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第二話 邂逅

 太陽が天辺を過ぎ夕暮れへと傾き始めた頃合いに、秀星たちは深い眠りから覚醒した。眠たい眼を手で擦り、気持ち良い微睡に支配される彼らの姿は、つい先ほどまで凄絶な死闘を繰り広げていた人間とは思えない。


 長い髪の毛をかき上げて気だるげに頭をひっかく叢雲は、胡坐をかいて大あくびをしている。花も恥じらう女の子という言葉があるにはあるが、これほどに当てはまらない人間もそういない。


 しかし一度起き上がれば早いもので、秀星は立ち上がると大きく体を仰け反らせ、寝起きの運動を終えた。


「叢雲はこれからどうするんだ?」

「お前より強い奴が村に居るんだろう? だったらオレのやりたいことは変わらない」

「じゃあとりあえず村に戻るか。俺も準備がいるし、急いてはことを仕損じるそうだからな。ただ闇雲に走っても、アレから逃れることはできないはずだ」


 秀星の視線が遠方を向く。


「アレ……?」


 村雲は首をかしげて反復した。秀星の視線の方角には、微かに丘の頂が見える。その眼が捉えるものは丘の頂そのものではなく、そこにある村を象徴する建築物だ。


「山の天辺になにかあるのか?」


 口を閉じ、決意を新たにしたかの如く拳を握る秀星。何を考えているのか、何を想っているのか、僕には少しだけわかるような気がした。それと同時に、小さな疎外感も沸いて来る。


「あそこにあるのは神社だよ。神様を祀っている格式高い場所で、この村の象徴なんだ」


 暗い心を打ち消すように、僕は黙ったまま社を見据えている秀星の代わりに応答した。


 叢雲の視線がこちらに動き、鋭い瞳が僕を一瞥する。心臓が跳ねる思いだったが、瞳の色に敵意はないことを知り一人安堵した。逆に彼女の眼には怪訝な色が備わっていて別の意味でどきりとする。


「ふ~ん、あそこに神様とやらがねぇ」


 のんびりとした相槌。叢雲の目線は未だ僕を離れない。


 不思議な気持ちだった。瓜二つの女の子に見つめられていると、凪いだ水面か研ぎ澄まされた刃を見ているみたい。自分とまったく同じ顔がこちらをのぞき込んでいるのだから、無理もないのだけど。


 それを叢雲も不思議に思っているのだろうか。彼女の眼は僕の奥底まで詳らかに覗いているかのように真剣で――。


「てか、お前誰?」

「え!?」

「ぶほっ!」


 思いがけない言葉が剛速で叩き込まれた。


 真剣だったのではなく、不思議だっただけなのだ。叢雲は僕を「誰だこいつ」と伺っていただけにすぎなかった。


 確かに僕の影は薄かったよ。さっきの闘いでも木陰に隠れていただけで、彼らの間に割り込むことはしなかったのだから、叢雲の視界に入らないのも無理はない。


 けど、眠りに落ちる前に少し顔を合わせたはずだ。一睡の後に完全に忘却するなんて、相当興味がなければ不可能である。


 僕なんて顔が同じで体格も似ているというだけで強烈に記憶に残ったというのに、叢雲にとっては殊更おどろくことではなかったということだ。


 さっきまで真剣な顔をしていた秀星も、お腹をかかえて笑っている。何故かみるみる顔が熱くなってきた。


「悪い悪い、笑うつもりはなかったんだが、叢雲の声音があまりにも興味なさげで耐え切れなかったんだ」

「オレはオレより強いかもしれない奴にしか興味はないよ。お前、見るからに弱そうだし」

「あはは……い、いいよ。その通りだから、ね」

「どうやら鳩尾に入ったみたいだな」


 ふむふむ、と観察する秀星。穴があったら入りたい。さっき得意げに神社の説明していたのがなんだか情けなくなってくる。


「まあそう卑屈になるな。叢雲、こいつは蘆屋虎丸。女っぽい顔をしているが立派な男で、俺の親友だ」

「親友、か。よくわからんが、ようは仲が良いってことだな。人間関係ってのは不思議なもんだな」


 ずいっ、と。叢雲の顔がほとんどゼロ距離まで近づいてきた。秀星の友達と聞き、興味が湧いたのだろうけど怪訝な表情は隠せていない。値踏みをするというよりは、確認しているという文脈が近いと思う。


