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カーバンクル

 ――――そして現在。

 

「……という訳だよな。確か」

 運河を漂う舟のオールを手にするロズは、その目を細めて虚空に語りかける。

 そんな彼に、

「おい何をしている、ロズくん? きみがちゃんと漕がないと動かないって。それとも非力なわたしにオールをまかせようというのかっ?」

 突如、乾いた声が掛かる。

 同じ舟に乗っているワイマだ。

「あ、ワイマ。読書は済んだのか?」

「……読書はずいぶん前から、とっくに済んでるよーっ」

「えっ!」

「ロズくんが、なにやらブツブツと一人語りをしているから、声かけのタイミングに戸惑って、読書してるふりを続けていたんだけど、さすがに限界だ。……ううう、とうとう気が狂ったのか」

「……なっ!?」

 どうやら、いままでの茶番は全て彼女の目に入っていたらしい。

「こほんっ」

 一つの間を置いてワイマの咳払い。

「な、なんという……」

 一気に信じがたい現実に引き戻されたロズの顔はみるみるうちに赤く染まっていく。

 それを見たワイマは、艶々しい黒髪の先を指でくるりと遊ばせながら、

「まぁ、良いや。ちゃんと正気に戻ったなら、これまでの茶番は潔く見なかったことにしてあげよう」

「ありがと」

 ロズは顔を赤くしたまま、ワイマにぼそりと礼を言った。

 さて、6名で取材旅行に出かけたはずのロズ。

 そんな彼が現時点において、どうしてワイマと2人きりで巨大運河の真っただ中をボートで漂っているのか……。

 その理由は簡単なものだった。

 現地でチャーターし、途中まで乗っていた水龍岬行きの客船がエンジントラブルによって、突如として沈没したからである。

 それは普通ならまずありえないことであり、まさしく『魔女の呪い』を象徴するかのような事故だったといえる。

 だが、不幸中の幸いとはこのことか。

 客船には、万が一に備えて非常用のボートがいくつも積載されていた。

 乗客たちは死ぬよりは良いと考えて全員が命からがら舟で脱出し、ワイマたち6名もなんとか予備舟に乗り込んだ。

 ただし、それぞれの舟は積載数こそあったものの、2名までしか乗れない仕様になっていたのだ。

 というわけで、ワイマとロズの2人は同じ舟に運命をゆだねた。

 なお、その他のお屋敷メンバーたちはというと、それぞれ。

 ・フランチェスカとスタニの取材チーム。

 ・グリモワルスとメギウスの取材チーム。

 こういった内訳になっている。

 もちろん、目指す場所は同じなので『水龍岬』で合流しようという形だ。

「……」

 それは良いのだが。

 広大な運河では3隻の舟の結束など無力だった。

 ものの一時間とたたないうちに水流が速まり、それぞれのチームの舟は離れ離れとなってしまっていた。

 こうして現時点のような有様が生まれたというわけだ。

 その後、急激な運河の流れはいつしかおさまり、今ではまるで嘘のように穏やかなものへと変わっている。

 だがしかし……。

「これは漂流では……ない。……と思いたい。取材旅行なのだ、これは。うう」

 ワイマの独り言が流れた。

 延々と続く水面。

 ここが広大な運河であるにも関わらず、今日に限ってはたった一隻の船にすら遭遇しない不運も重なって「ふーむ」と深いため息すら出る。

 トライアングル(三角水域)に近い場所というのが関係しているのかもしれない。

「漂流。漂流じゃない。いや、漂流。いや、取材。いや……」

 ボートから身を乗り出して水平線を眺めながら、ワイマの独り言は徐々に弱音に変わっていくのだった。

「まぁ、半分以上は漂流と言っても間違いではないな。食糧もそんなには持ってきていないし、時間との戦いになる。岬への到達が先か、あるいは僕たちの命がつきるほうが先になるか、だね。はは」

