ピロン!SAN値が回復?しました
「修也〜、ちょっとテレビ見て」
「きゅ?(ん?)」
梓に呼ばれ、テレビへ視線を向ける。
画面に映っていたのは、いつものニュース番組だった。
『──本日午後、〇〇市内で、突然身体が大きく変化したと訴える男性が確認されました』
「きゅう?(身体が変化?)」
「なんかね、朝起きたら急にこうなってたんだって」
「きゅう(こうって……)」
画面が切り替わる。
「…………」
思わず、テレビに近づいた。
映っていたのは、どう見ても普通の人間ではなかった。
二メートルはありそうな大きな身体。全身は白っぽい長い毛で覆われ、腕は膝近くまで伸びている。少し前屈みになったその姿は、昔テレビか何かで見た──。
(……イエティ?)
雪山にいるとかいないとか言われている、あの未確認生物によく似ていた。
『男性によりますと、昨夜就寝した時点では身体に異常はなく、今朝目を覚ました際、現在の姿になっていたということです』
「…………」
『意識や記憶に異常はなく、会話も可能です。また、現時点で周囲の人に危害を加えるなどの行動も確認されていません』
映像の中では、その男性が警察官と何かを話している。
声は聞こえない。
けれど、警察官の問いかけに頷いたり、身振りを交えながら答えたりしていた。
俺は自分の身体を見る。
いくつもの触手。
人間のものとは似ても似つかない身体。
もう一度、画面を見る。
全身を毛に覆われた男性が、警察官と話している。
俺とは、まるで違う姿。
それでも。
(……同じ、なのかな)
「きゅう……」
俺以外にも、いた。
そう思うと、少しだけ安心した。
ずっと、こんなことになったのは自分だけだと思っていたからだ。
『警察や関係機関は、男性に薬物の摂取や投与がなかったか、変化が起きる以前に周辺で不審な出来事がなかったかなど、詳しい経緯を調べています』
(薬物……)
もちろん、そんなものを使った覚えはない。
(不審な出来事……)
考えてみる。
(……ないよな)
怪物になる前の日も、いつも通りだった。
仕事に行って。
梓と出かけて。
風呂に入って。
寝た。
強いて言うなら──。
(ああ、そういや虫に刺されたっけ)
痒くもなかったし、いつの間にか跡も消えていた。
あれが原因だったとは思えない。
「修也?」
「きゅ?(ん?)」
「どうしたの?」
「きゅう(なんでもない)」
「そっか」
梓は再びテレビを見る。
「それにしても、大変だねぇ」
「きゅう……(うん)」
「朝起きたら急にこんな姿になってるなんて、びっくりするよね」
俺はテレビに映る男性を見る。
それから、自分の身体を見た。
(……そうだな)
俺も、そうだった。
目を覚ましたら、突然こんな姿になっていた。
いまだに何が原因なのかも分からない。
元に戻る方法も分からない。
画面の下には、大きな文字が表示されていた。
『原因不明の身体変異か 専門機関が調査へ』
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
◇◇◇
それから、数日後。
『──本日、新たに三名から同様の身体変化が確認されました』
朝。
テレビから聞こえてきた言葉に、食事をしていた手が止まった。
「きゅう?(また?)」
「まただねぇ」
梓もパンを齧りながら、テレビを見る。
最初に全身を毛に覆われた男性が見つかってから、まだそれほど経っていない。
けれど、あれから似たような事例が、ぽつり、ぽつりと報告されるようになっていた。
そして。
『今回確認された三名は、いずれもこれまでとは異なる身体的特徴が見られるということです』
画面が切り替わる。
(うわ)
一人は、全身が硬そうな鱗に覆われていた。
額からは二本の角が伸び、背中には小さな翼のようなものまで生えている。
(……ドラゴン?)
次に映ったのは、妙に丸っこい身体をした何かだった。
全身を薄い緑色の半透明なものに覆われ、歩くたびに身体がぷるぷると揺れている。
(スライム……?)
