第一話 迷いと意志の激突1
流星が駆け抜けた。
灼炎を噴き散らす光の奔流。大気を震わす直線軌道の一閃は、待ち受ける者が抱いた迷い、躊躇と手心を一切合切彼方の果てへと吹き飛ばす。
愚劣ながらも鮮烈で、乱雑ながらも研ぎ澄まされて。
技でも、術でも、法理でもない。ただひたすらに巧く、ただひたすらに烈しい嵐の如き暴力を小さく気高い兇獣が打ち下ろしていた。
「こい、つ――ッ!?」
頭上より飛来する一直線の右正拳。なんの衒いも存在しない圧倒的な暴虐の塊として、それは一人の青年に襲い掛かる。
容赦はできず、迷いは抱けず。足かせとなる感情は、自身の寿命を縮めることになりかねない。
故に、迎え撃つ魁偉は常人の動体視力を振り切る速射砲を己の瞳で看破して、首を横に振ることでこれをいなした。
その表情に余裕はない。一寸の見切りではなく、間一髪で回避に成功したと言っていい。
兇獣は止まらななかった。伸びきった右腕をそのままに左の拳が握られ、地に足をつけぬまま追撃を畳みかける。
だが、此処に立つのは武闘の天稟。ある一人を除けば村一番の強者と讃えられる青年は、左拳から放たれる加撃を見切っていた。顔の横を通過した右腕の肘関節に自身の腕を巻き付けて――
逆関節を極める。固定した右腕を粉砕せんと体をねじってみせた。
青年、神峰秀星。齢二十にして大の大人にも負けない体躯を誇る彼は、武闘の天才として産まれ落ちた。特段厳しい修練を積んだわけではない。体格の優れた両親から産まれたわけでもない。それでも彼は体格に優れ、体を動かす才能に長じていた。
秀星は容赦なく獣の腕の逆関節を極める。決して逃れられない荊の如き絡み付き。攻撃を仕掛けていた小さき獣は、それ故に対抗策を打てない。
はずだった。
「な――ッ!」
「にぃ――ッ!?」
木陰から両者の対峙を見届ける蘆屋虎丸。
秀星と共に狩りに出かけた虎丸が見た光景は、思いがけないものだった。
突如として顕れたぼろきれを纏う矮躯。乱雑に伸びた髪の毛を靡かせるソレは、森に捨てられた稚児を連想させる。しかしその実、秀星の眼前に立ち塞がった者は施しを受けるべき乳飲み子ではない。
か細い四肢と驚嘆なる闘争心を以てして、自ら虎穴に踏み入る狂気の類だったのだ。
二人は同時に、けれど異なる意味の悲鳴を上げた。
虎丸にとって、秀星が出し抜かれること自体が珍妙な事柄であり。
秀星にとって、逆関節を極めて投げたにも関わらず、止まらないどころか更なる動きを見せる事が驚異だった。
兇獣は投げられた方向へ、中空にありながら体をねじり、跳んだ。動物としての本能が、これを許せば腕が折れることを察知したからだ。ならば流れに逆らわない。
小さな獣は宣言通り、投げられながら体を回転する。そうすれば関節が正しく曲がる瞬間が必ず訪れるのだから。
実際にそれは正しく、肘を曲げて関節技から蛇のようにするりと抜け出すと、五体満足で地面に着地した。
兇獣は顔を上げる。
秀星もまた、投げ飛ばした筈の人間が華麗に着地した様をその瞳に収めた。
白磁の獣の貌が笑っている。煽る笑みではなく、闘いを楽しんでいるような微笑み。
秀星は実戦で関節を極めたのは初めてだった。それほどまでに、目前に聳える敵手は総てを出させる相手。
戦い辛さはきっとある。拳に躊躇や迷いは何度も出ていた。できることなら昏倒させることで終わらせたいと想ってしまった。
だが許さない。彼の抱いた思い違いを、瞭然たる力量で以て正す。
虎丸にとっても同様の胸中である。
彼らがこの邂逅を思いがけないものと感じたのは、突如森の奥から現れた者が何の言葉も交わさず襲い掛かって来たからだけではない。たとえ人間の形をしていても、それだけなら理屈なき鳥獣と大差はない。
虎丸が閉口し、秀星がやり辛さを感じていたのには理由がある。
兇獣が小さな笑みを湛えたまま悠然と立ち上がり、まだ切ったことがないであろう伸ばしたままの髪の毛を邪魔そうにかき上げた。
