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プロローグ もう一人の弱虫と


「お前の剣は美しい」


 こんな時でさえ、宗貞はいつもと変わらず笑っていた。


 純白の(かみしも)に着替えた男は、十年に一度だけ開かれる本殿の中央に正座して運命の刻を待つ。暗い本殿を照らすいくつか消えかけの蝋燭の明かりは、まるで彼の刻限を指し示しているかのようだった。


 炎に濡れた宗貞(むねさだ)の顔には、くっきりとした無垢たる笑顔がはり付いている。ともすれば、これから何が起こるのか理解していないかのようで、俺は心の底から苛立った。


 この男が感情の機微に気が付くことはない。こいつはいつもそうだった。状況が状況ならば少しは変わると思っていたのに。


「俺には剣の才能がなかったから、お前の相手にはなれなんだが」


 傷だらけの指先が、短刀の柄に触れた。それは自傷の傷でも自棄の傷でもない。単純に、この男の性格を表しているだけの生傷だ。


 確固たる運命に抗うことなく、あるがままを受け入れながら希望は捨てず。


 希望とは己が助かる道ではない。彼にとっての希望とは、今日より少し幸せな明日のこと。家の中でじっとして刻限を待つよりも、外に出て日が暮れるまで遊ぶことの方が、彼の性分に合っていたらしい。


