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第一話 迷いと意志の激突3

「お前、その二つと闘う気なのか?」

「ああ。お前を倒した暁に、オレは千馬兼久と神様とやらと果たし合う」

「どうしてだ? 何がお前をそうさせる?」

「オレにはそれしかない。オレは、オレが誰なのかもわからない。両親の名も、どこで産まれたのかもわからない。だけど強い奴と闘いたいという欲望だけはある。この身を焦がす灼熱だ。闘って、勝ちとる。それがオレだ」

「無理だ。アレは俺なんかとは比べ物にならな――」

「無理じゃない」


 間髪入れない返答だった。


 呆れもしないし、うんざりもしない。


 だってそれでこそ――お前だろうよ。


 叢雲は信じている。自分の力を、自分の心を。それを無知だと、我儘と捉えることもできるだろう。現実を見ていない、子供の夢想と吐き捨てることも可能だ。いや、多くの者がそう笑う。


 けれど、それでも。


 虎丸は、自身と同じ顔をした、自身と同じ姿をした少年に畏怖と憧憬を感じていた。同じ体格であるにも関わらず、彼はひた向きに真っ直ぐで、燃えるように雄々しくて。自分のことがわからなくても、胸に抱いた理想に背を向けない。真っ直ぐに、どんな壁が待っていようともその眼は翳らず闘志を燃やし続けるだろう。


 その強さに圧倒された。その純粋さに憧れた。それと同時に苦しかった。胸を裂かれる想いだった。その意味は、まだ虎丸にはわからない。


 秀星は叢雲の啖呵に胸がすく思いだった。その答えが来るのを待っていた。叢雲、お前はそういう奴だよと、改めて認識する。どんなに相手が恐ろしくても、どんなに挫けそうになっても、その心を薪として火にくべられる。


 恐怖を抱いてどこまでも強くなれる。


 そして、ただひたすらに強い奴を求める。馬鹿正直に自分を疑わず、どこまで歩いていく。


 ――怖かったんだ。だけど、忘れてなどいない。自身の不甲斐なさを、弱さを何にぶつけていいのかわからなかった夜は終わりだ。虎丸……もう一度、俺は!


 恐怖心を火にくべろ。迷いと悔いよ燃え盛れ。


 無垢で純粋な願いが、無垢で純粋な夢と呼応する。


 小さな火が新たな火種を受けて粉を散らす。


 灼熱の闘志と、蒼炎の闘気。


 今一度、自身の夢のために大地を踏んだ。もはや弱い自分はここに居ない。


 お前が呼び起こしてくれたんだ。お前が火をくれたんだ。


 瞳が、拳が、大気が熱を持ち両雄の間で爆ぜた。


「やろうぜ、叢雲。俺を斃せなければ、千馬兼久にも神様にも勝てやしない」

「言われなくともそのつもりだ。お前は強い。オレが最初に超えるべき――敵だ!」


 渾身一閃――大気を斬り裂く正拳が互いの肩を打突する。


 遥か彼方の大陸に伝わる陰陽図。互い違いの螺旋のように、二つの拳鬼は絡み合い狂い咲き、想いを込めた一撃を叩き込む。


 叢雲という少年は、それこそ掛値なしの兵だ。自身よりも大きな男の前であれ、怯まず弛まず退かず。ここぞという空隙を見逃さない。必ず前へと歩み寄る。


 拳を交わし、汗が散り、血肉が沸いて身が踊る。


 柔の中にある圧倒的な剛。二つの旋風が何十合もの打ち合いをかわす中で、秀星が抱いた叢雲への感想だ。この二人の打ち合いは、十人の外野が見れば十人が秀星の勝ちを確信する。だが闘っている本人はそう思わない。そう思えない。