そこに現れた顔立ち、腕の細さ、体格、声の調子。その総てが木陰で戦いを見守っている少年、蘆屋虎丸と酷似している。虎丸も中性的な顔立ちをしているが、これほどまで似通った人間が果たしてこの世にあっていいのだろうか。
――世の中には同じ顔をした人間が3人存在しているというけど。
しかし総てが同じわけではない。小さき獣と虎丸とでは、決定的に決裂しているものがあった。
瞳の色だ。宿した色が異なっている。不安げな色彩と、見る者すべてを焼き尽くす赫炎の眼。
秀星にとって虎丸と同じ顔をした者に拳を握るのは気が重かった。例え違う者であったとしても、その背後に浮かぶ友人の顔を振り切ることは難しい。
そう感じていた秀星に、結果、ソレは拳を握らせた。圧倒的なまでの力の奔流。その大波に飲まれた秀星は、己が抱いた迷いや躊躇を振り切った。振り切るしかなかったのだ。
――瞠目とは、このことか。
神峰秀星は忸怩たる思いで鬼を見る。ただ似ているというだけで見誤った。
虎丸を貶めているわけではない。虎丸が弱いから、彼と似た風貌の少年も弱者であると決めつけたわけではない。
秀星はあの日以来、虎丸を弱者であるとは想わなかった。彼は決して弱くない。腕っぷしの話ではなく、心の問題で。
確かに普段は不安げな顔をしていて自己評価の低いきらいはある。けれど、心に宿すたった一つの『夢』は……それを見上げる彼は、決して矮小な人間の様ではない。
見誤ったのは実力だ。まさかこの矮躯で、これほどの膂力を誇る者がいるなどと夢にも思わなかった。青天の霹靂と言っていい。
秀星は脚を肩幅に開き、両腕を胸の位置まで上げて臨戦態勢に入る。その瞳が穿つ者は唯一つ。未だ消えぬ闘志を纏わせて不敵に笑う少年だ。
「神峰秀星」
「……?」
「俺の名前だ。お前、名前は何て云うんだ?」
名前を名乗るのは自分から、という戦の作法は秀星も知っている。その礼儀に則り、自らの名を宣言した。そして素性の知れない少年に、彼は言葉を投げかける。
回答が返ってきた瞬間が、両者が再び爆発する刻だ。
もはや賽は投げられている。少年が此処に居て、虎丸や秀星と邂逅した時点で。
物語の時計は進み始めた。
閉じた世界が開かれる。此処に立つ異分子の存在が、あらゆる火種に炎を灯す。
「知らん」
それで終わりではないはずだ。虎丸と秀星は固唾を呑んで次の言葉を待つ。
森に一陣の風が舞った。葉擦れの音と、落ち葉が舞い上がる音。
虎丸の鼻腔を若葉の香りがくすぐった。太陽の光を蓄えて、新しい命が芽吹く匂い。秀星の匂いでも、自分の匂いでもない。ならばこの香りは、あの少年が持っているものか。
瞳に赫炎を宿す鬼に、不思議な温かさを抱いた瞬間だった。
少年は拳を固く握り、胸の前に持ち上げる。秀星を不敵な笑みで睨みながら、己が持つ数少ない『知っていること』を叩きつけて。
「だけど、オレが敢えて名乗るならば、叢雲。父も知らなければ、母の顔もわからない。何故オレがこの名を知っているのかも、知らん」
だがそんなこと今はどうでもいいと、叢雲の眼が訴える。
匂い立ち、沸き立つのは灼熱の闘志。彼女の中に巣食った赫炎があふれ出す。
それを真正面から受ける秀星。全身が総毛立ち、膚が粟立つのを止められない。
――こいつ、本物の化物か。
なのに引くことが出来ない。握りしめた拳がさらなる力で握られる。恐怖に筋肉が硬直しているわけではない。
わからないが、神峰秀星は叢雲と闘わなければならない。そう感じて仕方がないのだ。
心の火種が燃えている。
なぜ拳を握るのか。なぜこんなに震えながら前へと進むのか。
その理由を確かめるためにも、全身をバネと化して力を蓄える。
「強いな、秀星。だからオレは、本気のお前と闘いたい」
「何がお前をそうさせる?」
「オレがそういう奴だからだよ。それしかないんだ。強い奴と――オレよりも強いかもしれない奴と闘いたいという想いが、止められん!」
「なら応えてやる、手加減はもうしない!」
疾風怒濤――
宣告と同時に二つの星が爆裂し、互いの抱いた想いと願いを最高硬度で練り上げた拳戟が激突する。