第四話 神の住まう村1
静かな山間にひっそりと姿を現す隠れ里の如き村落。いまさら意味のないものだけど、ここは神鳴村と呼ばれていたのだそうだ。
村の名前を口にする者はいなかった。知っている人も多くないかもしれない。
そして――僕たちは神鳴村の外を知らない。ここですべてが完結している。誰も外に出ず、ほとんど誰も入っては来ない。
叢雲は数少ない客人だった。僕らが産まれる少し前、悠久の客人が訪れたそうだがその人はすぐに亡くなったらしい。そう考えると、叢雲は何十年かぶりの余所者なのである。
それが故にか、人々の視線はどこか痛々しくて、腫物を見るような顔つきで僕らを伺っていた。叢雲は秀星の服を頭にかぶって顔を隠しているから、顔がばれることはない。
上半身裸の秀星は珍しくないため、村人もそこを訝ることはなかった。どちらかと言えば、彼らは僕と客人の方を怪訝に見ていた。
僕へ注がれる視線は、いつにも増して白々しい悲痛なもの。確かに儀式の日は近づいている。けれど、彼らに何かが出来るわけじゃない。もちろん僕にだって何もできない。だからきっと、運命が違えば彼らと同じ立ち位置だったはずだ。
叢雲を伺う目付きは十中八九敵意の眼差し。
腫物、余所者、異邦の者。隔絶されたこの村において、異分子はまず歓迎されない。村八分の価値観ではなく、自分たちを害さぬために。
「なあ、神峰」
「ん? ああ加々島さん。今日は特に成果なし。また明日探してみるよ。備蓄はあるんだし、そんなにかっかしないでくださいよ」
「そうじゃない。お前……」
「こいつですか?」
加々島さんは秀星を顎で促し、僕たちから離れた位置で話し始めた。加々島さんの周りに僕らを見ていた村人も集まっていく。
「誰? あいつ」
「加々島さん。僕たちよりちょっと上の人で狩りの腕も立つ。秀星に狩りのイロハを教えた人なんだ」
「ふ~ん。秀星より強くは見えないな」
「僕もそう思う。けど、秀星にとっては先生だから、無碍にはできないんだ」
ひそひそと耳打ちで話し合う。
叢雲は頭の服を少しずらして外の様子を伺っているようだった。誰も叢雲の異質さに気付いていない。秀星たちとの話に夢中になっていた。
ただ、表情からして良い話をしているわけではなさそうだ。
「部外……だ」
「大丈夫……すよ。俺が保証……すんで」
「怖……わ。もしも……怒りだったら」
「みんな大人しく……でしょう? 気に……ないです」
「神峰くん。悪い……言わんから。もう彼と……はやめなさい。君が……だけだ」
「そんなこと……す。だって……ですから」
一通り話がついたのか、秀星が手を挙げてこちらへ歩いて来る。彼の背後に立ち尽くす村人は、僕たちを見てまだひそひそと話し合っていた。
「叢雲のこと?」
「それもある。まあ、早いとこ家に帰ろう。もうすぐ日が暮れる。今日の夜は寒いだろう」
ぽん、と。大きな掌が僕の背中を打つ。見上げて秀星の顔を伺うと、眼の合った彼は小さく寂しそうに笑った。
「行こうぜ。ほら叢雲も」
秀星は僕らを追い越して先々歩く。
僕らは遅れないように彼の後ろをついていった。
◆
「いつまでも虎丸と仲良くするのはやめておけ、だとよ。辛くなるのは俺だから。たぶん、あの人たちなりの精一杯の優しさと、贖罪なんだろう」
炎が赤々と立ち上る囲炉裏を囲んで、僕と秀星と叢雲の三人は座った。秀星は火の光を浴びて顔を赤く染めながら、火箸を使って丁寧に炭を動かし火力を調整する。
囲炉裏の炎は部屋を暖かくするだけでなく、部屋を照らす唯一の光源だ。叢雲は火を見たことがないのか、揺らめくソレをジッと見つめている。
闇の中に浮き立つ叢雲は、中性的な顔ながらもどこか女性を感じさせる風貌だった。髪を切り、女性用の着物を着ているからそう見えるのかもしれないが。
豪快に胡坐をかいているため、滑らかで肉付きの良い脚線が半分以上晒されている。本人は特に気にした風ではないのが余計に性質が悪い。彼女を見るたびいちいち緊張してしまう。
「ありがとう、秀星。それでも僕と居てくれて」
「馬鹿言うな。お礼を言うのは、俺の方なんだよ」
吊るした鍋からもくもくと湯気が立ち、味噌の甘辛い匂いが部屋を満たしていた。