 華奢で、柔軟で、小さな体の持ち主はその身に灼熱を宿した鬼なのだ。


 剛力なる腕、脚、そして魂。心技体の総てを高い次元で収めた叢雲。なるほど、体の大小など関係なく渡り合えるわけだ。


 真っ直ぐに、馬鹿正直に、根拠なく。


 我が魂の赴くままに、自身の願いに背かずに、あらゆる壁を贄として。


 闘志という名の轟炎を燃やし続ける獣の名。


 叢雲。


 その眼の美しさに、その心の高潔さに。一人の男が呼応した。俺もやって見せると、燻った灯が炎柱となり咆哮する。


 だからこそあとは、納得の往くまで殴り合うのみ。


 交わした拳は五十を超え、放った脚は六十を凌駕した。


 青痣と出血をものともせずに、彼らは純粋に力を較べる。


 一人は――強い者と闘うために。


 一人は――暗闇を照らしてくれたお前に報いるために。


 下段蹴りを跳んで躱した叢雲は、間髪容れずに首元へ回し蹴りを叩き込んだ。その様は大ゴマか、竜巻か。


 いずれにせよ風圧をはためかすほどの回し蹴りならば、直撃を許せば頭に障害を残すであろうことは明白。


 だが抗って見せると豪語して、疾風の鎌を己の信ずる剛腕で受け止めた。


「ぐ、くぅう!」


 片目を閉じて小さな悲鳴を零す。骨の軋む音が耳の中へとなだれ込む。


 休む間もなく腕を垂直に持ち上げた。


「ぜぇああ!」


 号砲と共に肘を落とす。蹴り脚の膝を叩き割るべく、鳶の滑空もかくやの疾さで。


「シィィイイイ!!」


 次いで煌めく疾風怒濤。砕かせまい――その一心が叢雲を突き動かした。


 蹴り脚とは逆の脚が爆ぜる。銃弾のごとくはじき出された脚撃は砲弾と言って差し支えない。動体視力では追いかけられない一瞬の閃光は回避行動を断じて許さない。


 わかっている。だから青年は避けようとしなかった。彼がとった行動は、あくまで力を最小限に殺すこと。


 つまり、自ら後方へ飛ぶことで受ける力を相殺するのだ。


 ――読んでいる、か。


 少年の顔が笑った。


 ――お前ならきっとこうするだろうからな。


 後方へ飛びながら応える。


 着地と同時、叢雲の側頭部へと肉薄する中段回し蹴り。うねりを上げるような、猛獣の雄叫びのような音をかき鳴らし、頭蓋をかち割る鞭が跳ぶ。


 今度は逆に、細腕がこれを防ぎきる。衝撃が周囲に離散して、落ち葉と土が煙の如く舞いあがった。軽い身体がわずかながら浮き上がる。骨の軋む痛みに目を細めながら、彼の表情は全体として崩れない。


 拳が開いた。受け止めた足首に腕ごと絡み付き、腕ほどもある足首を捻り、挫き――。


「そうは――させるか!」


 身体を足首の捻れる方向へ強引に転回する。


 だが、それだけで終わるほど彼は人間として優しくない。まして、戦いに身を投じた者としてできることをやらずに勝利の道はない。


 回転力を利用した水平方向の踵落とし。脚で薙ぐ居合斬り。空気摩擦で火花さえ散りそうな疾走が少女の側頭部へ迫りくる。


 質量をもったつむじ風。真空刃の如き破壊の権化。


「でも、風は風だ――ッ!」


 間一髪で足首を離し、前へ出る。渦を描いて舞う風ならば、中心には無風の地帯が広がっている。後ろに下がっても風に体を裂かれるならば、微風の中へと踏み込めばいいだけのこと。


 しかし、これは素人の蹴りではなく神峰秀星の放つ剛嵐だ。例え脚の付け根、風の中心であったとしても力をゼロに殺すことは不可能である。


 移動が間に合わなかった脇腹に、踵ではなく膕が痛撃する。


 間に合ったと笑みを浮かべた叢雲。しくじったと苦悶を露わにする秀星。


 再び違和感が浮上する。叢雲の身体は虎丸と同じく華奢で柔らかい。しかし、時折その膚が岩か鉄にでもなったかのような剛性を得るのだ。


 さきほど味わったものが岩であったならば、今度のは鉄だった。鉄板を蹴り飛ばしたかのような痛みが駆け抜け、疑問は大きく膨れ上がる。


 されど考えている暇はない。その間にも兇猛な鬼は次の一撃に備えている。


「硬い、か。いったいどこまで硬くなりやがる……!」

「もう少し痛くなるまでなッ!」

「つまりは次があるってことだ」

「そうさせたのはお前だろ。そしてお前が初めてだ」


 言葉を切ると同時に、叢雲の足蹴が後頭部へと襲い掛かる。怖気が奔る殺意の塊。爪先をかち上げる閃光が、球を蹴るような気軽さで解き放たれる。


 地面に後ろ手を付き、上体を前方に弾き飛ばしてこれをいなす。後頭部すれすれを駆け抜けた爪先が後ろ髪を剃り上げた。あと少し対応が遅れていれば、本当に危なかったかもしれない。


 死の悪寒が駆け抜けた。


 ――死にたくない、か。そうだ、俺はまだ死ねない。この心に、猛る焔があるのなら!


