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お屋敷校正たちの日常奇譚  作者: 五川静夢
エピローグ
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ラストエピソード

《エピローグ》



 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

「……ん。ううう」

 座席に寄り掛かったままの少年。彼の瞳がゆっくりと見開かれる。

 握られた懐中時計の長針はすでに12の数字を過ぎていた。

 しかし、ロズの身体にこれといった異変は何も生じていない。

 それに彼の隣にはもはや誰もいない。

 他の乗客はロズを除いて、すでに下車した後らしい。少年は列車に乗ってウトウトしているうちに眠ってしまったのだ。

「……いったい」

 やがて、気を取り直したロズはむくりとその身を起こす。

 そして気が付くのだった。

「あっ!」

 ここは列車事故に巻き込まれる以前の世界。つまり、自分が元々いた世界であり、現実の世界に舞い戻ったのだということに。

 ワイマが別れ際に唱えた、「世界を再校正こうせいして、きみを元のパラレル世界に戻してあげよう」という不可解な言葉。……それが本当にいま、世界を再構成してパラレルワールドの路線を切り替えたのかもしれない。

『終点です』

 無機質なアナウンスが流れて列車が駅に停車した。どうやら降りなければならないようだ。

 ロズはその駅で降りる。彼は駅を出ると無知なドードー鳥のごとくゆっくりと歩き始めた。

 平和な世界。しかし裏では巨大な闇権力に掌握された世界。意外ともろいかもしれない世界。それこそ薄いクッキーのような世界。

 結局のところ、ロズが戻ってきたのは経済の歯車でぎっちりと構成された退屈極まりない社会なのだった。

「ワイマ……」

 そんなことを考えた途端にロズは無性にワイマに会いたくなった。

 そして、意図せずに少年は駆け出す。

 意味もなく闇夜を駆ける。

 もう戻れないのか。

 あの素晴らしき異世界には。

 そんなことを考えてロズが立ち止まり、悲しげに息をついた時。

 ――――鮮やかなる滑空。

「……あっ!」

 いつか目にしたことのある一匹の甲虫が透明な二枚翼を広げて、彼のすぐそばを横切って闇夜に消えた。

 それはあたかもこれから、この少年が行うであろう『家庭訪問』に対する祝福のようにも感じられる。

 ロズは最後の希望を胸に、なんとかそこにたどり着きたいと願い、歩き続けた。

 あの『お屋敷』に。

 そう、15歳の才媛ワイマール・ワイマの邸宅に。

 彼が孤島にたどり着いたのはもはや辺りが宵闇に染まりつつある時間帯だった。

 終点駅から、歩き続けること1時間半、ロズはようやくこの離れ小島へとたどり着いたのだ。相変わらず同じ福岡市内だとは思えない辺境地だが、いまのロズにとってはずいぶんと懐かしい思い出の地である。

「……ワイマ」

 ロズは元々、臆病な性格だ。

 不安もあった。

 だが、この辺境の離れ小島へと単身乗り込んだ以上は踵を返すわけにもいかなかった。

 ロズは覚悟を決めて前方へと一歩を踏み出す。

 そして、ゆっくりとした足取りで、目的のお嬢さまの待つお屋敷へと向かうのだった。

 以前、派遣所から渡されていたあの時のボロ地図を頼りに。

 ……もう一度、逢いたい。……偏屈だけど可愛げに満ちたペン軸姫に。

 ロズはふ、とそんなことを思った。

 やがて、彼は目的地に到着。

 ロズの背丈よりはるかに大きな黒塗りの鉄門が目の前に現れた。





 ――――ギィィィ。




 鉄門はまるで魔法が掛かっているかのように自動で開いた。

 ……ワイマ。

「ワイマ」

 ロズは短く彼女の名前をつぶやいた後、

「今晩は、今日から家庭教師としてきた者です。お声掛けするまでもなく、開門してくださって本当に感謝いたします」

 そんな感謝の言葉を述べた。

 しかし、闇の中に浮かぶ屋敷には、窓辺の明かりが灯っているだけで特に反応らしきものは返ってこなかった。

 気が付けば、ロズの周囲はますます濃霧に包みこまれて見えづらくなっていた。

 はたしてこれは夢か幻か。

 思わずそう考えてしまうほどに非現実的な空間がそこにはあるのだった。

 まもなく、ふっと濃霧をかき消すようにして何者かの気配がすぐ間近で漂った。

 それとほとんど同時に。

「小林ロズさまですね」

 彼の名前を暗闇が呼んだ。

 いや、正確にはそうではない。この鈴が鳴るような心地の良い声の主は。

「やはりフランチェスカ、か」

 ロズは思わず苦笑する。

「ロズ様。どうして私の名前を?」

 暗闇に突如として出現した手提げランタンの微かな光。

 その光に照らし出されたのは、頭にカチューシャを付け、細身にぴったりとフィットした淡い色合いのエプロンドレスをまとった、屋敷のメイドらしき娘だった。

 碧眼に、クルクルと巻いたセミロングの栗髪に、透き通った肌が特徴的な美少女と形容するのがふさわしいようなメイドである。

「いや、なんでもない」

「ワイマお嬢さまからお話は聞いております。遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございます」

