第一話 迷いと意志の激突2
両雄は互いを理解し合うため再び拳を叩き込んだ。
武闘の天稟、神峰秀星。剛腕から放たれる正拳突きは、先ほど叢雲が見せたものと等しく迅い。空気の壁を叩きつけたが故に弾き出された風圧に、叢雲の髪が大きく靡く。
小さき兇獣、叢雲。自身の武威に並ぶ者など、果たして出逢ったことがあっただろうか。獣、野盗、何もかも。叢雲にとって取るに足らない相手であった。誤ることなく一撃で屠れる障害だ。
けれど、秀星は違う。これまで出会った何者も隣に立つことのできない男。故に闘う価値があり、我が胸中を満たす可能性を持つ。
叢雲は速度を緩めず懐へと飛び込んだ。迫りくる拳を一切顧みない拙劣たる動き。しかし速射砲の一撃は顔面をかすりもしない。
洗練されて無駄がない故に判り易い射線。真面目に生きてきたが故の馬鹿正直さであるのだろう、秀星の眼の動きや力の入り方は手に取るようにわかる。
事実、叢雲は体を前傾させることで剛腕をいなしていた。
「正直者だな、叢雲」
その直後、秀星の膝が顔面へとかち上がる。
「うわっ!」
頓狂な声を挙げたのは虎丸だった。見ている側が凍り付くほど遊びのない膝上げ。虎丸はここで確信した。秀星は本気で闘っているのだと。
だからこそ恐ろしく、手に汗を握る。彼に本気を出させる相手が、自分と同じ矮躯をしているなんて。
叢雲の背中が語っている。体格なんざ戦いにおいて関係ないと。
微風を感じた叢雲の眼前に迫りくるは、容赦なき破砕の鉄槌。避けなければ鼻っ柱をへし折られるどころか、陥没して再起不能になることが火を見るよりも明らかだ。
叢雲は既に動いている。途中で前傾の軌道を変化させたところで、上から見ている秀星が見過ごすはずもない。
「お前も正直者だよ、秀星」
叢雲の後頭部がささやいた。言葉の色に翳りはない。
楽しそうに、歌うように呟く叢雲は、迫る膝と自身の顔面の間に右手を滑り込ませて受け止めた。
「読んでいたな」
「どこまでだと思う?」
秀星の膝は止まらない。叢雲の手の平ごと押し潰す気でさらなる力を込めて打ち上がる。
それで終わりではない。
後頭部に狙いを定め、力を溜めた肘を叩き落す。相手が人間であることも考慮に入れない圧殺の打突。そも、殺す気でなければ叢雲の後ろ髪も握れない。
それを見抜いていたかのように、叢雲の身体が浮き上がった。秀星の膝上げを推進力として利用した跳び上がり。彼女は地面を蹴り、自らの力と秀星の力で跳び上がる。
肘による一撃は風切り音とともに空を切った。
跳び上がった叢雲が秀星の頭上を越えて背後へと着地する。逡巡もなく片足で跳び上がり、腰を捻りながら延髄へ飛び回し蹴りを解き放つ。
後ろに目でもついているのか。背後の挙動を一切漏らさず、秀星はほとんど同時に後ろ回し蹴りを放っていた。
竜巻と竜巻のぶつかり合い。腐葉土にひしめく落ち葉は秀星と叢雲の描く逆回転の円弧状に舞い上がり、まさしく局地的な暴風が巻き起こったかの如く荒れ狂う。
爆風と共に互いの閃光がぶつかり合う。
これがお前の力か、と両雄は堪え切れないとばかりに微笑を零す。痛くないわけではない。単純な話、痛覚を上回る歓天喜地が蠢いている。
骨の軋む音、魂が過熱する音が虎丸の元まで届いてくる。見ているだけなのに汗が出る、喉が渇く。脱水症状が迫ってくる。
人と人の、いや、鬼と人との闘いが、ここまで高度な攻防一体を見せつけるのか。
少しずつ、虎丸の胸中にある引っ掛かりが沸き上がる。