 振り向きざまに拳を握る。片足を大きく振り上げて空隙を作った叢雲へ、腰の捻りを加えた拳打をぶち込むべく。


 踵落としは怖かったが、先に入れるか残った腕で防げばまず問題ない。確かに叢雲の細い体から放たれる非常識な力には慣れないが、判っていれば耐えられる。


 体を鉄の如く硬化できる技術も不思議だった。けど何一つ理解できないわけじゃない。


 おおよその見当はついたものの、核心にまでは至らない。故に、今はその事象をそのまま受け止めよう。身体を鉄にするならば、鉄板をぶち抜く力で拳を放てばいい。次があるというのなら、その次を出させないまま倒せば勝てるのだ。


 この一撃にかける。例え叢雲の願いが純粋なものであったとしても、神峰秀星を斃せないようなら先はない。


 本気の彼に返すためにも、手を抜くことなどできようはずもない。


 だから、だからこそ――。


「な――にぃッ!?」

「え、あ、れぇ?」


 その光景はあまりにも意外すぎて、あまりにも考えがまとまらなくて、あまりにも混乱が大きすぎて。


 拳を握ったまま、秀星は口をあんぐり開けて停止する。


 木陰に隠れて伺っていた虎丸は、口から心臓が飛び出した。


 二人とも驚愕に目を剥いているが、見ている部分は等しく同じ。照れ隠しで顔を逸らすなんて殊勝な行動は、本当に驚いて腰を抜かした状況ではかなり難しいことを、このとき二人は痛感したのである。


 ボロ布を纏う叢雲は、二人とは対照的に一切表情を歪めない。どころか、それすらも好機と受け取ったらしく天高く降り上がった踵に力を集中させる。


「キミはッ!」

「お前ぇ……ッ!」


 秀星は無意識のうちに腕を上げた。斧が如く振り下ろされる踵に対応するために。驚愕の中にありながらも闘いは辞めない、彼らしい無意識下の行動だ。


 けれど、虎丸は直感的にそれを良くないものと悟った。あれは、防いではならない。躱さなければならない。なのに、言葉が出てこない。顎が外れてしまって声が出せないから伝える術がない。


 長い髪の毛の隙間から微笑を浮かべた叢雲の眼が覗く。やはり、少年はこの状況に一切躊躇いを持っていなかった。逆に、吃驚している二人の方がこの中では異端だと言わんばかりに。


 脚が大きく振り上がっている。ボロい布きれしか纏っていないみすぼらしい少年。大股を広げればすぐにその中が見えるのは当然の事。


 それ故に二人は腰を抜かした。


 虎丸と同じく中性的な顔をしていて、虎丸と同じく少し高めの声をしていて、虎丸と同じ背丈だからこそ、彼らはまったく疑いを持たなかった。


 しかも、驚異的な力を持つ鬼に対して、そのような考えを抱くことさえなかった。自分のことを『オレ』と呼ぶのだから、疑ってかかるなんてどだい無理な話で脳裏にも過らない。


 なので、なので――なので!


 蘆屋虎丸は顔を真っ赤にして、


 神峰秀星は青ざめて、


 二人一斉に大声をかき鳴らした。


「女の子!?」

「女ぁ!?」


 そう、大股をかっ開いた叢雲の股下には、あるべき(と思っていた)モノがどこにもなかったのだ。


 小さいだけとか、去勢しているとか、そんなちんけなものではない。本当に、どこにも、何にもない。


 初めて見た虎丸は、残念ながら鳩が豆鉄砲を食ったように固まるばかりで記憶に焼き付けることができない。再三になるが、本当に驚いた時は意外となんにもできないものである。


