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百年の孤独

ロズは息を呑んだ。

 驚愕に見開かれる少年の双眸。

「よく見ていてよ。これから先に起きることを」

 15歳のペン軸姫こと、ワイマール・ワイマはそう述べて、パチンと指を鳴らした。

「ロロロ、ロロオオオオオオオオオオオオオ」

 水龍岬全体を揺るがすようなウォータードラゴンの咆哮。

 水の怪物はさらなる一撃を繰り出すつもりなのか。いや、そうではなかった。

 これはウォータードラゴンが悲痛に身をよじらせてのた打ち回る際に上げている絶叫なのだった。ギリ、ギリとまるで布巾が搾り上げられるかのように、簡単にウォータードラゴンの巨体が捻じれていく。

 それはあたかも、この次元そのものを超越した存在が一匹の水龍という玩具を弄んでいるかのようである。

「なんなんだ。我のしもべに何をした!? ああ……あああ、崩れていく」

 カーバンクルが弱弱しい悲鳴を上げていた。

 この小さな魔物は、突如としてウォータードラゴンの身に生じた異変にどう対処してよいか分からず、その周囲をパタパタと狼狽したように飛翔するだけだ。

 だが、このカーバンクルの無駄な行動もすぐに終わりを告げることになる。

「ロ……。ロオオオオオオオオオオオオオオオオオ」

 水龍の断末魔。

 ―――バシュッ!

 その刹那、ウォータードラゴンの巨体が周囲の重力に押しつぶされるように膨張して、そのまま破裂した。

「……まずい」

 ロズには嫌な予感がした。

 そしてこれは的中することになる。

 そう、それまでウォータードラゴンを構成していた大量の水。それが、ドドドドドと音を立てて、まるで濁流のように降り注いできたのだ。

 迫りくる濁流。

「ぐは」

 グルグルと旋回していたカーバンクルは濁流を避ける間もなく飲み込まれて藻屑になった。

 上空からいま降り掛からんとばかりに死が牙をむいていた。

 ロズの目に映るそれは、スローモーションのようにゆっくりと迫ってくるのだった。

 もはや目前に迫った、死。

 ロズは樹木の幹にしがみついて、茫然とこれを見つめた。

 もちろん樹木にしがみついたところでどうにもならない。

 ロズの行動はまったく意味のない行為なのだ。

 しかし、咄嗟の行動なのだから仕方あるまい。

 ウォータードラゴンの最後の悪あがき。

 あまりに強大かつ残酷な置き土産だといえよう。

 これで終わりだ。

 フェンリルの時とは違う。

 こればかりは手の打ちようがない。

 そんな時、ロズは不意にワイマのほうを一瞥した。

 最後に見るワイマの姿。

 その姿に、少年は思わず目を疑った。

 それもそのはず。ワイマは手を口にやったまま「ふぁー」と欠伸をしていたのだから……。

 おまけに濁流はまだ降り注いでこない。

 上空で時間が止まったかのように停止しているではないか。

「なんだこれ」

 ロズが目を点にしていると、ワイマが再び微笑して告げた。

「だから言ったじゃないか。ロズくん。わたしは異世界の魔王の庇護のもとにあるのだよ」

 おまけに、彼女がパチンと指を鳴らせば。

 上空で停止していた濁流は嘘のように急速に蒸発していったのである。

「……あ」

 迫っていた全ての脅威が消え去り、穏やかな陽光が辺りを包む頃、ロズはぺたんと地面に膝をついたまま放心状態になっていた。

「ははは、よかったね。ロズくん」

 ワイマがそんなロズの様子を面白そうに見つめて朗らかに笑っていた。

「ワイマお嬢様のおかげです。ありがとうございます」

「なるほど。ボクちゃん氏も初めて見ました。これが、魔王の庇護を受けているワイマさんのお力なのですか……」

 やがて、フランチェスカやスタニの声も聞こえてきた。

「でも、けっこう危なかったのデスよ。濁流が襲ってきたときには、ハンドブックに変身して空を飛んで逃げようかと思ったくらいデス」

「俺の出番がなくてよかったニャ」

 グリモワルスやメギウスもいるようだ。

 どうやら6名は全員無事だったようである。

「う、う」

 さて、くらくらする頭を押さえながらも、やがて気力を取り戻したロズは立ち上がった。

 少年はまだ茫然としながらも、近くに佇むフランチェスカに尋ねる。

「フランチェスカ。……いったい僕たちの身には何が起きたんだ? ワイマのあの恐るべき力を僕は確かに……。あれも魔王の庇護に関連したものなのか?」  

 そんなロズの問いかけにフランチェスカはこくりと頷いて、

「その通りです。先ほどの次元を超越するほどのすさまじい力。あれこそが異世界の森羅万象を支配する魔王様のものなのです。残念ながら、そのお姿はあまりにも強大すぎて私たちの目で見ることはできません。しかしながら、ワイマお嬢様の命が本当の危機に晒されたときには次元を超えた魔王様による加護の力が生じるのですよ。その場合、私たちにも手出しはできません。その絶大なるパワーを制御して使いこなせるのは、魔王様の庇護のもとにある、代理者。つまりはワイマお嬢様だけなのです」