既に炊けたご飯をひび割れた椀によそい、叢雲へ手渡す。じろじろ脚を見ないよう心掛けても、胸にも隙間が出来ているためこっちも不意に見えてしまいそう。かといって顔をまじまじと見つめるのもはばかられる。
気にしていない秀星が羨ましいと同時に、悔しい気持ちも沸き上がる。
「どうして? 僕は秀星に助けて貰ってばかりなのに」
「どうしてもだよ。……っと、そうだ。米ぬかがあったな」
秀星は部屋の隅に行き、大きな壺を持ち上げた。
その隙に差し出されたお椀をおっかなびっくり受け取る叢雲。これが何かわからないのか、上から見たり下から見上げたり、物凄く面白いことを繰り返す。
実際面白くなって箸を渡すと、思った通り握り込んで首を傾げた。
「叢雲は箸を使ったことがないの?」
「見たこともない。はしっていうのか、この木の棒が。何をするものなんだ。それにこの、虫の卵みたいなやつは」
「さすがに虫の卵って表現はどうかと思うぞ」
秀星が戻ってきた。壺を足元に下ろしてどっかりと座る。足で挟んで壺を固定し、蓋を開けて中に腕を突っ込んだ。
「それはお米。温かくてふわふわで、力の付く穀物。卵じゃなくて、栄養の塊だね」
「塊? これが?」
「そう。そして、手が汚れないよう掬い上げるために箸があるの。あ、あんまりつんつん突いたら行儀が悪いよ」
不思議そうに箸でお米をつつく叢雲。とりあえず箸の持ち方を実践してみせると、やはり勘が良く見様見真似でもすぐ形になる。身体を動かすことに関しては、叢雲の右に出る者はいないのかもしれない。
「秀星のやつは何をしてるんだ?」
「これか? こいつはな――」
壺の中に隠れた秀星の腕がズボッと音を立てて飛び出した。中から出てきたのは見た目が最悪に茶色い野菜と、どろどろに汚れた腕。見慣れたものだけど初めて見る叢雲にとっては衝撃だったようで、体が若干後ろに引いている。
もちろんそのまま食べるものじゃない。しっかり洗えば茶色い泥の中から綺麗な色の野菜が顔を出す。
「漬物だ。俺が丹精込めて米ぬかで作り上げた逸品だぜ」
「つけ……なに? なんだその泥団子は」
「泥団子って言うな。みそ汁と米と肉だけじゃ物足りないだろうと思って用意したんだ。一回で終わらせるつもりだったんだけど、思いのほか楽しくてな。つい何個も作っちまった」
「見た目はちょっとアレだけど、秀星の漬物は歯ごたえも深みもあるから美味しいよ。騙されたと思って食べてみて」
「騙されたと思うもなにも、これは騙されでもしない限り食べられんだろう」
「酷い言い草だが、かくいうお前は普段なにを食ってるんだよ」
「その辺の獣だとかを水で洗って食ってた」
「うそ!?」
「血抜きもせずにか!? 火も通さず!? よくお前生きてこられたな! てか人のこと言えねえよ!」
「何をそんなに驚くんだよ。確かに気分が悪くなる日もあったけど、オレにはそれが当たり前だったんだ」
「そっか。……ここにある温かいご飯、いっぱい食べてね」
「満足するまでたらふく食べろ。遠慮はするな」
「お前らの顔、なんか腹立つな。ぶっ飛ばすぞ」
ジトっとした半眼で睨みを利かせる叢雲。うん、この叢雲はあんまり怖くない。
秀星が漬物を切り分けて僕たちに配り終えると、緩やかに食事が始まった。僕たちは慣れた手つきで箸を繰りご飯を口に運ぶ。
きらきらと白いお米には良い塩梅で熱が通っている。少し硬めに炊いたのは秀星が好みだからだ。
お味噌汁の薄い塩味が疲れた体に染み渡る。葉野菜は食感を残すためにあまり煮立たせない。その結果、お味噌汁にシャキシャキとした楽しい噛み応えが現れるのだ。
秀星の作った漬物も食感の点では負けていない。米ぬかから取り出した野菜を水洗いすると、透き通った白い地肌に眼を瞠る。噛んだ瞬間に口の中を満たす塩味と水分。多少の苦みを打ち消すように、鼻と喉を旨みが駆ける。
だけど備蓄しておいた鹿肉が今日の主役だ。軽く塩で味付けして囲炉裏で火を通しただけの簡単な料理だけど、僕たちにとっては贅沢な品である。
塩や味噌は貴重品だ。米とか野菜を作ったり動物を刈ったりできても、調味料を生成するのは難しい。調味料をほとんど使わない日も珍しくなく、大盤振る舞いできるのは何かしらの祝い事があった時にのみ。
