【魔導書幼女】グリモワルス
「じゃあ、ハンドブックの正体を見てみるか?」
ワイマは少し呆れたような声色で言った。
そして、そのままパチンと指を弾いて「グリモワルス、姿を見せてあげてくれ」と当たり前に述べた。
同時に、煙に包まれたのはロズの手にするハンドブックだ。
「わああああああっ!」
次の瞬間、ロズは絶叫して思わず卒倒しそうになった。
それも無理はないだろう。
―――目をやれば、魔法使いが被るような鍔の長い帽子に懐中時計のペンダント、外套、ホットパンツに黒ニーソ、踵までのブーツという恰好をした華奢な体躯の少女が現れていた。年の頃は10歳程だろうか。ビスクドールのような美しい顔だちに、腰まであるさらさらの髪、ちょっと眠たそうなブラウンアイズがとてもかわいらしいが、どこか気だるそうな不思議なオーラも漂わせている。
幼い女の子は出現するなり、ロズをじっと見つめた。
そして右手を掲げてこう言った。
「みゃんみゃんぱすぱすー」
「はい?」
ロズは当然、首をひねる。
彼の目は完全に点になっていた。
すると、ワイマはそんなロズに羨望の眼差しを向けた。
そして。
「よかったね、ロズ。きみって、本当にグリモワルスに気に入られているんだな。最初の入室から、ずーっときみを見ていたんだってさ。これは羨ましいことだよ」
「えっ」
ロズは相変わらず、きょとんとして、目の前の幼女とワイマの顔を見回した。
「この子がハンドブック……だというのか」
「そうだよ」
ワイマは笑う。
「グリモワルスはオリジナルの配合書でね。彼女のルーツの半分は共同文学通信のハンドブックなのだけれど、もう半分は意思を持つカバラの預言書であり、知識を供給する魔術書なんだ。それは、それは貴重な本なんだよ。原典はもう殆どない。だから、高等魔術の擬人化により、グリモワルス自体を少女に変化させてカモフラージュしたりもしている。異世界の悪意ある者たちに奪われたりすることがないようにね」
「ほう」
ロズは半信半疑の表情で顎に手をやった。
「グリモワルス。もう一度、変化をといてみて」
ワイマは、まるでロズが信じないのを予期していたかのように、パチンと指をならす。
少年の前から、魔法使いの幼女は消えた。
代わりにロズの前には再び一冊のハンドブックが出現し、今度は浮遊していた。
「表紙の文字列は確かに共同文学通信のそれらしい……。ついでに、本の素材は失われた時代の羊皮紙に近いものと見える。……おまけに宙に浮いているし。これは完全に降参するしかないかもな」
ロズは弱弱しく息をついて、現実を受け止めた。
そう、もうすでに彼は列車事故で死んで異世界に飛ばされているのだ。そしてワイマの元にやってきた。
パチン。
ワイマがもう一度、指をならすと、トーストを口にくわえた先ほどの幼女が眠たそうな目をして、再び現れた。
「グリ、まだ……眠い。トースト……は美味しいのデス」
幼女はマイペースにトーストをかじる。
「はは、こんな感じの子なのさ」
ワイマがそう言った時。
「失礼いたします」
扉が開いて、フランチェスカが入ってきた。
このメイドの手にするシルバートレーには冷たい汗をかいたアイスティーが人数分だけ載っている。
「本日のお紅茶はアールグレイでございます」
フランチェスカは無機質な声で言うとストローとグラスとガムシロップをあたかもチェス盤に駒を配置するかのごとく規則正しくワイマのそばの机に並べて、僅かに頭を垂れた。
「グリモワルスはシロップ2つだよね。わたしはシロップなしですから」
ワイマは当然のごとくシロップを2つ掴むと、グリモワルスにむかって差し出した。
「……そう、グリはいつもシロップ2つ。ワイマ覚えていてくれたんだ。……ラッキーなのデス」
魔法使いのような帽子の幼女、グリモワルスはのんびりとした口調で言うとワイマのもとへと行き、ガムシロップを受け取った。
そしてアイスティーも机から取った。