 ただ、理由はなんであれ女の子に顔を近づけられても毅然としていられるほど僕は人間が出来ていない。叢雲は僕の顔だ、と言い聞かせても『女の子』の部分が邪魔をする。


 そして、叢雲には僕が持っていないものがある。


 若葉の香りだ。太陽の光を含んだ芽吹きの芳香。温かな優しい香りが、彼女の髪の隙間、布と肌の間からじわりと沸き上がる。背中を押してくれるような、安心できて、ほっとする温もり。自然に抱きしめられているとでも言うのだろうか。


 ――もう大丈夫。


 そんな声が、どこからか聞こえた気がした。


「だが叢雲。見誤るなよ」

「なにが?」

「強さってのは何も腕っぷしだけじゃあない」


 秀星が僕の頭をがしがしと乱暴に撫でる。叢雲の顔が離れ、安堵する一方で髪の毛が秀星の指に絡まりちょっと痛い。


 とはいえ少し感謝する。あれ以上長く女の子の目を眺めている自身はなかった。目をぐるぐる回して倒れるまで時間の問題だったと思う。


 そんな僕の心情を知ってか知らずが、秀星は叢雲に告げる。


「虎丸は強い。誰よりも俺が知っている」

「え?」


 不思議な台詞だった。僕自身が何一つそう思っていないのに、秀星は確信を持って、胸を張って、疑うことなく信じている。


 僕が強いなんて、そんなこと微塵もあるわけがないのに。


「そうかよ。じゃあ、試してみるか?」


 ビリ、と。叢雲の目つきが変わった。寒くもないのに大気が凍てつき、氷漬けにされたかの如く動けなくなる。


 呼吸をするのが辛い。空気が凍っているのに肺を満たす酸素は熱を持っている。汗が全身から噴き出して、服はぴったりと膚に吸着する。


 秀星は、こんな化物と真正面から対峙していたのか。それを全身に刻み付けられ、体の震えが止まらなくなる。


 叢雲の眼をまともに見ることが出来ない。視線を合わせた瞬間に僕は死ぬ。それは事実であり、空想ではない。


 殺気のみで人を殺せる人間を、僕は知らなかった。


 ――こんなことで、何も知らないで、僕は。


 膝が笑い、自重を支えられなくなる。噴き出した汗が止まらず、脱水症状の一歩手前まで枯渇する。


 視界が白み、意識が遠くに行きかけたその時に。


「だから、人の話を聞いてたのか? 腕っぷしだけじゃないって言ったばかりだろ」


 瞬間、氷結した大気が溶けていく。思いっきり息を吸い込むと、入ってくるのは灼熱の風ではなく穏やかな森の空気。秀星が諫め、叢雲が矛を下ろしたのだ。


「判ってるよ。オレもそこまで見境なしじゃない」

「本当かよ」


 秀星は頽れる僕の身体を支えながら軽口を叩く。秀星にとってはなんでもないことだったのだろうか。それを想うと、やはり僕は情けなく、頼りにならない人間だ。


 強くなんて、ない。


「立てるか、虎丸」

「うん、ありがとう。……情けないね、僕は」

「いいんだよ別に。これはお前のやるべきことじゃないんだから」

「僕の……?」

「ああ」


 秀星は朗らかに笑う。汗を流して、睨まれただけで倒れそうになった人間を侮蔑する貌ではない。その優しさに、僕は再び安堵する。


 ああ、秀星が居てくれれば何も怖くなんてないんだ。


 ずきりと軋む胸。心臓が悪いわけでは、決してない。


「にゃ~お……」


 三者三様の人間模様を描くこの空間に、桁違いに場違いな鳴き声が駆け抜けた。


 僕たちは互いに顔を見合わせて、何事かと周囲を観察する。


「明らかに、猫の鳴き声だな今のは」


 秀星の言葉にうなずく僕と。


「ネコ?」


 その言葉にまったく心当たりのない叢雲。


「なんだそれ?」

「猫っていう動物。四本足で、いつも気ままで自由な生き物」

「脚が四本もあるのか、そいつは不気味だ。にしてはずいぶん可愛げのある声を」

「お前その想像完璧に間違えてるぞ」


 確かに、今の言葉をそのまま受け取ると、叢雲が想像しているのは四本足で腕が二本ある動物、まさしく妖魔といっても過言ではない化生の類。叢雲が森の中で動物を見たことがないはずがないことを考えると、彼女は四本足の動物の脚を、脚だとは思っていなかったということだ。