そう考えると、今日の食卓は祝いの席と言えるかも。薄味とは言えしっかりと塩が効いている。漬物は美味しいし。米ぬか造りのために秀星が頑張って刈りをするのも無理はないのかもしれない。
「う~ん……」
叢雲は僕たちの食事を観察することで箸の使い方やお椀の持ち方などを着実に覚えていった。漬物も食べられるのだと知り、コリコリと口の中で咀嚼している。
一つの料理を口に入れ、噛みしめながら宙を見る。考えながら喉を鳴らして次のお皿に手を伸ばす。
「あちっ」
湯気の立つお味噌汁を唇に当てた叢雲が、可愛らしい反応をする。片目を閉じて舌を出し、本能なのか冷ますために息を吹いた。
「口に合わないか?」
ニタニタ。秀星が厭らしい笑顔を浮かべている。聞かなくても判ることだ。なぜなら叢雲は、文句も言わずに目の前のお皿を空っぽにしてしまっているのだから。
僕たちで用意した持て成しの品を喜んでくれるのは、素直に嬉しい。
叢雲はあんまり素直な人間ではなさそうだけど。
「もうないのか?」
「いっぱいあるよ。どれにする?」
「ま、とりあえず全部」
「あはは。はい、ちょっと待っててね」
意地の悪い秀星を無視して、空になったお椀が差し出された。仄かに顔が赤いのは、彼女にも少しの照れがあるのだと思う。食いしん坊だとか図々しいとかではない。そもそもそんな感受性を叢雲は持ち合わせていないだろう。
単純に、料理に対して好印象を持っていなかったにも関わらず、認めざるを得ないところに恥じらいを覚えているのだと思う。闘いの場では評価を覆されることに喜びを感じるような人だと思うのに、それ以外では十分に女の子らしい感性の持ち主だ。今の叢雲は、牙を抜かれた虎に等しい。
「はい、どうぞ」
「ん」
山のようにご飯を盛ったお椀に対して瞠目することなく受け取り、お肉と漬物を咀嚼しながらみるみる平らげていく。お腹を空かせた時の秀星みたいな食べっぷりだった。
正しく前処理しなければ臭みが強くて美味しくない鹿肉さえも、臆することなく口にする。ちゃんと柔らかく焼けているから叢雲にとっては蕩けるような感覚かもしれない。
「美味しい?」
秀星の意地悪な問いかけとは少し違う言い回しで叢雲に問う。
叢雲は汁椀を傾けてお味噌汁を飲みながら、顔を隠して頷いた。
「ああ。止まらないのを『美味しい』と表現するなら、美味しいんだろうな」
本当に、牙を抜かれた獣のそれだ。耳を赤くして照れながら、お代わりを瞬時に平らげてしまった。
僕と秀星は顔を見合わせてくすくすと笑う。それがまた気に障るのか、叢雲は顔面を引くつかせる。
「素直じゃない女だな、てめえは。美味いなら美味いって言えばいいのに」
「だから言っただろ。オレは評価する言葉を知らなかっただけだ。ああ、全部美味かったよ」
「ほう、なるほどなるほど。じゃあ俺の泥団子みたいな漬物も美味かったってことだ」
「お前の泥団子は例外だ。食えたもんじゃねえ」
「とかいってお代わりして食いまくった挙句、空になった皿に箸を伸ばしかけただろ。俺は見逃してないぜ?」
「てめぇ……」
「認めろ叢雲、俺の漬物は美味い。村じゃそこそこ評判だし虎丸の好物でもある。虎丸と同じ顔のお前が、嫌いになれるわけがないんだ」
「そこの理屈はちょっとよくわかんないけど、美味しいし好きなのは本当だよ」
つーん、という音が本当に聞こえたみたいだった。そっぽを向いた叢雲は子供みたいだ。
否が応でも漬物を認めようとせずお代わりし続けた。
秀星のお小言が飛ぶ毎に、鍋の上を箸が槍の如く通過する。叢雲は目に見えぬ挙動で人骨さえも穿つ気概で箸を弾いたのだ。それを悠々と二本の指で受けとる秀星。
子供の喧嘩に等しいが、子供の喧嘩の領域ではない必死必滅の攻防戦。いちいち箸を受け取って渡す身にもなって欲しい。
そんなこんなで、賑やかな食事会もたけなわを過ぎる。お腹を満たした叢雲も秀星に噛みつく元気はないらしい。いや、元気がないというよりは、無粋であることを理解したようだ。
水を張った桶のお皿が、カラリと音を立てて崩れる。
耳をすませば静かな夜。
灰の燃える音が、一瞬の静寂で満たされた家に響いた。