 このように恐るべき事実を告げた。

 その後、「ですよね? お嬢様」とワイマのほうに振り向いて微笑する。

 するとワイマは少し得意そうに笑った後に、

「でも、わたしにも全てが制御できるわけじゃない。思い通りにならない時もある。今回は運よく、それが使いこなせただけなんだよ」

 と思わせぶりに言った。

「なるほどね。……どちらにしろ、ありがとな。ワイマ、フランチェスカ。今の僕がここにいるのはきみたちのおかげだ」

 ロズは少し照れながらも2人に礼を言った。

 命拾いしたぶん素直になれたのかもしれないな、と少年は内心で苦笑する。

「それにしても、元はといえばリーザさんの取材に来たのが運のつきだったのかもな……って……。あっ、ああああ!」

 そして、今になってそのことを思い出す。そう、肝心のリーザ・ウォーターズの安否である。

「リーザ氏の安否について完全にスルーしてたのデス。こやつら」

 傍観していたグリモワルスから痛烈なやじが飛ぶ。

「そして、あの巨大なペンタグラムは消してあげないとデス」

「だね」

 という訳で6名はリーザの閉じ込められたペンタグラムへと急ぐ。


 ほどなく。


 ――――リーザ・ウォーターズは無事だった。


 ロズたちの姿を見た彼女は琥珀のような目を輝かせて喜んだ。

「よかった。ついにカーバンクルを倒したんですね。素晴らしい。これでわたくしも晴れて自由の身となれるわけです」

「そうだね」

 と、ロズは短く相槌を打った。

 そして、こう続けた。

「ここから出るのも自由だし、ここから出ないのもリーザさんの自由だよ」

 実はロズやワイマたちには思い当たる節があったのだ。

 だが、あえていまは言及しない。

 それはリーザにとっては、あまりにも残酷すぎる事実だろうからだ。

 一方のリーザは意味ありげなロズの言葉を聞いて、

「しかし、考えてみればあまりにも長らくここから出られなかった。……わたくしも時間の感覚というものを無くしてしまったようです。だから、ある意味で恐怖もあります」

 小さく不安を漏らした。

 同時に、それまで明るかったリーザの表情に僅かな影が差していた。

 彼女も薄々とはその事実に気づき始めているのかもしれない。

 しかし、選択肢はすでに彼女に与えられているのだ。

「ペンタグラム魔法陣から出るか出ないかを選ぶのはあなたです。あなたが出る選択をするのならわたしたちはすぐにこの魔法陣を打ち消すことが出来ます」

 ワイマは表情を変えることなく淡々とした口調でリーザに告げた。

「…………」

 生じる沈黙。

 一転して重苦しい空気がその場を包み込んでいく。

 選択の時だった。

「……どーするのデスか?」

 グリモワルスの問いかけ。

 すると、リーザは朗らかに「決まりました」と笑った。

 そして、

「わたくしはここから出ます。魔法陣を打ち消してください」

 ついに運命を選択した。

「いいんですね?」

 ワイマが慎重に最終確認をする。

「ええ、いいですよ」

 しかし、リーザの意思は変わらないようだ。

「分かりました」

 ワイマは静かに頷いた。

 そして、ペンタグラムの線上に手をかざすと目を閉じたのだった。

 五芒星は少しずつ消えていく。

 そして、それと同時にリーザ自身の肉体も、指先からサラサラと灰に変わっていくのだった。

「やっぱり、ね」

 これを予期していたようにリーザは悲しげな微笑を浮かべた。

 そして最期に言った。

「皆さん。ありがとう。百年の時は長すぎました。ようやく自由になれます」

 そう、もはや彼女がペンタグラムに閉じ込められてから一世紀が経過していたのだ。

 そしてペンタグラムが消滅した現在、ようやく時間のカルマは刈りとられることになった。

「……グリたちも少しはお役に立てたのでしょうか」

 リーザの消失を見届けたグリモワルスは、トンガリ帽子の鍔を軽く引っ張るとふっと息をついた。

「ゆっくりと眠ってください。リーザさん」

 ワイマは心を痛めているような表情で目を伏せるとつぶやく。

「「…………」」

 残りのメンバーはあえて何も言わず沈黙を保っている。



 彼らの目線の先にはもはや主人を失った古びた帽子と衣服だけが残されていた。

 いつになく穏やかな陽光がそれらを照らしている。



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