 人間のように腕と脚があり、動物はいかなる理由か手足を地面について動いている、と思っていたに違いない。


「で、その生き物はどこにいるんだ?」

「こっちから声がしたな」

「心細そうな声だった。もしかしたら怪我をしているのかも」


 その方向はちょうど村への帰路でもあった。帰りがてらに僕ら三人は上や下、左右を確認して未だに響く鳴き声の主を探す。


 日は傾きかけているが、あと少しは目視で辺りを見渡せる。


 心細い。助けて欲しい。気ままで自由な猫が、恥を殺して助けを求めている。


 少しずつ声が大きくなってきた。か細い声の猫は近くまで迫っているようだ。


「おい、あれじゃないか? あの白いの」


 最初に気が付いたのは叢雲だった。薄闇の中でも輝く白い指を伸ばして、斜め上を見つめている。


 その指の先には一本の木があって、細い枝の中ごろに白い毛玉が乗っていた。


「綿?」


 秀星が首をかしげるのも無理はない。僕だけじゃなく、誰にだって綿に見えるくらいソレは白くて丸かった。綺麗な毛並みの白くて丸っこい綿。けれど、次の瞬間その綿は猫の鳴き声を発した。


「な~……」


 ひょっこりと、綿の中から仔猫の顔が浮き上がる。


「マジで猫だな」

「本当に仔猫だね」

「言っただろ、だから」

「いやあれは綿にしか見えねえよ」

「オレは脚が四本ないことにびっくりだよ」

「その想像、間違っているからね……」


 とにもかくにも、手のひらに収まるくらいの大きさの毛玉と思しき仔猫は発見できた。


 仔猫は怯えたように木の上に登っている。ぷるぷると小さく震えているせいで、か細い枝まで揺れていた。


「木の幹に引っかき傷がいくつもある。よっぽど焦って登ったんだね」

(しし)にでも出会ったか? にしてはそれらしい足跡はない。土は柔らかいし雨も降っていないからすぐに足跡が消えるとは考えにくい。ということは、何か怯えるような現象でも起きたのか」

「仔猫が怯えるような現象? 仔猫が怯えることってあるの?」

「地震や雷、もしくは化物にでも出会ったか――」

「化物……」


 僕と秀星はゆっくりと振り返り、叢雲を見る。唐突に中心人物となった叢雲は、しかし何もわかっていないようで、目をしばたかせた。


「オレ?」

「可能性は大だな」

「僕だって吃驚したもの」

「それを言ったら秀星だって同じだろ? 秀星の殺気で驚いたのかもしれん」

「だったら俺とお前の責任だな」


 小動物を助ける義理は、僕たちにはないのかもしれない。けれど見つけてしまったのなら見捨てることもできなかった。


 枝の上に登って震えている仔猫は、もしかしたらお腹を空かせてもそこにいるのかもしれない。


 地面は柔らかいけれど、まだ小さな体は合理的判断を受け付けない。この中で一番背の高い秀星が手を限界まで伸ばした状態より少しだけ高い位置にある枝。なるほど、その高さであの小さな体なら、想像よりも遥かに高所に感じるだろう。


「降ろしてあげたいけど、どうしても木に登らないといけない。それに、僕たちがここに居るだけであんなに怯えているんだもの。これ以上近付いたら落ちるかもしれないね」

「じゃあ落とせばいいんじゃないか?」

「真下に落ちてくれたらいいが、あの怯え方じゃあ難しい。もしかしたら明後日の方向に跳ぶかもしれない。いくら身体能力が優れている動物だからって、この高さなら怪我するだろうな」

