開場前:楽屋
ある初夏の午後──
王立歌劇場の楽屋で、今夜の夜公演に来る貴賓客のリストを確認していた劇場総監督のコンスタンティンは眉根を寄せた。
「なんだこの取り合わせは。
アルフォンス王太子殿下にフォルトレス男爵令嬢ジュリエット、そしてシャラントン公爵令嬢ジュスティーヌ、サン・ラザール公爵令嬢カタリナが来るぞ。
これは……幕間の貴賓饗応室が怖いな」
「フォルトレス男爵令嬢って、アルフォンス殿下の恋人だって噂の?
ピンクブロンドの、可愛らしい感じの方って聞いているけれど。
よくある恋愛小説で、王子様を射止めるヒロインみたいな方だとかなんとか」
コンスタンティンの妻で、看板女優のマリア・リーリアが、付き人に舞台用の化粧の仕上げをしてもらいながら片眉を上げた。
盛りに盛った銀髪のカツラに豪奢な真紅のドレスをまとい、泣きぼくろもつけて婀娜っぽい。
「そうだ。
レディ・ジュスティーヌとレディ・カタリナは王太子妃候補だから、殿下を巡って争う令嬢3人が揃い踏みということだな。
レディ・カタリナは、サン・ラザール伯爵家の席で観るようだが」
サン・ラザール伯爵家は、同名の公爵家の支族だ。
王立歌劇場には平土間席をぐるりと馬蹄形に取り囲むボックス席が4層あり、1層から3層までは代々、各貴族が通年で契約している。
サン・ラザール伯爵家の場合は、本家の公爵家とは別に席を持っている。
通年で席の使用権を持っているので、チケットを買う必要はないのだが、幕間に酒や軽食を提供する都合もあり、観劇する際は事前に劇場に知らせることになっている。
「おうちの席の方が舞台が良く見えるでしょうに。
それにしても……レディ・ジュリエットは王室専用席で殿下とご覧になるの?」
王室専用席というのは、舞台から見て正面、控えの間や手洗いつきのひときわ大きな貴賓席。
幕間に歓談を楽しむための饗応室もついており、名前の通り王族が使用する。
王室席は、通例、王家の賓客か王族と親しい者が招かれるので、アルフォンスとジュリエットが王室席で観劇するとなれば、恋人宣言と同然だ。
「いや、そちらは、予定通りアデライード殿下お一人だ」
アデライード殿下というのは、「美男王」と呼ばれた先代国王の第一王女、今の国王の16歳上の姉、アルフォンスの伯母だ。
この国では王子がいなければ、王女が女王として立つことになっている。
国王が生まれるまで王太女として育てられたアデライードは、政務が苦手だった父国王の代わりに実質国を取り仕切っていた王太后、そして若くして即位した現国王を助けているうちに婚期を逃し、現国王が独り立ちした後も結局嫁がなかった。
生まれながらの女性王族、いわゆるブラッド・プリンセスの中では最年長。
2年前、王太后が亡くなったので、名実ともに王室のご意見番といったところだ。
「アルフォンス殿下は、ノアルスイユ侯爵家の席だ。
アルフォンス殿下、ノアルスイユの三男のグザヴィエ卿とサン・フォン家のヴァランタン卿、そしてフォルトレス男爵令嬢となっている」
コンスタンティンは気に入らぬげに、リストを指先で弾いた。
王室席は舞台全体を見渡せる良席ではあるが、距離は遠い。
舞台に近い貴賓席から芝居好きの王族が鑑賞することはままあることで、宰相を務めているノアルスイユ侯爵家がアルフォンスを招いたのだろうが──
「あらやだ。
グザヴィエ卿もヴァランタン卿も、フォルトレス男爵令嬢の魅力にやられているとかいう話じゃなかった?
そっちもそっちで揉めそうじゃないの」
「さあ……
3人は幼馴染だし、今も仲良くしているはずだが。
若い者の考えは、私にはわからんよ」
もともと俳優からキャリアを始め、今もすらりとした体型を維持しているために、実年齢よりも若く見られがちではあるが、40歳手前のコンスタンティンは投げやりに言った。
そんな話をしているうちに化粧が仕上がった。
マリア・リーリアが、どう?と左右を向いて見せる。
コンスタンティンは良かろうと頷いて、付き人を下がらせた。
「ノアルスイユ家の席は、舞台にかなり近いところにあるから、アルフォンス殿下達の様子は、レディ・ジュスティーヌからもレディ・カタリナからも丸見えでしょうね……」
「ああ。
特に、サン・ラザール伯爵家の席はほぼ真向かいだしな。
ついでに言うと、アデライード姉上からもよく見えることだろう」
仏頂面でコンスタンティンが言う。
この男、実は元王族なのだ。
先代国王がもっとも寵愛した歌姫の息子で認知もされている。
亡き王太后の子であるアデライードと現国王フェルナンドからは腹違いの弟、フェルナンドの唯一の男子である王太子アルフォンスからは叔父ということになる。
大陸一の大国であるエルメネイア帝国への留学中に演劇に目覚め、王族としての権利を放棄したので、他人がいるところでは王族達に敬称をつけて呼ぶが、家族としてのつきあいが絶えたわけではない。
女優のマリア・リーリアと結婚し、演劇人として他国でキャリアを積んでいた間も、手紙のやりとりは続いていた。
実績を積み上げ、エルメネイア帝国の名誉騎士の称号を得て母国に凱旋してからは、兄姉だけでなく甥姪ともちょいちょい交流している。
「なら、逆に安心……なのかしら。
それにしても王太子妃選びはどうなっているの?
