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マフラーを編む少女

作者: 小野寺薫

――カララ……ン…

カウ・ベルの音を連れて、秋風と『彼女』が私の喫茶店に入って来た。

「いらっしゃいませ」

私は読みかけの新聞をカウンターへ置き、反射的に左手首の時計に目をやった。

無論、時刻は、四時。この数ヶ月、彼女と、そして私の、変わらぬウィーク・デイの習慣だった。

「マンデリンを下さい。……ドリップで」

彼女は、いつもと変わらぬ微笑と共に、いつもと同じ注文をした。そして、一番奥の、窓際の席へ。カウンターの中の私の前に横顔を見せるその席も、やはり、いつもの通り。

私はお湯を沸かしながら、ハイ・ファイのBGMを彼女の好きなブラームスに変えた。お冷やを、彼女の席へ届ける。

彼女は、私に顔を向け、ニッコリと笑う。私は微笑を返し、彼女がいつもの通りに、かわいらしいアップリケの付いた手提げから、編みかけのマフラーを取り出すのを見つめた。

彼女が初めてに来たのは、いつだったっけ……私は、熟練した手付きでドリッパーのマンデリンにお湯を注ぎながら、ふと、つかの間の回想に誘われていた。

あれは、まだ蝉の声が喧しい頃だったろうか。彼女のセーラー服も、軽快な白の半袖だった。

そう、窓の外の公園を彩る、鮮やかな緑を背景にマフラーを編む彼女の姿は、ひどく場違いに見えたものだった。それが、私の擦り減った好奇心を掻きたてたのだろう。

――あたし……編むの、遅いから……

不思議に思い声を掛けた私に、はにかむような顔を向けた彼女から、一瞬、遠く過ぎ去った青春の匂いを、私は嗅いだ。あるいは、それは、恋の香りだったろうか。

そして……

いつもと同じくり返し、しかし、確実に彼女のマフラーは長くなり……窓の外の公園は、彼女の姿にふさわしく、くすんだ色合いへと移り……いつの間にか、マフラーを編む彼女の姿は、私の喫茶店に馴染み、溶け込んでしまっていた。

私は、いれたてのコーヒーをカップに移し、熱心に編みつづける彼女の席へ運んだ。申し分のない芳香が、店内を満たす。

「ありがとう」

手を止めた彼女は、テーブルの上に広がっていた毛糸を、手元へ引き寄せた。私は、コーヒーを置きながら、

「もうすぐ、ですね」

ウインクを一つ、彼女に投げた。私のように、髪の中に黒いものを探すのが困難になった歳の男なら、気障には見えまい。

「え?」

「マフラー。……もうすぐですね、編みあがるの」

私は、目線で、マフラーを指した。

青系統のモヘアで編まれたマフラーは、もうかなりの長さになっている。よくよく考えてみれば、マフラーに決まった長さなど無いわけだが、もうすぐ編み上がると思えたのは、落葉を始めた公園の木々のせいかもしれない。

「ええ。どうにか、まにあったみたい」

彼女も、そう呟くと、窓の外へ目をやった。彼女の目に映ったのは、老いて散る木の葉だろうか、それとも、冬へと変貌しつつある、秋そのものだったろうか。――いや、今日の私は、年甲斐もなくセンチメンタルになっているようだ。

「お誕生日のプレゼントですか」

控えめな口調で、私は問いかけてみた。もとよりお客の少ない小さな喫茶店に、今は彼女しかいない。差し込む、燠火のような柔らかな陽射しが、ブラームスの旋律と混じり合う。