「あ、虎丸が猫の真似しながら行けばいいんじゃないか? ほら、トラって猫なんだろ?」

「ええっと……僕が?」


 真っ直ぐな瞳で見つめて来る叢雲。


 確かに助けたいという気持ちはある。けど、実際に行動に移そうとすれば脚がすくんだ。なぜなら僕も木登りはできないし、高い所は得意じゃない。


 するすると、視線を秀星に送る。秀星は呆れて後頭部をかいていた。


「無茶言うな。真似してどうにかなるなら最初から自分でやってる。ていうかお前その偏った知識はなんなんだ」

「たまたま知ってただけだ」


 そう言うと、叢雲は仔猫に興味を失くしたのかすぱっと視線を切った。


「叢雲?」

「無理なら諦めればいいさ。そもそも怯えて木の上に登ったような奴に興味なんてない」

「こいつも好きで登ったわけじゃないんだぜ?」

「知ってる。だからだろ。進退窮まってガタガタ震えるなら誰にだって――」


 叢雲は唐突に言葉を切った。僕は叢雲の言葉に冷や汗をかいたが、彼女が最後まで言えなかったためにそれ以上の考えを放棄する。


「叢雲?」


 秀星も不思議に思ったのか、硬直したような叢雲に呼びかける。


 その直後――。


「虎丸殿。両手を前に出しなさい」


 苦悶のような、遠雷のような、諦観のような響きを持つ男性の声が、耳に入り込んできた。


 言われるがまま両手をそろえて前に出す。そこへ、一つの毛玉が収まった。頭上から落ちてきたもので、直後に僕の手の横を木の枝が通過する。


「え?」


 何が起きたのかまるでわからない。それは毛玉、いや、仔猫も同じのようで。人間に怯えていたのに、仔猫はなんの抵抗もなく僕の手に収まっていた。安心しているのではない。仔猫自身も、何が起きたのか分かっていないのだ。


 一瞬遅れて、白い毛玉の生き物が怯え直す。人間の温もりにぶるぶると震え出した。思い出したかのような反応は些か滑稽にも感じるが、この子にだって理解が追いつかなかったのだから仕方がない。


 仔猫は僕の両手を蹴って、お礼もなしに森の奥へと逃げていく。その怯えは、果たして人間が怖かったからなのか。それとも今起こった出来事があまりに不気味だったからなのか。獣の本能をも掻い潜る閃光は、確かに獣でなくても怯えて余りある。


「おい……なんの冗談だ、これ」


 叢雲の声が聞いたことのない性質を含んで森の中へ落ちる。


 冷や汗を滲ませた叢雲の口角が小さく上がった。睨みを利かせた瞳は秀星との闘いを思い出す。そこに一つの違和を唱えるとするならば、血を滲ませて震えるほどに強く握られた拳だろう。


 双眸が僕の背後を見据えて離さない。


 何が何だかわからなかった。なにより、叢雲からにじみ出る緊張感が空気を固形化させてしまい身動きが取れない。酸素でさえも凍り付き、あらゆる分子が動きを止めたことにより指一本も動かせなくなる。


 叢雲をこうまでさせる現象とは、いったいなんなのだ。


 硬直してしまった僕の肩を秀星が叩く。見ると、秀星も額に汗を浮かべていた。僕の知る限り最強である二人が、こんなにも震えている。


 そんなことはできる人物がこの近くに居るとするならば――それは。


「後ろだ。さすがと言うべきか、俺もまったく気が付かなかった」


 秀星に肩を叩いてもらい、緊張の縛鎖から解放された僕は言われるがまま振り返る。そこには一人の男性が立っていた。


 両足を地に付けた、凪のように静かな男。歩く音さえ穏やかで、瞳に激情を宿さない閑かな在り方。


 凪いだ湖面のように閑かな瞳は何も映さない。心に宿るのは苦悩か、或いは諦観か。男性には叢雲のような動の意識がなかった。欠け落ちて、擦り減って、摩耗したかのような静寂。永い年月の研耗を、風前の灯火を見ているようだった。


 千馬(せんま)兼久(かねひら)。村の中にしか存在しないお留流剣術『千馬慈眼流』現師範にして最高傑作とも云われる天下無双の大剣豪。その剣筋、神にも届くと言わしめた無二の剣術は天才と言っても過言ではない……らしい。


 還暦を過ぎて古希に到ろうかという老翁。華奢な体つきながら物腰はどっしりとしていて構えに隙が無い。ただそこに立っているだけ、なんの威圧も出していない。それこそ、僕たちや仔猫も気が付かなかったほどに。