「いえ、とんでもない。僕は長旅が案外、好きなんです。なかなか新鮮でした。それに彼女に無性に会いたくて」

「さようでございますか」

「はい」

「それはよかったのです。ではさっそくお嬢さまの元へご案内させていただきます」

「よろしく」

 記憶のないフランチェスカの案内に従ってロズは屋敷の中へと足を踏み入れた。

 豪奢な調度品や年代物と思われるアンティークが彼を出迎える中で、まもなくロズはその「ペン軸姫」のいる部屋にたどり着くことになる。

 ミシリ、というフローリングの軋む音がしたのを最後に、フランチェスカのしなやかな足取りが止まった。

 ある一室の前。

 どうやら、この中にワイマはいるようで。

 コン、コン、コンと規則的なノックが間を空けずに3回響く。

「ワイマお嬢さま。お客様がお見えです」

 フランチェスカの鈴なりのような声がそれに続くと。

「……」

 少しの沈黙があった。

 ロズを刹那の緊張が襲う。

「う」

 少年がごくりと喉を鳴らした時。

「良いのですよ。通したまえ」

 扉を通して聞こえたのは、白銀のように怜悧な、それでいてある種の純粋さを感じさせる年頃の少女の声音だった。

「どーぞ」

「ありがとう」

 フランチェスカの手引きでロズがそこに入室するのと、部屋の中の少女が回転式の椅子ごとこちらに振り返ったのはほぼ同時だった。

 ……ワイマール・ワイマ。

「きみがロズくんだね? ようこそ、いらっしゃい」

 美少女と形容する以外にない娘は、微笑に口元をゆるめると、極めてありきたりな言葉でロズを出迎え、まるで魔法のように彼の緊張を解いた。

 相変わらず落ち着いた雰囲気だ。

 さらさらとした漆黒のロング髪に、深紅の双眸、まるで日を浴びたことがないのではないかと思わせるほどに白い肌、漆黒のドレスに包まれた華奢な体躯、それに比例するように細い脚は縞模様のニーソックスに包まれて、前方で無造作に組まれている。

 そして、ワイマの背後にずらりと並べられた大量のコレクションもあの時のままだった。

 校正ペンを寄せ集めたサンプルボックスに、古今東西の蝶類などを中心とした標本グッズ。

 また、その傍らにはいくつもの本棚が立ち並んでおり、一見で難解だと分かる書籍がぎっしりと書架に収まって無機質にロズを迎えている。

「はじめまして。お初お目にかかります、ワイマさん。今日からきみの家庭教師をすることになった小林ロズです」

 少しの沈黙を挟んだ後に、ロズがたどたどしく挨拶をすると少女は身を横たえた椅子を再びくるりと回転させて、「ふむ」と一息つき彼女の対面にある机の棚から一冊の校閲ハンドブックを抜き出した。

 そして、再び椅子ごと彼に向き直ると。

「ロズくん。きみ校正、校閲の経験はあるか?」

 いきなりロズに思いもかけない言葉を投げかけた。

 一瞬、何の変哲もない冗談かと思ったが、彼女のまっすぐな瞳は一ミリも笑っていなかった。

 ワイマの背後に並ぶ難解な書籍たちは相変わらず無機質かつ無感動な視線をロズに注いでいるように思える。備え付けらしき扇風機が生ぬるい風でロズの前髪を撫でる。

 だが、ロズは臆することなく正直に言った。

「ああ、正真正銘で僕は校正、校閲の経験者だよ」

 すると、ワイマは黒髪に細い指を絡めて微笑しながら返した。

「ロズくん。きみならそう言うと思ったよ。きみは戻ってきたんだよ。きみにとっての異世界。つまり、この地における校閲屋として再び」

 これを聞いたロズの表情に微かな驚きが広がった。

 そして小さく「ありがとう」と言った。

 同時に、煙に包まれたのはワイマの手にするハンドブックだ。

 これが消滅すると、どこからともなく幼い女の子が姿を見せて駆け寄ってきた。

 ビスクドールのような美しい顔だちに、腰まであるさらさらの髪、ちょっと眠たそうなブラウンアイズがとてもかわいらしいが、どこか気だるそうな不思議なオーラを漂わせている。

 グリモワルスにそっくりな女の子はロズをじっと見つめた。

 そして右手を掲げて「みゃんみゃんぱすぱすー」と言った。

 やがて、お屋敷メイドがポットを手にして入ってくる。

 綺麗な紅茶がカップに注がれると、そこから暖かな湯気があがり、匂い立つ紅茶の香りが室内を満たしていく。

 ロズは紅茶には詳しくない。だが、何故だか彼には分かる。

 きっとこれは……アールグレイだ。

 ロズはフランチェスカが入れてくれた紅茶を受け取ると、カップの縁に口をつけた。

 じんわりとした香り豊かな風味が口の中いっぱいにひろがり、やがてはじけて体内へと吸収されていく。それはロズが今までにのんだ紅茶とは一線を画すものだといえる。これは本当にただの紅茶なのだろうか。

「本当に美味い」

 少年がそのような声を喉から発した時。

「本日のお紅茶はアールグレイにございます」

 フランチェスカは朗らかな声で紅茶の種類を告げた。

「遅くなったけれどおかえり。これできみはこの異世界で暮らしていくことを再認可されたんだよ」

 傍らでワイマの静やかな言葉が聞こえていた。



 いたって平穏な日常はいたって平穏に過ぎるものなのだと、ロズはこのとき改めて実感して、いま、この時にしかない大切な瞬間をアールグレイの香りとともに味わっている。





「ただいま」





 ロズの微かな返事はいま『ペン軸姫』に確かに届いていた。


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