「知らなかったのか? まあ、だからと言って何が変わるでもなし」


 あくまで厳めしく続ける叢雲。彼――彼女には恥じらいがない。なぜならば、恥じらう意味を知らないからだ。ボロ布とはいえ服を着ていたのは寒さを凌ぐためでしかなく、体を隠す意味で纏っているものではない。


 ルールを知らず、意味を知らず。知識がない故に自身の姿に疑問を挿まない。男女という性差は知っていても、それが何をもたらすものであるのかまでには至らない。そもそもが、男であろうと獣であろうとその身一つで打倒してきた。男と女を知っていても、それを意識する機会は一度として訪れなかったのである。


 言うなれば、旧き伝説にある『人間』のように。知識の実を口にしなければ何も知らず、恥じらいを覚えることもなかった原初のヒト。


 ただまあ、それにしては少々わんぱくが過ぎるきらいがあるか。


「……くッ、馬鹿か俺は! こんなことで取り乱す奴があるか!」


 叢雲の股下から視線を外して天を衝く脚に眼を向ける。硬直時間が長すぎた。もはや回避は不可能。防ぎきるしか術はない。


 少女の驚異的な筋力は知っている。そして、こちらの想像を凌駕する可能性も否めない。

確実に防ぎきるため、防御に回した左腕の直下に右腕を宛がった。


 その瞬間、背筋に確かな怖気が奔る。


 ――見誤った、か……。


 直感的にそう悟った。手遅れであることを理解していながら、彼は自身の視界を覆い始める少女の脚を眺める。


 動体視力を凌駕した閃きが、直線状に迸った。天から地へ、一本の槍を描きながら飛来する踵の一撃は、容赦も嗜虐もなく肩口に叩きこまれる。


 稲妻のようだ、と。虎丸は耽ってしまう。それほどに、かの一撃は鮮烈で、光を放つものだった。雨でもなく、遠雷が聞こえるわけでもない。けれどこの眼には、それが確かな煌きを持つ『稲妻』に見えたのだ。


 怖くて、荘厳で、それでいて輝かしい。夜の闇を斬り裂く剣のようで。


「か――ッは!」

「秀星!」


 確かに防いでいた。あの軌道ではどう足掻いても秀星の腕が叢雲の脚を捉えるはず。それが摂理であろうとも、現実として叢雲の撃鉄は撃ち落とされた。


 虎丸の予感は的中し、秀星の直感は事実となる。


 意味が分からないことだらけだった。


 叢雲との出逢い、おかしな体術と、身体能力。何から何までわからない。


 だけど、と。秀星は膝を付きながら、体を沈ませながらもこう想う。分かることも少しだけあったな、と。


 互角に渡り合えても、アレはすぐに凌駕してくる。力を秘めているわけではない。少女はいつだって全力だ。曇らず、疑わず、信じている。今この瞬間の、最強の自分を。


 無垢に、純粋に。生まれたての赤子のように。自分こそが最強であると驕っているのではなく。最強の自分を――全身全霊で。


 そんな人に惜敗を喫したからこそ悔しくはない。全力に敗けたし、全力で敗けた。 


 ――俺の、敗けか。だけど……なんだ。いやに清々しい気持ちだよ、虎丸。


 木陰に隠れた虎丸に視線を送りながら、体を地面に倒した。もう立ち上がる力は残っていない。最後の一閃は、正直なところわからない。防いだつもりなのに、まるで消えたように防御をすり抜けて直撃した。いかなる体術か、それとも神業か。秀星には、あと数十打ち込んでもそれを凌駕できるとは思えなかった。


 その時点で、彼の明確な敗北だった。


 悔いはない。出逢えてよかった。灯に火種をくれたから。恐怖で脚がすくんでいたこの身を奮い立たせてくれたから。


 その眼が、真っ直ぐな心が、己を信じ己の脚で歩む魂が。


 だからこそ、後悔など微塵もない。


「秀星!」


 震える脚を懸命に動かして、虎丸は秀星の傍へと駆けつける。


 嫌な予感は的中した。あの踵落としは確かに腕をすり抜けて肩を穿った。その瞬間に虎丸は、彼女の閃光を『稲妻』のようだと錯覚した。


 見惚れていた、と言ってもいい。


 彼に危険が迫っているにも関わらず、虎丸は自身と同じ顔をした少女の体捌きに射止められていた。


「秀星! 死んだら――ッ!」


 いけない。


 どうして? 虎丸は自問する。胸の痞えが再び励起し、呼吸が荒くなっていく。


 友達の死を厭うのは当然のことであり、死んでほしくないからこその友達だ。であれば、秀星の死を否定したくなるのは至極当然で間違いではない。


 なのになぜ、このようなひねくれた思考に陥るのかわからなかった。


 秀星の隣で膝をつき、覆いかぶさるように彼の身体をまさぐる虎丸。脈を測って生存を確かめたかったが、震えが止まらずに巧く測ることが出来ない。震えを止めようと思えば思うほど、それは大きくなっていく。