それは決して今しがたに起こったものではない。秀星の後ろに立ち、こうして木陰から見守るたびに、少しずつ湧き出てきたもの。
泡のような、泥のような。それを言語化することはできないけど、胸のしこりは大きくなっていく。
煌めく者の激突が、己の卑劣を責め立てる。
「僕は、何を――」
その独白は、しかし嵐と化した彼らには届かない。この胸に飛来した形容しがたい痞えを抱いたまま、二つの星が激突する様を見守ることしかできなかった。
――僕は、なんのために産まれてきたのだろう。なんのために生きているのだろう。
叢雲の横顔を注視しながら思索した。
この身には夢がある。叶えたい望みがある。叶わないからこその夢であり、届かないからこその望み。そんなこと、教わらなくともわかっている。
あの村に産まれて、お前の番だと告げられたその日から。それでも諦めきれない願いがこの身に深く根付いているのだ。
しかし虎丸にはわからない。願望が尊いものであるのなら、なぜこの胸にしこりのような痞えが沸いてしまうのか。
自身より遥かに巨大な壁に対して真っ直ぐな眼差しを向けながら、脚を前に踏みしめるその姿。秀星の放つ剛腕に恐怖を抱いていないのか、動きを緩めることもなく拳が飛び交い汗が舞う。
血が滲むほど拳を握りしめていることに気付いていない。喉を鳴らし、二人の攻防を見つめている。もはやどちらを応援しているのかもわからない。
ただ、少しずつ遠くなる。
うまく言葉に表せないが、息を飲んで彼らの行方を見守ることしか今の虎丸にはできない。
その視線の先で、大木と小枝が激突する。
向う見ずに懐に入り込んだ叢雲の胸倉を握りしめ、秀星の脚が軸足を刈ろうと素早く潜り込んだ。脚を払い、体勢を崩したと同時に叩き落せば動きは止まる。ここにいる誰ひとり大外刈りという技を知らない。知らなくともこれが有効な払い技であることは知っていた。
彼の技は基本的に我流であり、誰かに教わって見に付けたものではない。そもこの村に剣術以外の術技や武道は存在しない。
故にこそ、秀星はこの技が返されるなど夢にも思っていなかったのだ。
「は――ッ!」
声を漏らした。右脚を刈ろうと放った脚が、後方へ振り切れず逆に絡めとられる。瞬時に見切った叢雲が逆脚を後ろへ引き、軸を入れ替えたのである。
刈るために最善の力を込めて脚を入れた秀星と、待ち構えて踏ん張った叢雲。どちらがより耐久性能を高められるか、考えるまでもない。
視界が空を映す。背中が大地に向かって落ちて行く。柔道で言う大外返。少年はただ野生的な勘と己の直感を頼りに食い下がっていた。
胸倉をつかんで軸足を刈り――叩き落とす。
力任せに耐えられる技では断じて有り得ない。反撃の一手が来ると予見できなかった時点で、この組み合いの勝者は叢雲なのだ。
落下しながら問いかける。叢雲と視線をぶつけ合いながら自問する。
――どうして俺は闘っている。
「ごはっ!」
背中を鈍痛が駆け抜けた。肺の空気が押し出され、視界が明滅し、呼吸が狂う。
朧な視界が映すのは――叢雲の肘落とし。骨の槌とでも言うべきか、叢雲の肘が全体重と重力と初速を付けた落下により凶器となって迫りくる。
直撃を許せばいかに地面が柔らかくとも頭蓋の破砕は免れない。
叢雲は本気で秀星を殺しに来ていた。
「そんなこと、わかってる!」
「っ!?」
叢雲の腹部に鋭い痛みが迸る。
肘落としよりなお疾い。激痛翔ける肉体を浮かべた微笑で受け流す。
鮮やかな巴投げが炸裂した。少年の軽い体を力任せに吹き飛ばし、流れるように着地する。