 それなのに、認めてしまえば御覧の有様。


 僕も秀星も、叢雲も。地面に根を張ったように動けなくなってしまったのだ。


 千馬兼久はただ、ふらりと顕れてそこに立っているだけなのに。


「千馬、さん?」


 腰に差した一本の刃。鞘に収まったそれが、木の枝を斬り落としたのだろう。


 ならば、どうやって彼は僕らに近付いたのか。柔らかい腐葉土とはいえ辺り一面に落ち葉が散っている。踏んで歩けば必ず足音がするはずなのに。


 彼はいかにして枝を斬り落としたのか。もちろん刀を使ったのだろうけれど、一切の振動も与えず仔猫に悟らせもしない閃光とはいったいなんなのか。


 剣を抜く音、枝を切る音、納刀する音。総ての存在感をゼロにして、且つ一瞬にして事を済ませる神業。


「う……」


 だからこそ、背筋がゾッとした。彼の力があれば、僕は斬られたことにも気が付かず首を両断されていたのかもしれない。もちろん彼にその気はないだろうけれど。


 秀星と叢雲に視線を送る。もう彼らは僕を見ていない。視線は全て老翁へ注がれていた。


 気づいていたのだ。戦いに対しての筋が違う二人は、僕なんかよりすぐに気が付いたはずだ。


 馬鹿げた剣の技量に。気配を殺して近付いた老翁の領域に。


「よく受け止めた。仔猫が怪我をしなかったのは、貴公のおかげだ」

「あ、あの……はい。ありがとうございます」


 声を挙げるのもやっとの思いだ。威圧感はまるでないのに、千馬兼久という男の年季のせいか、年齢だけでなく彼の人生そのものに畏怖を覚えてしまい、まともな会話が出来ない。


 その断絶の具現に、ある少女が立ちはだかった。


「あんたが、千馬兼久?」


 僕と秀星は同時に眼を瞠った。まさかここでやり合うつもりなのかと、叢雲を牽制しようとする。しかし僕はまともに声が出せない。秀星も対峙した叢雲と千馬さんの暴力的な視線の鍔競り合いに横やりを入れられないようだった。


 叢雲は千馬さんを見上げ、千馬さんは叢雲を睥睨する。


 両雄の間に鍔鳴りと思しき音がして、空気が鋭利な刃となって森を満たす。少しでも気を抜けば断割される。叢雲は無手でありながら、互いに真剣を向け合っているかのような情景だった。


「虎丸殿によく似た顔立ちをしておるな」


 が、その時。千馬さんから気の抜けた台詞が零れ落ちた。刹那、張り巡らされていた刃の如き緊張感が融解する。


 無駄に肩の力が入っていた僕は、思い出したように深呼吸をして酸素を取り込む。喉が震えていた。尋常ではない汗をかき、体が水分を欲している。


「名は、なんという?」

「叢雲」

「どこから来た?」

「知らん。気付けばここに居た」

「なるほど……そういうことか」


 一人だけ納得したように呟くと、千馬さんは叢雲の脇を横切って村の方角へ歩き出した。闘う気はないようだった。


 老翁の背中が遠ざかっていく。こうして耳を欹ててみても、やはり足音は聞こえない。その静けさはまるで幽霊だ。


 最後まで見送ってしまったが、結局千馬さんは一度も振り返ることはなかった。


 叢雲の方へと駆け寄る。もう体に震えはない。彼がいなくなったことで静かな重圧から解放された僕たちは、歩けることへの幸せを痛感していた。


「お前、あんまり無茶なことするなよ。あれは千馬兼久だぜ? 生半可な覚悟でぶつかってどうにか出来る相手じゃない」

「そうだよ。立っていることだけでも凄いけど、あんな剣技見せられたらどうしようもないって」

「ああ。わかってるよ」


 不思議な返答だった。僕と秀星は顔を見合わせて首をかしげる。勝ち気な叢雲にしてはかなり弱気だと思ったからだ。


 直後、叢雲の手が僕の手を握った。


「いっ!?」


 一気に足元から顔面まで真っ赤に染まるような感覚。心臓が飛び跳ねて別の意味で飛び出てしまいそう。


 叢雲は僕と同じかもしれないけど、心なしかその掌は小さくて、華奢な女の子を彷彿とさせる。どれだけ強くても、叢雲だってれっきとした女の子なのだと実感する。村の女の子ともろくに話したことがないし、まして手を握ったこともない僕は、初めて受け取るこのふわふわとした感触を飲み込めずにいた。


 そもそも叢雲はどうして僕の手を握ったのだろう。それがいまいちわからない。技をかけられるわけでもないし、手を強く握って痛がる僕を笑うわけでもない。ぐっしょりと濡れた掌を僕に差し出した叢雲は――。


 え、ぐっしょりと濡れた?


