【お屋敷校正】ワイマール・ワイマ
《第一章》
「どーぞ」
「ありがとう」
フランチェスカの手引きでロズがそこに入室するのと、部屋の中の少女が回転式の椅子ごとこちらに振り返ったのはほぼ同時だった。
……ワイマール・ワイマ。
「きみがロズくんだね? ようこそ、いらっしゃい」
その美少女と形容する以外にない娘は、微笑に口元をゆるめると、極めてありきたりな言葉でロズを出迎え、まるで魔法のように彼の緊張を解いた。
思ったよりも落ち着いた雰囲気だ。
さらさらとした漆黒のロング髪に、深紅の双眸、まるで日を浴びたことがないのではないかと思わせるほどに白い肌、漆黒のドレスに包まれた華奢な体躯、それに比例するように細い脚は縞模様のニーソックスに包まれて、前方で無造作に組まれている。
そして、何よりロズを驚かせたのはワイマの背後にずらりと並べられた大量のコレクションだった。
それはあるものは校正ペンを寄せ集めたサンプルボックスであり、またあるものは古今東西、それこそ、これまでロズが一度も目にしたことのない蝶類などを中心とした標本グッズである。
また、その傍らにはいくつもの本棚が立ち並んでおり、一見で難解だと分かる書籍がぎっしりと書架に収まって無機質に少年を見つめている。
「はじめまして。お初お目にかかります、ワイマさん。今日からきみの家庭教師をすることになった小林ロズです」
少しの沈黙を挟んだ後に、ロズがたどたどしく挨拶をすると少女は身を横たえた椅子を再びくるりと回転させて、「ふむ」と一息つき彼女の対面にある机の棚から一冊の本を抜き出した。
そして、再び椅子ごと彼に向き直ると。
「ロズくん。きみ国語の現代文の成績は優秀か? あと校正、校閲の経験はあるか?」
いきなりロズに思いもかけない言葉を投げかけた。
一瞬、何の変哲もない冗談かと思ったが、彼女のまっすぐな瞳は一ミリも笑っていなかった。
ワイマの背後に並ぶ難解な書籍たちは相変わらず無機質かつ無感動な視線をロズに注いでいるように思える。
「え。国語ですか?」
国語は得意だった。
ただ、現代文以外はあまり好きではない。
漢文、古文。
って、あれ。
動揺。混乱。
まったく予期せぬ少女の発言。
備え付けらしき扇風機が生ぬるい風でロズの前髪を撫でる。
ロズは正直に言った。
「現代文は得意だよ。だけど古文や漢文は好きではないかな。それに、校正や校閲は存在自体は知っているけれど実際にそれをしたことはない。けど、なんで?」
すると、ワイマは黒髪に細い指を絡めながら、短く返した。
「ロズくんは選ばれたんだよ。きみにとっての異世界。つまり、この地における校閲屋として」
「異世界……!?」
この言葉を最後にロズは黙り込んだ。
そして、考えた。
いや、まさか。
でも本当なのか。
あの列車事故の感覚がまだ身体に染みついている。
焼け焦げた匂い。
苦しみと恐ろしいまでの喉の渇き。
――――ギギギギギ、ギーッ!
耳をつんざくような音がして列車のライトが消えた情景がロズの脳裏にフラッシュバックする。
その時のあまりに騒々しくそれでいて何の前触れもない衝撃によって、それまでウトウトと列車に揺られていた彼の意識は遠のいたのだった。
ロズが再び目を開けた頃には、彼の乗る列車は繁華街から外れた寂しい通りに出て、この孤島に程近い駅に到着していた。これはどうやらただ事ではなさそうだ。
「僕は一度、死んでいるというのか?」
「そう、きみは本来の目的地にたどり着く前に列車の脱線事故で死んだ。そしてパラレルワールドのひとつである異世界に飛ばされたというわけ」
ワイマの瞳がぎゅっと凝縮したように細められた。
その視線はやはりこの世のものではなかった。
しかし、異世界などを簡単に信じられるほどロズはお人よしではない。
自分が列車事故で死んだというのも、ただの白昼夢だったに違いない。
「そんなの嘘だ! ありえない」
絶望の中で、ロズが狼狽したように言葉を吐きだした時。
「残念、本当だよ。ほら、とってみて」
ワイマはけらけらと笑いながら、それまで手にしていた本をロズにむかって投げた。
「わっ」
ロズは少女から投げられた本をあわてて受け取る。
それは校閲のルールを収録したハンドブックだった。
ぱらぱらとページをめくるが、そこに異世界の言語などはなく全てがロズの知っている日本語表記だ。
「よかった。やっぱりここは日本じゃないか」
少年が安堵の溜息をついた折、突如としてワイマが言った。
「異世界の言語はね。住人の望んだ通りにしか見えないんだ。ロズくんは日本語を無意識に選択したから形式が日本語になっている」
だが、信じないロズは強気に切り返す。
「ふ、そんなのは戯言だ。確かに独特な雰囲気の孤島と屋敷だけど、ここは日本だ。ただの福岡市なんだよ」