ちゅるちゅるという、少女や幼女がアイスティーをすする音が響く。
「…………」
この不思議な空間に圧倒されてロズはうまく動けない。
というか未だに現実と異世界の境界で心が揺れているのかもしれない。
いったい、どうしてこのようなことに。
もちろん状況は先ほど把握した。
事故、そう。列車事故が原因でいま自分はここにいるのだ。
しかし、納得できない。
納得したら二度と元に戻れない気がするのだ。
ここで、なんとか。戻る行動をしないと。
ひやり。
そんな時にロズの頬を冷たい氷のような感触がなぞった。
「うわああああああああっ!」
絶叫するロズ。
よく見ると、それはアイスティーのグラスだった。
考え事をしているうちに頬に突然、あてられたのだ。
「飲まないのデスカ?」
気が付けば、グリモワルスがアイスティーのグラスを片手でロズの頬に押し当てていた。
幼女のもう一方の手には飲みかけのアイスティー。
「……飲まないならグリがロズのぶんも飲むのデス」
アールグレイ風味な、そんな言葉を聞いてロズは先ほどから自分の喉がやたらと渇いていたことに気付くのだった。
「いただく、か」
ロズは幼女から差し出されたアイスティーを素直に受け取った。
ストローに口をやる。
ちゅるちゅる。
「ん、これは」
じんわりとした香り豊かなアールグレイの風味が口の中いっぱいにひろがり、やがてはじけて体内へと吸収されていく。
それはロズが今までにのんだ紅茶とは一線を画すものだといえる。これは本当にただのアールグレイなのだろうか。
「美味い」
少年がそのような声を喉から発した時。
「よかったね。これできみはこの異世界で暮らしていくことを認可されたんだよ」
傍らでワイマの静やかな言葉が聞こえていた。
認可。
それはどういうことなのか。
「本来、異世界の飲食物を口にできるのはその異世界の住人だけだ。信じがたいだろうが、ただのアールグレイティーでさえ、異なるパラレル世界に住む人々は飲むことができない。そう、認可はされないんだよ、ロズ」
「なんだって」
ロズは、さっとアールグレイのストローを口から離した。
グラスを持つ手がぶるぶると震えている。
カラカラとグラスの中の氷がダンスした。
すると、とんがり帽子のグリモワルスが一言。
「これでロズもグリたちの仕事仲間になったのデス」
「なんだって」
ロズは反復する。
「仕事仲間……だと?」
「そう、仕事仲間デス」
繰り返されるその言葉。そして。
「一緒に素敵な異世界新聞を作りましょうデス」
異世界新聞。
それは、一体。
「……この世界に住むにはいくつかのゆるい条件があるのデス。そのうちの一つが共同体としての何かしらの役割を全ての生きと生けるものたちが持つということなのデス。そのためグリたちはこの屋敷で異世界の新聞づくりの業務の一部を任されています。つまり記事の校閲や編集の委託された作業をメインにして報酬を得ていますデス」
グリモワルスはそんな補足をしたが、ロズは理解が追い付かない。
「思考が混乱しているようだね。フランチェスカー。もしよかったら、異世界新聞のサンプルをロズに見せてあげてくれ」
「かしこまりました」
まもなく、フランチェスカが迅速に戻ってきて一枚の夕刊がロズに手渡された。
「今日の夕刊です」
記事の一面は、『有翼騎龍のエサの配合量について異世界の識者たちが議論した』というものだった。
やはりここは異世界なのだ。もう認めざるを得ない。
ドラグーンのエサの配合とはいったい。
というか、ドラグーンって。まさか。
あれか。
ふ、とロズが大窓から空を見上げると悠々とした様子で月夜を飛翔する翼竜の影が遠くに見えたような気がした。
そして、さらにページをめくる。
先ほどの続きが載っていた。
おそらく経済面なのだろうが、しかしエサの配合量についてここまで徹底的に識者たちが議論し合わなければならないものなのだろうか。
少年はなんだか眩暈がしてきそうだった。