「いいえ。……記念日なんです。彼と初めてデートした……」

答え返す彼女の口も、いつもより少し軽くなっていたようだった。

私は、知らず知らず、微笑を浮かべてうなずいていた。記念日――初めてのデートの記念日。そんな少女趣味な発想に、わらってうなずく事のできる歳に、私はなっていた。

「間に合ってよかったですね」

「ふふふ……夏の終わりから今までかかっちゃって。……早く編み始めてよかった」

彼女は小さく肩を竦め、チラッと舌を出した。

もう一度、私はマフラーに目を落とした。

幅が広く、目の細かいマフラーは、確かに時間がかかりそうに見えた。しかし、その分、きっと暖かいことだろう。

「済みません、お邪魔をして。あと一息、頑張ってください。……コーヒーも、冷めないうちに」

「ありがとう」

再び編み棒を動かし始めた彼女を見ながら、私は、カウンターの中へ戻った。

ブライヤーのパイプに葉を詰め、火を点ける。葡萄の香りのする煙が、漂った。

時々、思い出したようにコーヒーに口を付けながら、彼女は、一心に編み物を続けていた。

私には、家族がいない。もし居たとしたなら、彼女は娘くらいの年齢だろうか。いや、孫と云ったほうが近いのかもしれない。

私は、パイプをふかしながら、彼女を優しく見つめていた。

微かに体を揺らしてリズムを取りながら、せっせと編み棒を動かす。その度に揺れる髪を、窓からの逆光が透かし、金いろに輝かせる。

唇に微笑を浮かべ、瞳は、編み目を透かして何か別のものを夢見ているようだった。あるいは、ひと目ごとに、目に見えない何かを編み込んでいるようにも見える。

そう、確かに、彼女は編み込んでいたのだろう。目に見えない何か――『想い』を。それは、昔から、少女たちの特技だった筈だ。

想い、か。――そのとき、私は、頭の隅に何か引っかかるものを感じた。

何だろう?

ちょっと眉をしかめ、パイプを二口三口ふかした私は、それに思い当たった。

『彼』だ。私は、以前に一度だけ、彼女と共にこの店に来た彼を思い出していた。見るからに、物腰も口調も軽薄な、大学生だった。 だが、それがどうしたと云うのだろう。私は、ひそかに苦笑した。軽薄と云っても、今時の若い者としては普通に違いない。引っ掛かりを感じる謂れは無い筈だ。やはり私は、彼女を孫娘のように感じているのだろう。

私は、笑いを隠すために、パイプのステムを噛み締めねばならなかった。自分が心配性のお祖父さんになったようで、可笑しくてならなかった。

やがて、街灯の灯る時刻になった。

彼女は、ちらりと時計を見ると、今日の成果を確かめるようにマフラーの編目を数え、大事そうに手提げの中へ仕舞った。

カウンターの端のレジで、伝票と一緒に、コーヒー代ちょうどの小銭を差し出す。いつもの通りの、彼女の習慣だった。

「ありがとうございました。……はかどりましたか?」

「ええ。あと、ちょっと」

「そう。記念日には、彼と一緒にいらっしゃい。お祝いにごちそうしますよ」

「え?……あの……ありがとう。きっと来ます。……それじゃ」

赤くなった顔を隠すように、ぴょこんとおじぎをしてドアに向かう彼女の背に、私は声をかけた。

「あ、もう暗いし、そこの公園は淋しいから気をつけてお行きなさい。逢魔ヶ時だし」

「はい。……さよなら」

――カラカラ……ン…

カウベルを鳴らしてを出る彼女と入れ違いに、風が吹き込んできた。冬の香りのする風だった。


◆ ◆ ◆


数日後。

私は、カウンターの中に座り、パイプをふかしながら、窓の外に目をやっていた。公園の木々はめっきり葉を落とし、冬の到来を予告している。今にも泣き出しそうな空とあいまって、いやがうえにも室内の温かさを強調する寒々しさだ。

まだ朝も早いので、お客さんの姿はない。余生を過ごすには、こんな喫茶店のほうが向いているのかもしれない。

私は、頬杖をついた。そして、BGMに流している古いジャズのレコードに耳を傾けかけたとき――、急速に近づくサイレンの音が、ソロ・パートを演奏していたテナー・サックスをかき消した。

何かあったのかな?

