニがそっと声をかけてきた。
ドニの肩越しに見える風景からして劇場はもうすぐだ。
「……ごめんなさい、ぼうっとしていたわ」
ジュスティーヌは、いつものはかなげな笑みを浮かべた。
馬車を降り、ドニにエスコートしてもらって、知人と挨拶を交わしながら公爵家の席へ向かう。
カタリナが美しい青年貴族を従えて、サン・ラザール家の席ではない方向へ向かう姿が見えて、すいと眼をそらした。
波立つ心を抑えて席につく。
どんどん客で埋まっていく平土間席を眺めていると、侯爵家の席が並ぶあたりに、ピンクブロンドの令嬢とアルフォンスの姿が見えて、思わずはっと息を引いてしまった。
アルフォンスは、一瞬後ろ姿が見えただけだけで、すぐに奥の席に引っ込んだが、ジュスティーヌが見間違えるはずがない。
子供の頃、アルフォンスの「友人」として選ばれ、今もアルフォンスと親しい、ノアルスイユとサン・フォンの姿もある。
アルフォンスは、例の男爵令嬢達と観劇するようだ。
しかし──
初日や千秋楽ならとにかく、特に節目でもない平日の今日、この3者がかち合うのは偶然にしては出来すぎている。
ちらりとドニに視線をやると、ドニもジュリエットとアルフォンスの姿に気づいたのか、狼狽している。
彼が意図的にぶつけたわけではなさそうだ。
今回の興行では、ヒロインも、ヒロインを取り合う男性2役もダブルキャスト。
計6人の役者の組み合わせによって、芝居の雰囲気がかなり違うと話題だ。
「観るなら今日の組み合わせがベストだ」と芝居好きの友人に勧められたのだと、ドニは言っていたが──
ふと視線を移すと、カタリナが自分の家の席ではなく、アルフォンス達の向かいの席にいるのが見えた。
もしかしたら、カタリナの仕込みで、この日を選ばせられたのかもしれない。
でなければ、男爵令嬢と縁があるというノアルスイユか?
この一夜が仕込みであるなら、狙いはなんなのか。
今宵、王太子妃選びに決着をつけようということなのか。
もう、どうなっても構わない。
アルフォンスもカタリナも、男爵令嬢も、皆、好きにすればいい。
自分も、好きにする。
満員となった平土間席を眺めながら、ジュスティーヌは、左の人差し指に嵌めた、紫の魔石が鈍く光る指輪をきゅうっと親指で抑えた。