 言葉次第では、火に油を注ぐことになる状況下。

 ふいに放たれたロズの無神経な一言に、すかさずワイマが噛みつく。

「ロズくんのバカ! そんなことを言ったら、ますます不安が募るじゃないか! ああ、もう嫌だ。こんなところで死にたくはないよ」

「すまん。なんだか、いつになく思考が回らなくてね。つい、くだらんことを」

 すぐに己がした発言の過ちを悟り、謝罪するロズだったが、絶望と空腹下にあっては誰しもが正常な思考を失うのもまた事実だ。

 しかし、同乗者はまだ15歳のか弱い少女なのである。

 そんなワイマの不安感や苛立ちが早々に募るのも当然な局面だろう。ここは年長者であるロズが発言に慎重になるべきなのだ。

「うぐう……」

 いつの間にかワイマの眦にはじんわりとした球の涙さえ浮かんできている。

「うあ、ううう……。しく、ひく」

 気が付けば少女は小さな肩を震わせて、嗚咽を始めていた。

 少女の双眸からツーッ、と涙の筋が流れ落ちては、舟底でぴかぴかと弾け散っていった。

 ロズは、ペン軸姫(屋敷で校閲屋としてばりばり仕事をこなすワイマに無断でロズが名付けたあだ名)の泣き顔を見ながらおろおろとたじろいでしまう。

 まずい。

 これは、まずい。

「なぁ、ワイマ。大丈夫だよ。なんとかなるって。落ち着こう」

 そんなことを言って木製オールから手を放したロズはワイマへと近寄り、彼女の背中をさすった。

 しかしペン軸姫は不機嫌なまま、「うるさい。うるさい。うるさい」と泣き続けるのみだ。

「まいったな」

 ロズは頭を抱えそうになる。

「仕方ない。残り少ない缶詰を出すか」

 少年がカバンから非常用の缶詰を取り出そうとした、そんな時。

 ――――ビュオオオオオオオオン!

 どこからともなく強い潮風が吹きすさんできて、

「……美しい。14世紀、中世ヨーロッパと呼ばれる異世界。そこでは少女の涙を一瞬で火薬に変える魔法が存在していたらしいが、あたかもそれを体現しているかのようじゃ」

 突如として、優しい笛の音を思わせるような声がした。

 明らかにワイマではない。

「なっ!」

 ロズが、そんな声が聞こえた舟先にさっと視線を向けたならば、そこには羽を広げた一匹の奇怪な生き物がちょこんと座り込んでいた。

「うわあああああああああっ!」

 見たこともない生物の出現にロズは悲鳴を上げる。

「……驚かせてしまったか」

 そこにいたのは、翼がついた齧歯類(リス?)を思わせる魔物だった。リスの額にはまるで人工的に埋め込まれたかのような青い宝石がキラキラと輝いている。

「わっ、なんですか。これ!」

 ロズに背中をさすられていたワイマも魔物の存在に気が付いたようだ。

 もはや泣くのすら忘れて、驚愕に目を大きくしている。

「…………」

 小舟を包み込む奇怪な空気の中、これまた奇怪な風貌の魔物は鞭のように長い尻尾をぱたぱたとさせながら柔らかい声で言った。

「……我は水龍岬に住むカーバンクルという者だ。心配はいらない。それこそ、非力な魔物じゃよ。名前の由来のカーバンクルとは古い言葉で『小さな石炭』を意味する。それにしてもここは広大な運河だ。おぬしらの舟を見つけるのには少々、苦労したぞ」

 カーバンクルの言葉を聞いたロズは、この未知の存在に対して恐る恐る口を開く。

「え……。舟を見つけるのに苦労したってどういうことだ!? それにいま、水龍岬って言ったか?」

「そうじゃ。水龍岬から飛んできたのじゃ。というか魔女に派遣されてきた」

「なんだと!?」

「魔女はおまえたちを案内させろと、使い魔である我に指令を出した。だからそのためにわざわざ来たんだよ」

「そうなの?」

「……ああ。だから、これからおまえたちを水龍岬へと案内してあげよう。男よ。我の案内の通りにオールを漕げ。いいな?」

 カーバンクルの額に埋まった宝石が陽光を受けてぎらぎらと魅惑的に輝いた。

「……限りなく怪しいが、もはや一か八かだね」

「そうだね」

 ロズとワイマはそれぞれ顔を見合わせて頷きあった。

 どうやら覚悟は決まったらしい。

「ここは別名、魔のトライアングル(三角水域)と呼ばれておってな。普通の船舶が迷い込んだらまず抜け出すことができない。そのまま沈没するか、行方不明になるかじゃ。だから運河を通る連中もまず近づかないのじゃ。一隻の船もおらんじゃろう?」

 カーバンクルは悠々とした顔つきで説明する。

 そして、

「死にたくなければ我のあとに狂いなく着いてこい」

 翼をばたばたとさせながら舟を誘導するかのように飛び始めた。

 ロズは力いっぱい舟のオールを動かし、カーバンクルのあとを追う。

「ファイトだよー。ロズくん」

 ワイマの瑞々しい声援が続く。

 そんな声援も潮風に乗って、はるか遠くのほうへと流れては波音にかき消された。

「……くっ」

 だが、諦めることはできなかった。

 少年の動かす地図なき舟はゆっくりとしたスピードながらも流れに乗って、目的の水龍岬へと少しずつ、それでも確実に近づいていく。



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