しかし不利な状況に変化はない。前を見る者と背を向けた者。
脚を前に出せばいい叢雲と、振り返らねばならない秀星とでは、動きに無駄が出来る秀星が損だ。
その隙を逃さぬ叢雲ではない。
腐葉土の土を蹴り、猪突となって肉薄する。
秀星は鬼が近付く足音をその耳に捉えた。
直感し、逆算し、耐え抜いて。
「ぜぇぇええあああ!」
ぎりぎりまで引き寄せて、振り向きざまの足払い。
その一手まで、秀星は己の息を殺した。闘気を萎め、決して悟らせまいと自身を縛り続けた。少しでも反撃の意志を見せれば叢雲の超動物的な勘が察知する。
だからこそ秀星は待った。限界ぎりぎりのところまで。少しの読み違いが六文銭の支払いにつながらぬよう。
予期せぬ足払いにより昏倒を余儀なくされた叢雲へ加撃を叩く。常道手段ではあるが、だからこそ集中して反撃の意を消した。
拳を握り、振り返った先に待っていたのは――。
「驚くよなぁ。まさか少しも気配を出さずに振り返ってくるなんて」
宙を舞う、少年の姿だった。
秀星の足払いは通じていない。なぜなら少年の脚は地面にないのだから。
驚愕するのはこっちのほうだ。少なくとも虎丸にとっては間違いなく。
木陰から見ている虎丸ですら、秀星が動くとは思えなかった。それなのに、叢雲は乾坤一擲の脚撃を躱してしまった。
その理由は、人間であれ動物であれ捨てきれぬ挙動の初期動作にある。叢雲はそれを無意識に読み解くことで未来予知に似た先手撃ちを可能としていた。人間も動物も、視線の動きや筋肉の緩急なくして歩くことも立つこともできない。たった一瞬であれその初期微動を観測できるなら、肉の打ち合いにおいてこれほど有利なこともない。
だが、少年のソレも飛びぬけて便利というわけではなかった。なぜならそれはどこまで行っても未来予知ではない。ただ動作の起こりを観測し己の頭で考えているだけ。
ここで脚が動くのであれば、秀星はこう来るだろう、と。これまでの経験を活かして読むしかない。
故に――。
「ッ!?」
叢雲は笑った。小さく、驚いたと歌うように。
「いつまでも馬鹿正直だと思うな!」
足払いの軌道が、上方向へと捻じ曲がる。
それは地面を水平に横切る鎌ではなく、逆袈裟にかち上がる大太刀だったのだ。
叢雲は超能力者ではない。だからこそ驚愕的な軌道修正には対応できなかった。次手をも警戒していたならばこうはならなかっただろう。だのに叢雲は読めなかった。
それだけ秀星の気配隠遁が優れていたということだ。
従って、大太刀と化した踵のかちあげが矮躯の脇腹へと炸裂する。
「ぐッ――ぅぅう!」
内臓が外部からの衝撃で脈動した。叢雲の口から血の飛沫が舞い上がる。
「らぁあああ!」
秀星は遠心力を最大限に活用し、回転の威力を弱めることなく右脚を振り切った。
少年の身体がぼろきれのように地面を流れる。しかし彼は風に流される塵芥の如き者ではない。
回転に逆らわず、十歩離れた地点で着地した。
もう片方の手が脇腹に触れている。口には喀血の痕があり、深刻ではないもののダメージを受けているのが見て取れる。
顔を上げた叢雲と再び視線が交差した。苦悶の表情ではあるものの、瞳から色が消えない。それどころか、爛然とした輝きを増している。
――どうして俺は、こいつから眼を逸らせない。
叢雲は上体を起こし、ゆっくりと近づいて来る。
今の一打はまともに受ければ数分間は起きられない。丸太をへし折るが如き力で叩き込んだのだから。
だがどういうわけだ。秀星の脚が痛みを訴えている。完全ではないが防がれていた? あの状況で?