そう思ったときには、窓の外に、パトカーと救急車が停止していた。中から、警官や救急隊員達が降り立つ。訓練された猟犬の動きで、公園の奥に駆け出していく。

まばらな通行人たちが、何事かと立ち止まり、しかし、首をかしげただけで通り過ぎて行った。

しばらくして、黒い乗用車が一台、やってきた。目付きの鋭い背広姿の男たちが、警官と同じ方向へかけて行く。多分、刑事だろう。

それとすれ違うように、白衣にヘルメット姿の男達が二人、植え込みを廻って公園の奥から戻ってきた。担架を持っている。上に掛けられた白い布の上からも、人間の形状が判るものを乗せていた。男達のゆっくりした足取りと、仮面じみて無表情な顔からして、怪我人ではなく、死体のようだった。

私は、パイプを咥えたまま、外へ出てみた。晩秋の風が、液体のように、ゆるやかに服に沁み込んでくる。

「何があったんです?」

私は、パトカーの側で立ち番をしていた中年の制服警官に、声を掛けた。

「いや、若い男が倒れていると通報がありましてね」

実直そうな警官は、一言だけ答えてくれた。もっとも、ここにいた彼が、詳しい事を知っている筈も無い。

私は、白衣の男達が、救急車へ担架を移すのへ目を転じた。丁度そのとき、寒風が吹き過ぎ、目に見えない手が持ち上げたように、白い布を捲り上げた。横たわっていた若い男の上半身が、剥き出しになる。

私は、息を呑んだ。

『彼』だった。

一目で息絶えていると判る不気味な顔色ではあったが、間違いなく『彼』だった。

私は、救急隊員が布を元に戻すまで、半ば呆然と、変わり果てた彼を見つめていた。

最初に頭に浮かんだのは、マフラーを編む彼女の姿だった。マフラーは、間に合わなかったらしい。彼の首に、あのマフラーは巻かれていなかった。

――おや?

私は、首をかしげた。マフラーはしていなかったが、胸の上で重ねられた彼の両手には、手作りらしいミトンがはめられていたのだ。その色は、あのマフラーと同じ色。材質も、同じ毛糸に見えた。彼女が編んだものだろうか?マフラーは間に合わなかったのに。いや、以前に贈った手袋とペアになるように、同じ毛糸でマフラーを編んでいたのかもしれない。それとも……

しかし、私のささやかな疑問は、しっかりと閉じられた救急車のドアに遮られてしまった。

私は、何と言うことも無く、パイプをふかしながら、佇んでいた。吐き出す煙が、とりとめも無く、散りぢりに流れ去って行く。

と、やはり公園の奥から、枯葉を踏み砕く音と共に、白衣を着た、太った男性が歩いて来た。近づくにつれ、かなりの年配だと分かる。太縁の眼鏡を掛け、重そうな革鞄を下げていた。

「あ、先生。いかがでした?」

先刻の警官が、声を掛けた。

「うん。どうも、酒を呑み過ぎたらしいね。それで足を滑らせて、側にあった石に頭をぶつけた、ってところかな」

鑑察医は、救急車を顎で示しながら、重い声で答えた。白衣の下の背広のポケットから煙草を取り出して、くわえる。ついで、首をかしげながら、体中を叩き始める。

私は、苦笑しながらマッチを差し出した。

「どうも」

風に背を向けて煙草に火を点けた鑑察医は、私にマッチを返しながら、軽く頭を下げた。

「呑み過ぎて足を滑らせたんですって?……いや、お話が聞こえたものですから」

私は、その鑑察医に、話し掛けてみた。

「まあ、詳しいことは、これから調べてみませんとね。大体そんな処だと思いますよ」

「まだ若い人のようでしたけれどねえ。お気の毒に……」

「ええ。身分証明書では、大学生でしたが……これからだって云うのに」

鑑察医は、やり切れないような、重い声で呟いた。溜め息をつく。私は、この医師に、なんとなく好意を覚えた。

救急車は、鑑察医と、かつて『彼』だったものを乗せ、走り去っていった。

私は、立ち番の警官に軽く会釈すると、店内に戻った。火の消えたパイプから灰を落とし、別のパイプに葉を詰め、火を点ける。それから、自分用にキリマンジャロを入れた。店の前にパトカーが居座っていては、お客さんも来はしない。