 宗貞の瞳に影が差すことなど、ただの一度も有り得なかった。なぜなら今も、彼は昨日より楽しそうに笑っているのだから。


「いつかお前の剣閃が、大いに繚乱する日が来ると良いな」


 十七歳のこの日、宗貞は村のために自らの腹を割る。意味は風化し、形だけが残った祭典のために。


 ――お前は何の為に産まれ、何の為に生きたのだ。


 斜め後ろに立ち、介錯用の刀を持ち上げる。普段から振っている真剣と大差はない。にも関わらず、今日の刀は吐き気がするほど重かった。


 同い年で、産まれたときからずっと一緒に居た男の首を切断する。


 だから何だと言う? 青年は宗貞を見ると心が締め付けられる。理由など考えるまでもない。歯噛みするほど苛立っているのは、単に宗貞を嫌っているからだ。


 なんの恐怖もない。なんの悔恨もない。なんの因縁もない。だから最期に語り掛ける言葉もない。


 はずなのに。


「宗貞。なぜ笑う」


 暗い本殿に、短刀の白刃が煌いた。本殿の隅に座る村人たちが、固唾を呑んで経緯を見守っている。


 宗貞は己の身を裂く短刀を眺めながら、そこに映る俺に向かって応えた。


「楽しいからに決まってる」


 当たり前だろう、と。分からない俺の方がおかしいと、お前は言った。


 それは嘘だ。楽しいはずがない。今から死ぬ人間が、死ぬことが分かっている人間が、楽しいなどと馬鹿げたことを抜かせるものか。


「なぜ楽しいんだ?」

「嬉しいからだよ。これ以上なく」


 間髪入れずに宗貞は張り通す。相も変わらず愚鈍だな、とそいつは嗤う。


 刀を握る手に、無用な力が篭る。握った両手がじわりと熱く、痛んだ。唇をかみしめる。血が滲むほどの顎力で。


「なぜ嬉しいんだ?」

「そりゃあお前――」


 白いうなじが裃から覗く。そこは、俺が今から断ち斬らなければならない部位。


 斬らねばならない。俺はお前を――斬らねばならない。


 この白刃を振り下ろし、稽古用の巻き藁を切断するより容易く。呆気ないほど簡単に、この刃を通すのだ。それが、お前を守り続けた俺の、最後の仕事なのだから。


 それを分かっているのに、こんな時でさえお前は屈託なく笑う。お前を殺す人間が、目の前で刃を携えているにもかかわらず。


 お前は笑う。嗤うのではなく、嘲るでもなく。己に課された運命に、嘯くでもなく微笑(わら)うのだ。


 ――なぜなんだ。なぜこんな時にまで、お前は――


「一人しかいない親友が、最期も一緒に居てくれるからだろうがよ」


 泡を食った俺は、二の句を告げられなかった。驚きながら怒りを露わにする俺を見て、けれど宗貞はもう茶化さなかった。


 自決の刃の角度を変えて、自身の貌を映し出す。目を細めながら、彼は唯一つの願いと希望を口にした。或いはそれは、何者かへと託したかった祈りだったのかもしれない。


「お前にも、友だと言って欲しかった。だから、これ以上に嬉しい今日はない。つまり俺にはもう明日がない。ああ、そうか。この日だったのか……この瞬間だったのか」


 絶句から抜け出した俺は、やはりいつもの如く怒髪天を衝く怒りを覚えた。断ち斬るうなじを眺めながら、純白の裃の背中に言葉を落とす。最期の最期まで届かなかった言葉を、今日も飽きずに投げかける。


「俺は、お前を友だと思ったことは一度もないし、今日この瞬間に言ったつもりもない。お前のように能天気で、楽観的で、軟派で愚昧な魯鈍漢(ろどんかん)は大嫌いだ。ずっとお前に言ってきたんだ。なぜ最期まで聞き入れない!?」

「ああ、何度も聞いてるし、ちゃんと理解しているよ」

「なら――」

「お前がずっと苦しかったこと。だけどさ、お前はそんなことに気を遣う必要はない。お前はお前のしたいようにすればいい」

「――――」


 宗貞は最期にそんな言葉を残した。


 今になってそんなことを言うから、お前のことが嫌いなんだ。お前のように能天気で、楽天家で、馬鹿で、間抜けで。


 短刀が風を切る。傷だらけの華奢な腕が闇に流れた。その切っ先が、宗貞の腹に突き立てられる。宛がっているのは宗貞本人で、それを止める者は、俺を含めて一人もいない。


「お前の剣は美しい」


 まるで今生の別れのように、慈しみさえ込めた声音で、宗貞の咽喉からその言葉が零れ落ちた。


「その剣閃が咲き誇る日を、あの世から願っている」


 宗貞の腕に力が篭る。短刀の切っ先が裃の生地を突き破り、皮膚を裂いた。一寸の躊躇もなく肉を貫通し、短刀が横一文字をなぞる。宗貞は喀血と同時に苦悶の声を漏らした。純白が深紅へじわりと変貌する。


 その瞬間、俺の身体が自分勝手に動き出した。鋭利な刃が男の首めがけて落ちていく。


 鮮血が宙を舞う。熱い命の欠片がまとわりつく。


 肉を断つ感触は、あってないようなものだった。巻き藁よりも斬りやすく、なんの感触もしないと言って差し支えない。度重なる修練の結果、俺の剣は人間を斬ることに些細な力も必要としなかったようだ。


 人の首を断割すると、その感触が死ぬまで残るという。けれどどうだ。俺の腕は、お前の感触さえ残してはくれぬのか。俺の鍛えた剣術は、お前なぞ障害にさえならないと語るのか。


 ――なあ、宗貞よ。


 俺はなんのために産まれ落ち、なんのために生きているのだろう。


 なんのために剣を鍛えて、なんのために腕を磨いていたのだろう。


 剣術は、すなわち人を殺すためのもの。それは分かっている。だけどきっと、この日のために鍛えたわけではない。断じてないはずなのだ。


 この剣閃が咲き誇る。そんな日は、きっと訪れない。誰もこの村から出られないし、俺の剣を超える者も、この村にはいない。俺の剣は所詮、人の首をなんなく斬り裂くためにある。誰もやらない介錯をやるためだけに存在する。


 我が剣に意味はない。お前の願いもきっと叶わない。


 俺はただ、最初で最後の友の身体と、離れた首を眺めることしかできなかった。大人たちが粛々と片づけをする中、痴呆のように立ち尽くす。


 本殿の奥、この一部始終を眺めていた神像に、男の血飛沫が散っている。





 誰かが嘲笑った。転がる死体と呆ける俺を見、快哉と冷笑した。


 それは紛れもなく、俺の頭上が降ってくるものだった。

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