 悲しいならば、隠れていないで出ていけばよかったのに。


「秀星、死――!」

「死んでないぜ、そいつ」

「え、あ……」


 叢雲の言葉が下りて来た。綺麗な言葉は胸に沁みこみ、体の震えが消えていく。


 死んでいない。


 冷静になった虎丸は、指先を秀星の手首に宛がい確実に脈をとった。確かに、指先にはどくどくとした生命の呼吸を感じる。


 良く見ると胸は柔らかく上下していた。眠っているだけで、致命傷を負っているわけではなさそうだ。


 純心に満ち満ちた子供の横顔がここにある。


 そういえば、こんなにも安らかな表情はあまり見たことがなかった。ずっと苦しそうで、ずっと泣き出しそうだった友達。


 それが今、こうして安らかに寝静まっている。


「良かった……」


 深い息をついて、胸をなでおろす。


 掌が熱い。見てみると、虎丸は秀星の手を強く握っていた。それこそ砕けそうになるほどに。


 失うのが怖いから、離れてしまわないように繋ぎとめているのだろうか。


 だとしたらそれはなんて矛盾しているのだろうか。


 今はまだ、虎丸にはその矛盾を受け止めるだけの力がない。だからこそ、彼は気が付かないように気を逸らすしかなかった。


「さすがのオレも疲れたな」


 それを手伝ったのは叢雲だった。偶然とはいえ、虎丸の気を紛らわせるにはこれ以上ない人物である。


「こんなに気持ちが良かったのは初めてだ。面白いな、此処は」


 叢雲はボロ布の服を容赦なくはだけさせ、仰向けになって目を閉じた。普段から森の中で寝泊まりをしていた彼女にとって、野生はそれほど脅威ではない。無防備にお腹とお臍をさらけ出して眠るのも当たり前である。


 とはいえ女性である。いくら自身と顔つきが似ているからといって、肌を露出させて寝られてはたまったものではない。虎丸は滑らかながら凹凸のあるお腹を見ないようにして、布を引っ張り一時的に肌を隠した。


「秀星も……女の子も寝ちゃった」


 村に戻って運べる人を呼ぼうか。しかしそれでは二人をこんな森の中、村の狩場の真中へ放置することになる。二人に限って心配はないかもしれないけれど、置いていくのはためらわれた。


 幸い日はまだ高い。起きてから行動しても日暮れにはならないはずだ。


 虎丸も近くの樹木に背を預け、一休みすることにした。彼らの闘いを見ていただけなのに、精神的には疲労困憊状態なのだ。


「情けないな、僕は」


 二人の間に入ることが出来なかった。危険を承知の上でも、止めに行くことが出来なかった。もしも秀星が叢雲を女の子だと気付かず闘い続けていれば、或いはどちらか死ぬまで続いていただろう。


 それでも二人は、今こうして安らかに眠っている。命を懸けたにも関わらず満たされていた。


 それは、互いに矛盾をはらんでいなかったからだ。命を賭しても貫きたいもの、譲れないもの、裏切れないもの。


 本気を出して自身の心に準ずること。


 それがあったからこそ、彼らは――。


「だけど……僕にだって」


 あるはずだ。捨てきれない夢、命を懸けても叶えたいもの。


 それなのに、今もこの場で燻っている。


 心臓がきりきりと痛む。胸にしこりができたみたいだ。


 いや、この痞えのようなものはずっとここにあった。ここにあって、隠れていた。


 叢雲と出会い、秀星との激闘の果てに、この痞えが励起したのだ。


 虎丸は縮こまるように膝を抱いて座る。交差させた肘の上に頬を重ね、安らかに眠る二人を眺めた。


 彼らの吐息は、未だ意識を浮上させる兆しを見せない。

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