「お前と同じだよ、虎丸」


 睨むように笑う叢雲が、震えていた。なにより驚いたのは、あんなに不敵だった彼女の手が、僕と同じくらい汗に濡れていること。あの叢雲が? 秀星に勝った女の子が?


 混乱で理解が追いつかない。けれどこれは紛れもない現実で、動かしがたい事実で。


 なら、こういうことだ。叢雲は、千馬さんと対峙して僕と同じくらいの恐怖にかられていたということ。


「あれは化物だ。目の前に立つだけでも怖くて吐き気が止まらない」


 なら、どうしてそんなに楽しそうに笑えるのだろう。なぜ、その瞳の炎は消えないのだろう。怖いはずなのに、逃げ出したいと思っているはずなのに。


 どうしてこんなにも、挑むことに焦がれているのだろう。


「あいつからは、オレと同じものを感じる。飢え続けた獣の臭いだ」

「どうするつもりだ?」


 秀星の言葉に、


「絶対にオレが倒す。オレは、そのためにここに居る」


 力強く、確固たる決意を持って応じた。


 掌が熱くなった。叢雲の手が、僕の手を握っていることも忘れて握りしめたのだ。


 叢雲はすごい。女の子なのに、自分の力で生きている。この先がどれほど困難であれ、翳ることなく迷うことなく、真っ直ぐに前を向いている。


 この手のように、恐怖を抱いて汗を拭き出しても。決して違えることない強固な道程。


 胸が痛かった。胸の痞えが呼吸を邪魔する。


 楽になるまで、僕は縋る様に叢雲の手を握っていた。


 叢雲が不思議そうに眺めていたことを、僕は知らない。



     ◆



 森の中を千馬兼久は歩いていた。先ほど出会った三人の若人を思い浮かべながら、村への帰路を進む。


 蘆屋虎丸は、今年度の儀式の主役だったはず。儀式の現役から退いた兼久にも、そういった情報は回ってくるから知っていた。辛い役回りだが、村の存続のためであれば致し方ない。そうやって、仕方がないという気持ちで逃げ延びてきたのがあの村なのだ。それに、もはや兼久にはどうすることもできない。神へ跪いた彼には、もはや。


 神峰秀星は虎丸の護衛だろう。一目見ただけで腕が立つとわかる立ち振る舞い。千馬慈眼流の道場を叩いていれば、或いは兼久を超える剣術家になったかもしれない。とすれば、随分と惜しい人材だ。武人は直立するだけでその才能がわかるというもの。秀星は、産まれながらの天才と云えるかもしれない。


「そして、叢雲殿――か」


 ぎち、ぎち、という軋むような音が兼久の耳に届く。どこから鳴っているのかわからず、周囲を見渡した。


 それが自身の手から鳴っているのだということに、一分以上の時間を要した。視線を左手に落としてみると、不思議なことに兼久の左手が剣の柄を力強く握り込んでいた。


「ふ、ふふ……くくく」


 村への道を歩きながら、千馬兼久は微笑する。笑ったのは、何年ぶりのことだろうか。道場生のために作った笑顔を浮かべることはあるものの、心から沸き上がる止められない笑顔を浮かべたのは、もう数え切れないほど昔だったように思う。


 抑えきれない。堪えられない。兼久は自身の口元に手を当てて、口角が上がっていることを確認する。


「鯉口を切った、か。まさかこの儂が、初対面の人間相手に」


 それが不思議でならないと同時に、当然だとも実感する。


 兼久の手は汗に濡れていた。寒くもないのに体が震えている。こんな感情を抱いたのは初めてだった。千馬慈眼流を収め、村一番の剣術家と持て囃されて何十年。どこまでも上り詰め、結果として彼は最強の称号を物とした。


 けれど、彼が欲しかったのは最強なんかではない。彼は、その求めるもののためにひたすら剣を振り続けた。そんなものが、決して訪れないと心のなかで理解していながら。


 それでもいつか、もしかしたら、と。


「叢雲殿。もしも貴公がそうであるならば。いずれ儂は貴公と――」


 後戻りは許されない極限の最奥にて――果し合いたいものだ。

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