アルフォンス殿下もレディ・ジュスティーヌもレディ・カタリナも、もう20歳でしょう?」
王族、貴族の嗣子はだいたい20歳前に結婚する。
婚約した年齢にもよるが、婚約期間は少なくとも1年以上はとるから、この年で王太子の婚約の目処がまだ立っていないのは、異例のことだ。
「陛下はレディ・カタリナ、王妃殿下はレディ・ジュスティーヌを推していて、王太子教育が終わったらアルフォンスに選ばせるとかなんとか聞いた覚えはあるが。
一体、どうなっているんだろうな……」
コンスタンティンの見るところ、アルフォンスの気持ちはジュスティーヌにある。
そう思っている者は多いだろう。
だが、どういうわけだか、なかなか発表がないのだ。
王太子妃の選定は、国事行為だ。
コンスタンティンも気になっているのだが、王家を離れた身、こちらから訊ねるのは遠慮している。
「もたもたしているうちに、令嬢達の婚期はどんどん過ぎていくじゃない。
上の妹君はこのあいだ嫁がれて、下の妹君も来年でしょう?
これで結局男爵令嬢に持っていかれたとなったら、正直刺されてもおかしくないと思うわよ」
「さすがに男爵令嬢はないだろう。
いくらなんでも」
「でも、レディ・ジュリエットは光属性魔法が使えるって話じゃない。
光属性持ちの王族はここ何代も出ていないし、それなりの家が後ろ盾につけば、王太子妃の線もなくもないんじゃないの?」
光属性魔法は魔獣や瘴気に対して強大な威力を持つ一方、使える者は非常に少ない。
この国の場合、王族で1割、貴族で万人に数人程度と言われている。
魔力の量、そして属性はある程度遺伝すると言われており、光属性魔法を使える王族が生まれる可能性に賭けて、王太子妃として王家が迎え入れる可能性はある。
それには、侯爵家以上の家が彼女をいったん養女に迎える必要があるが。
ふむ、とコンスタンティンは考え込んだ。
「後ろ盾がつくとすれば、男爵家と縁があるというノアルスイユ家あたりか?
それはそれで、めちゃくちゃに揉めそうな気もするが」
「でしょうね」
ふさわしい令嬢が公爵家に2人もいて、王太子妃教育も受けているのに、いきなり男爵家生まれの侯爵家の養女が王太子妃となったら、両公爵家は黙っていないだろう。
なんなら、他の大貴族もやいのやいの言い出す可能性もある。
2人は揃って、ため息をついた。
そろそろ、開演前の最後の打ち合わせの時間だ。
着付けを崩さないよう注意して控室へ向かう。
今回の衣装は、30年ほど前まで貴族女性の正装として用いられていた、今は「旧時代のドレス(ローブ・ア・ランシエンヌ)」と呼ばれるもの。
コルセットの上に胴衣を着て、左右に張り出すようにパニエで膨らませたスカートを穿いた上から、前が開いたガウンを重ね、ストマッカーと呼ばれる一種の胸板をピンでガウンと留め付けるもので、とにかく重く、動きにくい。
ピンはガウンの縁飾りで隠れるように打つが、うっかりすると手指を引っ掻いてしまったりもする。
そんなこんなで、「旧時代のドレス(ローブ・ア・ランシエンヌ)」は廃れた。
スカートを膨らませたドレスは現在も着られているが、シルエットは釣鐘型に変わり、ハリがあって軽い、クジラのヒゲなどを縫い込んだクリノリンを用いるのが一般的だ。
「まずは、席に案内する時にかち合わないようにしないといけないわね」
王室席には専用の玄関と階段があるが、ほかの貴賓席はそうではない。
上演前に、騒動でも起こされたら面倒だ。
「そうだな。
彼らが同時にここに着かないよう、祈っておいてくれ」
マリア・リーリアは笑って頷いた。
「あなたも、芝居の最中に本物の修羅場が起きないよう、祈っておいてちょうだい」