大木ではなく、まるで巨大な岩を蹴ったみたいだ。
「なあ、秀星」
少年の口が動く。それは青年の名を紡いだ。
叢雲は強い。果てしなく、埒外に。彼の知る限り、これほどの強者は村に二人といない。
世界の広さを感じ取る。自身が見ている世界、閉じてしまった小地獄。恐れをなして逃げ出した自分には、あの空を見られない。
だからこそ尊く想うものがある。あんなに小さな体格で、彼は秀星なんかよりも大きさ世界を見据えていた。閉じられた世界にありながら、遠い未来を夢想した。
――だから、だから俺は。
その世界を、この身にはわからない広大な未知を見せてあげたかったんだ。
だが未だにそこへは至っていない。恐れをなして逃げた自分に資格はない。
神峰秀星は燻っている。燻っているのだ。煙を出して、今にも消え入りそうな、小さな小さな明かりを抱いているのだ。
悠然と歩く叢雲を視界に入れながら再び構えを執る。
――なあ、虎丸。なあ、叢雲。俺は、なんのために産まれてきたんだろうな。俺はなんのために生きているんだろうか。
何の為に力を身に着け、何の為に技を磨いてきたのか。
ぎち、と。爪が掌底を食いちぎるほどに強く、拳を握る。口元に付着した血を拭いながら歩く叢雲を、正面から見据えて離さない。
蒼い闘気がふつふつと沸き上がる。懐かしい様な、面映ゆい様な。忘れかけていた火が、新たな火種を得て燃え盛ろうとしていた。
この身が震える。口角が小さく上がり、眼球に喜悦の色が浮上する。
確かに秀星は笑っている。叢雲を睨みながらも、心から嬉しそうに。
――お前と闘えばわかるのか? 俺はもう一度、踏み出してもいいのか? 裏切ったあいつのことをもう一度、護ってやってもいいんだろうか。
叢雲の脚が止まる。距離にして五歩。互いの力であれば刹那とかからぬ距離感だ。その狭間の中で、鬼子たる叢雲が薄桃色の唇を開く。
「ここにはお前よりも強い奴が居るのか?」
自分よりも強い者。その発言の意図はつかめないが、一考することなく首肯した。
「居るさ。一人と、一つ」
だからこそ、進めなかった。一人の方はいい。けれど、一つの方はどうにもならない。己が心を折らせた、圧倒的なまでの異常。
絶対に誰も逆らえない。誰もこの村を出られない。
「この村において最強の剣術遣い。その剣技、神にも届くと言わしめた無双の老翁、千馬兼久。そして、俺たちの村を牛耳る災厄の名――本物の神様だ」
虎丸の胸を締め付けるその名前。産まれた時から決まってしまった呆気ない運命。少年の意志など歯牙にもかけない、一顧だに値しない決まり事。
村の誕生など誰も知らない。けれど連綿と続いたこの掟だけは曲げられない。秀星が膝を折ったように、神様という名の災禍からは誰も逃れられないのだから。
決まりを護らなければ、村は貧困に喘ぎ、暴走した獣に追われ、大嵐に見舞われる。例えそれが偶然だったのだとしても、貢物を欠かさなかったからこそこの村は存続できた。
世界は閉じている。どれだけ未来を夢見ても、誰もここから出られない。誰にも反撃できやしない。
それができたのなら、もうこんな村はなくなって久しいはずだ。
「ふ、ふふ」
叢雲が両腕を地面と水平に持ち上げて拳を握り、構えを執った。その瞳はただひたすらに真っ直ぐ、ただひたすらに純粋に。
赤熱の闘志を漲らせる。
その姿に迷いはない。秀星が抱いた迷いと挫折は、かの少年からは微塵も現れない。
本当の恐怖を知らないからか? 本当の異妖を見てないからか?
否だ。そんな低次元の話ではない。叢雲の瞳は、何も知らない無垢なる少年の物ではない。
「怖いよなぁ。ここにはお前よりも強い奴が二つもあるってことだろう? 秀星だけでも心底強いのに、それよりも怖い奴らが居るときた。震えが止まらない」
「武者震いって奴か?」
「この震えを表す言葉がソレなら、きっとそうなんだろうな」
震えが伝播したのか、それとも灼熱の闘志に当てられたのか。秀星の身体も同時に震え上がる。蒸発しそうなほどに熱を持った意志。小さな体に核融合炉が収められているかの如き灼熱。
秀星は問うまでもないことを口にした。返ってくる答えは分かり切っている。だけど、聞かずには居られなかった。
その口から教えてほしい。この身を鼓舞するような、心の灯に大きな火種を与えてくれるような。
ようやくわかったのだ。なぜこの少年から眼が離せないのか。なぜ拳を握るのか。
その答え合わせをしようじゃないか。
「お前、その二つと闘う気なのか?」
「ああ。お前を倒した暁に、オレは千馬兼久と神様とやらと果たし合う」
「どうしてだ? 何がお前をそうさせる?」
「オレにはそれしかない。オレは、オレが誰なのかもわからない。両親の名も、どこで産まれたのかもわからない。だけど強い奴と闘いたいという欲望だけはある。この身を焦がす灼熱だ。闘って、勝ちとる。それがオレだ」
「無理だ。アレは俺なんかとは比べ物にならな――」
「無理じゃない」
間髪入れない返答だった。
秀星は胸のすく思いがした。