パイプとカップを交互に口へ運びながら、私は、ぼんやりと、窓の外へ視線を投げていた。

忙し気に動き回る刑事や警官の表情はひどく事務的だったし、ちらほらと立ち止まるやじうまの顔に、好奇心以上のものは見られない。

私は、風変わりなドラマを見ている気分になった。

いっそドラマであったなら……そう思いながら脳裡に浮かぶのは、やはり、彼女のことだった。

夏からずっと編み続けていた、受け取る者の無いマフラー。唇に微笑を浮かべながら、懸命に編み込んでいた『想い』は、どこへ行くのだろう。

溜め息に乗せて煙を吐き出し、私は、もう一度、窓の外を見やった。

重く垂れこめていた雲は、しめやかに泣き出していた。歩道を叩く雨が不規則なまだら模様を描き、刻々と形を変えてゆく。雨に追われたように、いつの間にか、警官もやじうまも、人影は絶えていた。

冷えびえとした風景を映し出す窓ガラスを、雨のしずくが、一筋、二筋と伝う。

今日、彼女は来るだろうか――しずくの数を数えながら、私は、ぼんやりとそう考えていた。


◆ ◆ ◆


――ふん。

私は、読んでいた新聞を、カウンターへ置いた。社会面には、呑み過ぎたあげくに足を滑らせて死亡した『彼』のお葬式が、今日行われたと言う小さな記事が載っていた。

例によって、大学生の節度の無い酒の呑み方に対する門切り型の批判で、その記事は締めくくられていた。そんなことが、彼の魂を慰める何の役に立つだろうか。

私は、パイプに火を点けて、店を見渡した。

彼女の姿は、無い。

あの日から、彼女の姿は、ぷっつりと私の店から消えてしまっていた。

数日前まで、この時間、必ず彼女が座っていた筈の席には、今は女子高生が二人、おしゃべりを楽しんでいた。彼女と同じ位の年頃……そういえば、制服も同じだ。

私は、ふと、彼女のことを尋ねてみようかと考えた。が、止める。――女子学生達は、彼女のことを話題にし始めたからだ。

「……で、さあ。あの娘、昨日の告別式でさ、すっごく泣いちゃって。大変だったんだってよ」

「えー。ホントォ。そんな風に見えなかったけどなあ」

「ううん。もう、わんわん泣いちゃってさ。お棺にマフラーなんか入れちゃって。こう言っちゃ悪いけどさあ、もう盛り上がって、盛り上がって」

「盛り上がったって、ひどいわねえ。……でも、マフラーをねえ。こりゃ盛り上がるわ」

「でもさあ、あの二人、もう半年も前からうまくいって無かったんだってよ」

「ウソォ。信じらんなぁい。それで、そこまでやっちゃうワケ?」 確かに、私にも信じられなかった。他にお客さんのいないのを幸い、私は、更に二人の会話に耳を傾けた。

「……そうなのよねえ。ま、うまくいってなかったってサ、ほら、彼も見るからに軽いじゃない?他に女の子が何人もいてさ。それでなんだろうケド。やっぱ、死んじゃったらどうでも良くなるんかね、そんなこと。」

