轡で犬は踊る
降り注ぐ雪は、山荘を覆い尽くさんばかりの勢いである。
避暑として適している開けた高地に建つ山荘だが、凍える冷たさが呼吸の度に喉を刺す冬には迎え入れるべき来客が少ない。その上、例年より降雪が激しいとくれば山荘から漏れる光は殆どなく、侘しさを感じさせるのだった。
初老の男は、ウールの手袋を擦り合わせて息を吐いた。白く濁る、というより凍ってしまいそうな極寒の中を歩き続けていた彼だが、紫の唇と白粉を塗りたくったような顔は限界を如実に表している。そうなった原因は彼自身のあらゆる準備不足にあるのだが、命の危機に藁をもすがりたくなるのはどうしようもないことである。彼は一縷の望みを紡ぐために、よろけそうな体を叱咤し歩むのである。
登山に向かう最中に見かけた、明りを灯す唯一の山荘を目指して。
男にとって僥倖だったのは、その山荘が近くにあったことだった。吹雪荒れ、一面が真っ白の銀世界は方向感覚を狂わすがしかし、光までを掻き消すことは出来なかった。彷徨い続けて数時間、彼が初めて安堵の息をついたのはその光を認めることができたからである。
体に鞭を打ち、激しく息をつきながら歩みを速める。見た瞬間は近くに思えたその山荘だが、近づくほどに遠く思えるのは募る疲労のせいだ。
やっと目的の大きな山荘に辿り着いた男は、木製の扉を震える手でノックする。それに対する反応は速かった。
扉は直ぐに、開けられた。
「どちらさまでしょうか?」
出てきたのはエプロンドレス姿の少女だった。いや、男が少女だと思ったのは主に幼さを残す顔立ちのせいであり、落ち着いた雰囲気と滑らかな口調は十分に理知的な大人の女性を感じさせるものである。
しかしなにより男の目に留まったのは女性の容姿ではなく、エプロンドレスだ。女中、などという存在が想像の中だけのものである彼の世界とはかけ離れた人物がこの山荘の所有者であることは容易に想像がつく。
「あ、いや、すみません。この吹雪の中、少々迷ってしまいまして・・・よろしければ少しの間、暖をとらせてほしいのですが」
本音を言えばこの吹雪が止むまで留まらせてほしいのだが、見ず知らずの他人がそこまで求めるわけにはいかないだろうという遠慮と、断られる訳にはいかないという心配での言葉だった。彼にとって一番避けたいことは、再びこの吹雪の中を歩くことなのだ。
「少々、お待ちいただけないでしょうか?」
女性はそう言って、扉を閉めた。
どれくらい待っていたのか男には分からない。ただこの寒い中で待たされる時間は非常に苦痛なものだった。どうせなら中に入れてくれれば良いのにと顔を顰める彼が、扉の開く音を捉えて愛想笑いを浮かべたのは、待たされてからほんの数分後のこと。しかし彼が、それより遥かに長く感じたのは当然のことだった。
扉を開けて出てきた女性は、無表情でリップに濡れた唇を開ける。
「お待たせしました。どうぞ、お入りください」
まっ白な掌を室内に向けて、女性は慇懃に腰を曲げた。外で待たされ気分を害していた男だったが、その丁寧な一礼を受けて恐れ多い気持ちになった。遭難し、突然押し掛けた身で何と甘えたことを考えていたのだろうと恥じ入り、頭を払う。
「こちらこそ、無理を言って申し訳ありません。本当にありがとうございます」
頭を下げたまま女性はただ、いえ、とだけ答えた。
女性に席を勧められた男は感謝の言葉を再び口にして、山荘に入る際に脱いだアイゼンを床に置き、暖炉の近くのソファーに腰を掛けた。
背を伸ばし、唸る。疲労の激しい足は張っていて、少し動かしただけでも痛みが走る。よくここまで歩いたものだと自分を褒めてから男は、改めて部屋を見回した。
あえて形容するならドローイングルームだった。大きなテーブルにソファー、そして火を灯す暖炉。客人を迎え入れるための部屋であることは間違いないのだろうが、それにしてはあまりにも多い本棚に目がいく。しかもその本棚に収まる書籍の殆どがミステリーであり、客人の為に揃えられたものとしては配慮に欠けている。
この山荘の所有者はどれだけミステリー好きなのだろうかと少し呆れた男は、そこで首を捻った。
ドローイングルームには男と、そして男を案内してくれた女性しか居ない。そう、この山荘の所有者の姿が見えないのである。 そしてそれは、彼にとって随分と不思議なことであった。
女性は、自分を待たせた。その理由は当然、この山荘の所有者に確認をとるためだろう。ならば山荘の所有者が客人を迎え入れる部屋であるドローイングルームに居ないのは、おかしなことではないだろうか。
男の仕草を見て女性は察したのだろう。天井のシャンデリアから降る光を受け入れて煌く磨き抜かれたグラスにワインを注ぎながら言う。
「申し訳ありません。主人は、お客様がお会いすることの出来ないところにいらっしゃいます。ですが、お客様をお迎えするよう命令は受けております。ご安心ください」
あの数分の間に、電話で連絡をとったのだろうか。もやもやと胸中は疼いたが、それは微々たるもので、なによりも助かった安堵が大きく、小さな不可解は影もなく消し去られた。
透き通る深紅のワインが波打つグラスをトレーに乗せ、女性は男の前にそれを持って行く。初めは断った男だが、喉の渇きは如何ともし難く、二回目の勧めでグラスを受け取った。
ワインの香りや味はあまり分からない。だがこのワインがそれなりのものであることは、色褪せたラベルから勘付いていた。だから、知ったようにうんうんと頷く。
一杯、二杯。注がれるままに飲み乾す。酒に強いわけではない男の顔は次第に赤くなり、饒舌になる。
「それにしても・・・女中さんはたった一人でここを管理しているのですか?」
「はい。命令ですから」
何の表情も浮かべず、当たり前のように女性は答えた。
「命令ですか。一人で山荘の管理なんて、さぞ大変でしょうに」
「いえ、問題ありません。命令ですので」
男は理由もなく笑い、窓から外を見た。まだ吹雪は激しく、アルコールの回った体でこの中を歩くなど愚の骨頂である。
頭を掻く。饒舌だった彼が口籠った。
「大丈夫です。お酒を勧めておいて、野暮なことは致しません。吹雪が止むまで、いえ、止んでからもここに居て下さって結構です」
「本当ですか!?・・・すみません、甘えさせてもらいます」
「どうぞ」
女性はそう言って、ドローイングルームから出て行った。どこに行ったのだろう、と思う間もなく眠気が襲いかかり、男はソファーに背を預けて寝息をたて始めた。
暖炉の中で燃える薪がパキリと割れる音がして、男は目覚めた。いつの間にか、食欲を刺激する良い匂いが漂っていて、彼はその匂いの方向へ顔を向ける。
「お食事になさいますか?」
いつの間にか赤いテーブルクロスの敷かれた大きく長いテーブル。その上には花の描かれた洋食器が並べられていた。だが料理はそこになく、その匂いはこの部屋以外のどこかから漂ってきているようだった。
「そんな、食事まで頂くわけには」
「いえ。お気になさらず」
「・・・ありがとうございます」
感謝の言葉を告げる。生命の危機の前には些細だったお腹の減り具合。しかしこうして安全を得た今となってはそれが最も気にかかるのだ。ガスコンロや食糧の入ったカバンを雪山に捨ててきた男にある用意は味気ない非常食だけ。文句を言える立場ではないのだが、大の男の晩餐としては物足りないのも事実だ。
出された食事は、豪勢と言って差し支えないものだった。こんな手の込んだ料理をどこで作ったのだろうかと男は疑問に眉根を寄せる。ドローイングルームのようなこの部屋にはキッチンが備わっているのだが、規模は小さく簡易な器具しかない。そこで眼前の、見目麗しく美味しそうな料理を作れることができるとは思えなかった。
その疑問に、女性はやはり感情を乗せずに答える。
「この山荘の一室に厨房があるのです。よろしければ、ご案内いたしましょうか?」
「いえ、結構です。それにしても、あなたに隠し事は出来ないようだ。私の疑問を、何でも見抜いてしまう」
「大したことではございません。ここにいらっしゃるお客様によく聞かれることをお答えしているだけでございます」
それから女性は、グラスの半分を満たして空になった赤ワインを見やった。
「申し訳ありません。ワインを切らしてしまいました。地下のワインセラーから新しいものを取ってまいりますので、少々お待ち頂いてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いません。むしろ、取って来ていただけるなんて、恐れ多いくらいで・・・」
厨房にワインセラーまであるのかと男は驚きながら手を振る。
女性はいつもの無機的な、それでいて礼儀正しい一礼をして部屋から出ていく。
あの女中さんでもミスはするのだな、と男は口元を緩めた。機械的な女性のそんな人間らしさは、彼にちょっとした優越感と親近感を与えた。
ほどなくして女性はワインを持って戻って来た。大変失礼しました、と謝るその時でさえも表情は微動しない。
ワインの格調高さはやはり分からなかった。決して不味いわけではないのだが、渋く苦い味の為に多大なお金を使うことは、男には出来そうにない。だが、料理は舌鼓を打つ素晴らしい味で、彼は満足しお腹を擦る。
一瞬、意識が霞んだ。お腹が膨れれば睡魔が襲い来るのは常だ。つい先程満たしたはずの睡眠欲が身体中から力を奪っていく。
目を擦る。その動作を見て、女性は男に問う。
「お休みになられますか?」
「すみません。お腹一杯になって、また眠くなってしまいました」
「お客様用の寝室は、二階にございます。ご案内致します」
覚束ない足取りで、女性の後をついて行く。一階と二階を繋ぐ階段に足を掛けたところで男は壁に掛けられていた肖像画に気が付き、女性に聞かずにはいられなくなった。
「この肖像画は・・・」
「はい。主人でございます」