「分かん無いなあ。あたしだったら、やっぱ、そこまで出来ないよ。大体、告別式にも行くかどうか」

「そう思う?やっぱし。オカシイんだよね、彼女。……内緒なんだけどさ、彼女も付き合ってたらしいんだよね、他の人と」

「えっ?ホント?誰、だれ?」

「あのさ。内緒だよ。ホラ、B組の……」

それから先を、私は聞いていなかった。

半年も前から……お棺にマフラーを……涙……

脈絡もなく断片的な言葉が、私の脳裡を渦巻いていた。コーヒーに落としたミルクの滴のように、もやもやと広がりながら、意味のない紋様を描き出す。

女子学生達が喫茶店をでたときも、私は上の空だった。パイプの火が消えてしまっていることにも気付かず、機械的に吸い続けながら、私は物思いに沈み込んでいた。


◆ ◆ ◆


その夜――、

私は、読みかけのミステリイを、ベッドの上へ放り出した。

独り暮らしの部屋は、ミステリイを読むには最適の場所の一つだ。が、どうにも、本の中へ入り込んで行くことが出来ない。

私は、眠れなくなるのを承知で、パイプに火を点けた。安楽椅子に深く腰を下ろし、紫煙を見つめる。

ふと、苦笑をもらす。――今の私のスタイルこそ、まさしくミステリイの探偵そのものではないか。

そう、物語の探偵ならば、夕方から私を落ち着かない気分にさせている、このモヤモヤしたものを、一息に解明してしまえるだろうに。

溜め息を一つつき、私は、正面からそれに向き合ってみることにした。このままでは、眠れそうもない。

私を落ち着かぬ気分にさせているそれは、明白だ。――私は背もたれに体重をあずけ、天井に視線を投げた。

彼女が複数の男の子と付き合っていた、そんな事は問題ではない。無節操な恋人に愛想を尽かし、他の誰かに心を魅かれる……よくある話だ。

ただ、一心に、唇に微笑まで浮かべてマフラーを編み続けていた姿とは、どうにも埋めようなないギャップがある。

そう、ギャップ、なのだ。

マフラーを編む彼女の姿、それは確かに、本物だった。ひたむきな熱い『想い』を編み込み、やがて訪れるであろう喜びの予感に満ちていた。だが……

浮気者の『彼』の為に? それならば、何故、他の男の子と?

私は、思考の堂々巡りを防ごうと、大きく煙を吸いこんだ。厚いカーテンの向こうから、寝静まった街を渡る犬の遠吠えが、微かに伝わってくる。

「確かに、もっともだ」

独り言を呟きながら、私は、白い煙に、夕刻の女子学生の顔を思い浮かべていた。――確かにあの女子学生の疑問は、もっともだ。 愛想を尽かして他の男の子と付き合っていながら、『彼』のために泣けるものだろうか。そのうえ、あれほど懸命に編んでいたマフラーを捧げてしまえるものか。むしろ……

私は、次に続く思考を言葉にするのを、一瞬、ためらった。

……むしろ、彼の死を喜ぶのが自然ではないだろうか? いや、それ以前に、殺意を抱くほうが先かもしれない。

そう、たとえ彼女でなくとも、彼と付き合ってた女の子の中には、彼を憎んでいた者がいたとしても不思議ではない。

――待てよ……

横道にそれて行く思考の中で、ふと、奇妙な思い付きが頭をもたげてくる。

『彼』は、本当に事故死だったのだろうか?

確かに、あの鑑察医は、そう判断した。しかし、偏見があったのかもしれない。他殺であっても痕跡が残りにくければ必ずしも見破れるとは限るまい。実際にそんなケースがあったことを、何かで読んだ覚えがある。確かその時は、幅の広い、柔らかな布か毛皮で首を絞められていたのだと言う。

そう云えば、彼女はマフラーを編んでいた――何を考えているのだ、私は!

私は、自らの思考に戦慄した。引っ掛かっていた物は『これ』だったのか。いや、そんな馬鹿な。あまりに現実離れしている。

だが、これがギャップを埋める唯一の解答ではないか――もう一人の私が囁く。そうだ。『これ』以外にギャップを埋める答は無い。

そう……

夜更けの公園――、彼と彼女の他に、人影は絶えて無い。記念日の祝杯によってふらつく彼の足が、枯葉を踏み砕く音を大きく響かせる。木枯らしが、息を白く染めていたかもしれない。

立ち止まった彼女は、少し背伸びをして、彼の首にマフラーを巻く。この日の為に編んでいたマフラーを。そして、背後に廻る。似合うわよ――そう言いながらマフラーの両端を握りしめる……唇には、あの微笑を浮かべていたろうか。

首を絞められた彼に、抵抗する術は無かった筈だ。何が起きたのかさえ認識できたかどうか。声すら立てることも出来ず、彼は崩れ落ちる。その時に頭を石にぶつけたのか。それとも、彼女が石を拾い、とどめを……

私は、強く頭を振った。もう一人の私が囁く妄想を振り払うように。そんな事があった筈が無い!

どうして?――『私』が問い返す。では、半年も前から気まずくなっていた彼の為にマフラーを編む理由が、他にあるのか?

「彼を、愛していたから」

私は、呟いた。しかし、口から出たその言葉は、物音一つ無い部屋に、あまりにもうつろに響くだけだった。

ふん――『私』が冷笑する。お前はいくつになってもセンチメンタルだな。彼のしていたミトンを思い出してみろ。大学生の男が毛糸のミトンなどする筈が無いではないか。彼が喉をかきむしって爪の間に毛糸が残っても、後でマフラーと同じ毛糸のミトンをはめさせておけば不自然に見えないだろうな。

私は、立ち上がると、戸棚からスコッチとグラスを取って来た。あまり酒を呑む習慣のない私だが、どうにも呑まずにいられなかった。

慣れない酒に少しむせながら、私は二杯目を注いだ。琥珀色の液体を見つめながら、なおも増殖を続ける妄想に、呆然と身を任す

そう、女子学生達が不思議がっていた告別式での彼女の涙、それすらもお棺の中にマフラーを入れる為の手段ということならば、納得がいく。

唯一の物的証拠を、公然と、そして密やかに灰にしてしまう為の皮肉な手段――一連のギャップを埋めるジグソーパズルの、それは最後の一片のように、あまりにもしっくりと収まるように見えた

そう……だった……のか……?

いつのまにか三杯目のグラスを干し、私は四杯目を注いでいた。少しこぼしてしまったのは、酔いのせいだけでは無いのかもしれない。いや、やはり私は酔っているのだ。

酔いの廻った私の頭の中に、あの日の彼女が浮かんでいた。

一心にマフラーを編む姿……唇に微笑を浮かべて夢見ていてのは、あの瞬間だったのだろうか。ひと目ごとに編み込んでいた『想い』は、ああ、それは殺意だったのか。

そうなのかも、しれない……

朦朧と霞のかかった頭の中で、私は、呟くように考えていた。

数ヶ月をかけて、少女達に黙々と小さな世界を編み上げさせるだけの熱い『想い』は、恋でなければ、殺意の他にありはしまい。

そう、一心に編み込んでゆく『想い』は、くりかえし繰り返し想い描いても、なお冷め遣らぬほどに、熱いものでなくてはならないのだから………


◆ ◆ ◆


雲一つ無い空は、底知れぬほど蒼かった。冷たく冴えた空気は、固体のように、手で触れられそうな気さえする。

私は、いつものようにパイプをくわえ、店の前を掃除していた。前夜の深酒にもかかわらず、宿酔にならなかったのはありがたい

ふと手を休め、私は、右手を額の上へかざした。公園の木々が裸になってしまったので、弱々しい朝日とはいえ、かなり眩しく目を刺激する。

まったく、こんな上天気の下で振り返れば、正体をさらした枯れ尾花のように、昨夜の妄想など色褪せてしまう。

そう、あれは、孤独な夜が生み出した妄想に過ぎなかったのだ――、深く吸った煙を吐き出しながら、こう胸の中で呟いたとき、

「おはようございます」

聞きなれた声が、私の背後から掛けられた。

振り向けば、無論、彼女だった。

制服姿に、見慣れた鞄と手提げを持った彼女は、やはり制服の、同じ年頃の男の子と一緒だった。通学する彼女を見るのは初めてだが、今朝は、彼を誘って回り道をした為だろうか。

「おはよう」

昨夜の妄想のせいか、私は、年甲斐も無くはにかんだ微笑を浮かべた。二人は、そのまま通り過ぎる。すれ違いざま軽く会釈をした彼は、いかにもおっとりと素直そうに見えた。

背の高い彼の右側に並んだ彼女が、背伸びをするように上を見て話し掛けながら歩いて行く後姿を、私は、箒に凭れるようにしながら見送った。

いかにも幼く、微笑ましいカップル。そう、あんなことがある筈が無い。

そう思いながら、私は、ふと、微笑が強張るのを覚えていた。

左手に下げられた彼女の鞄と手提げ――、彼との間を隔てるように下げられた手提げからは、編み掛けらしいマフラーの端がのぞいていた。


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