口髭と顎鬚をたっぷりと蓄え、険しい表情を浮かべる肖像画の人物。男には、女性の主人が、他人に善意を施しそうな人間では無いように見えた。勿論それはあくまで肖像画から受けた印象であるのだが、睡眠欲に支配され回らない頭は無粋な疑問を抑止できるだけの理性を持ち合わせていなかった。
「どのような方なのですか?」
そう、口にしてしまう。
「そうですね。負けず嫌いな方、というのは女中としてはあるまじき言葉ですが、最も適した表し方ではないかと思います。毎回命じられる無理難題を完遂すると不機嫌そうに、よくやったと言葉にしておられました」
「はぁ。無理難題を命じられるとは、大変ですね」
「いえ。どのような命令であろうとその全てを完遂すること、それが私の誉れでございますから」
二階には三つほど扉があった。女性は階段を上ってすぐ、一番手前の扉を開けて男をその部屋に迎え入れた。
室内は非常に綺麗だった。隅々まで清掃が行き届いていて、美しく作られたベッドに年甲斐もなく飛びかかりたい気持ちで一杯になる。
「何か御用がありましたら、直ぐにお申しつけください」
女性がそう言って部屋から出ていくと、男はベッドに飛び乗った。しばらくその弾力を堪能していたのだが、強まる睡眠欲に長く逆らうことは出来ず、意識を暗闇の中に手放した。
冷ややかだった。雪山の刺すような冷たさではなく、心地良いと言える温度。しかし、どう考えてもベッドに包まっている温度ではない。
男は目を開ける。暗くて周りがどうなっているかはっきりと視認することは出来ない。ただ埃が喉に絡むこの場所が、寝ていたはずの客人用の部屋でないことは、はっきりと分かる。
どうしてこんな場所に居るのか。確かめるために立ち上がろうとして、そこでやっと男は気が付いた。
手と足が、ロープで縛られていた。男は必死に体を揺すりロープの拘束から抜け出そうとする。しかし、それくらいでロープが緩むはずもなく彼の抵抗は徒労となった。
「どうなっているんだ!どこなんだここは!?・・・・夢、なのか?」
「いえ、夢ではございません」
テンポ乱れぬ歩調で横たわる男の前に現れたのは、女性だった。右手に持っているランタンが怪しい光をこの場所に灯し、そうして男はここがワインセラーであることを知った。
「夢ではない・・・じゃあなんで、俺は拘束されているんだ!」
女性は怒りの籠った男の言葉に、事もなげに返答する。
「主人の、命令でございます」
「めい、れい?」
口にして、男は頬を痙攣させながら乾いた笑いを零した。
「ここの主人も、あんたも、やっていいことといけないことの区別がつかないのか!?」
「主人の命令を完遂させること。私にとってはこれが第一。区別や判断など必要ありません」
能面のような顔。男の背中に、戦慄が走った。
眼前の女性が命令こそ全てと考えていることは疑いようもなく明白で、女性のその病的な思考故に彼は、自分の身の危険を今さらながら思い知るのである。
「あんたの主人に会わせろ。何をするつもりか知らないが、絶対に間違っている!」
「主人、でございますか?」
雪のように白い指がゆっくりと動き、男のすぐ横を指した。
その指の差す先に目を向ける。ランタンで明るくなったワインセラー。とはいえまだ仄暗く、最初はそこに何かがあることだけしか分からなかった。しかし、目を細めてそれが何であるかを確かめた男は、声にならない呪詛のような言葉を叫ぶ。
「主人ならそこにいらっしゃいます」
そこにあったのは押しつぶされそうな白。いや、白だけでなく所々に黒もある。だがどちらにせよそれは、男に恐怖にもたらす物に他ならない。
骸骨。人の頭部と思わしきそれが、じっと男を見据えていた。
「な、な、なにを・・・あんた、何をしたんだ!?」
「命令でございます」
それまで背中に隠されていた女性の左手が、闇を切った。その手に握られているのは、命まで届きうる鈍い煌きを放つ凶器。
「一体何を!あんたは何を命令されたんだ!?何のために、こんなことを!」
「命令されたこと、でございますか?」
小首を傾げ、凍ったような表情のまま女性は、口を開いた。
「 」
「そんな、そんな命令の為に・・・人を殺すのか!?」
振り絞るような声でそう言う彼の脳裏に浮かんだのは、ミステリーだらけの本棚。そして女性の幾つかの言葉。
「はい。私はそのために、ひたすらこの山荘に居続けるのです。私の死で、ピリオドが無くなるまで」
助けてくれ、と最期に男は命乞いをした。しかしその懇願が聞き届けられることはない。女性はただ勢いよく、手に持っていた包丁を突き刺した。
「ご覧頂けましたか?」
グラスを磨く。抑揚の無い声を掛けた先は、赤いテーブルクロスの上の骸骨。
当然、答えは返って来ない。だがしかし、女性は待ち続けるのだ。主人の命令を果たすその時を。
一番苦手なジャンヌです。整合性が上手くとれません。
空白の部分にはセリフがありましたが、何となく削ってしまいました。