そして、最後の一人。
頭がやけに大きい。
身体は細く、灰色がかった皮膚に、黒く大きな目。
(宇宙人だ……)
というか。
(なんで全員、方向性バラバラなんだよ)
最初の人はイエティ。
今度はドラゴンにスライムに宇宙人。
同じ現象だと言われなければ、まったく関係があるようには見えない。
『三名とも意識や記憶は明瞭で、現時点で人格面にも大きな変化は確認されていません』
画面の中で、ドラゴンのような姿をした男性がインタビューに答えている。
『いやぁ……自分でもまだ信じられないですよ。昨日まで普通だったんですけどね』
(おお、この人も普通に喋ってる)
『ご家族とも会話はできていますか?』
『できます、できます。ただ、娘には最初めちゃくちゃ泣かれましたけど』
男性が困ったように笑う。
『今は「パパ、ドラゴンみたいでかっこいい」って言われてます』
『それは嬉しいですね。今後、お仕事などはどうされる予定ですか?』
『あ〜……それなんですよね。今の仕事を続けられるのか、まだ会社とも相談中で』
男性は腕を組み、少し考える。
『最悪、ファンタジー映画とか出られませんかね?俺』
『映画、ですか?』
『ほら、CGいらないじゃないですか』
『ふふっ、確かに』
『結構な制作費削減になると思うんですけどね』
「ぶふっ」
梓が吹き出した。
「この人、強いなぁ」
「きゅう(強いな)」
『一方、身体の変化には個人差が大きく、発声が困難になったケースも確認されています。関係機関は、これらが同一の原因によるものかも含め、調査を続けています』
「…………!」
(喋れない人もいるんだ)
思わずテレビへ身を乗り出した。
(……俺だけじゃないんだ)
さっきのスライムみたいな人も、見る限り口らしいものはなかった。
(……あの人、どうやって人格に問題ないって確認したんだろ)
なんだろう。
喜ぶようなことじゃない。
あの人たちだって、突然こんなことになって困っているはずだ。
分かっているのに。
(……もしかして、もっと増える可能性もあるのか?)
そんな期待があった。
「でも、不思議だね」
「きゅ?(何が?)」
「みんな全然違う姿になるんだね」
「きゅう(ああ)」
「最初の人は雪男みたいだったし、この人はドラゴンみたいだし」
「きゅう(そうだな)」
「どうやって決まってるんだろ?」
梓が首を傾げる。
俺も画面に映る人たちを見ながら考えてみた。
(さあ……?)
当然、答えなんて分からない。
ただ。
「きゅう……」
自分の触手を一本持ち上げる。
(……俺はなんで、これなんだろうな)
◇◇◇
それから、一か月ほどが経った。
『──政府は本日、全国で相次いで確認されている原因不明の身体変異について、緊急の記者会見を開きました』
「…………」
いつの間にか。
身体が変化した人のニュースは、珍しいものではなくなっていた。
最初は、一人。
それが数人になり。
十人を超え。
今では、全国各地から毎日のように新たな報告が上がっている。
姿も相変わらず、ばらばらだった。
獣のような姿。
全身を鱗に覆われた姿。
腕が何本もある人。
人の形すらほとんど残っていない人。
俺みたいに、言葉を話せなくなった人もいる。
けれど、ひとつだけ共通していた。
見た目が変わっても、中身は変わっていない。
『これまでに、身体の変異に伴う記憶や人格への共通した影響は確認されておりません』
(やっぱり、そうなんだ)
『また、一連の事例と薬物、感染症、特定の食品や生活環境との因果関係についても、現時点では確認されていないということです』
「原因、全然分かってないんだねぇ」
「きゅう(みたいだな)」
ソファに座った梓が、テレビを見ながら呟く。
『政府は今後、変異の有無にかかわらず、全国民を対象とした実態調査および健康状態の確認を実施する方針です』
『対象者には、居住地域ごとの実施会場や、受診方法などを記載した案内が順次送付される予定です』
「きゅ?(全員?)」
『身体変異については、外見上明らかな変化だけでなく、内臓や感覚器官など、外見からは確認できない変化が生じている可能性も指摘されています』
「へぇ〜」
梓が自分の身体を見る。
「じゃあ、私も何か変わってる可能性あるってこと?」
「きゅう(そういうことみたいだな)」
「実は胃が三つになってたりして」
「きゅう(牛かよ)」
「いっぱい食べられるかな?」
「きゅきゅう(そういう問題か?)」
「ふふっ」
『調査では問診に加え、身体内部の変化についても確認するため、各種検査を──』
テレビの中では、記者から次々と質問が飛んでいる。
俺はそれを眺めながら、自分の触手を一本持ち上げた。
(全国民、か)
当然、俺も含まれるんだよな。
(……ちょっと気になるな)
「検査かぁ。二人とも何もないといいね」
梓は何でもないことのように笑った。
「……きゅう(……そうだな)」
何もない。
俺は自分の身体を見下ろした。
(俺の場合、何もないは絶対ないと思うけど)
◇◇◇
それからしばらくして。
「修也〜、なんか来てるよ」
「きゅ?(何が?)」
梓が郵便受けから持ってきた、大きな封筒をテーブルに置く。
表には、見慣れない行政機関の名前と、『身体変異に関する全国実態調査・健康診断のご案内』の文字。
「おお〜。これかぁ」
「きゅう(来たな)」
梓が封を開け、中身を一枚ずつ取り出していく。
「問診票と……健康診断の案内。あ、場所ここだって」
「きゅ?(どこ?)」
「市民センター。そんな遠くないね」
「きゅう(よかった)」
どうやら居住地域によって、受診する会場が決められているらしい。
案内には、今回の健康診断が外見上の変化が確認されていない人も含めた全住民を対象としていることや、当日の検査内容、持ち物などが細かく書かれていた。
「へぇ。結構ちゃんと調べるんだね」
「きゅう(そりゃそうだろ)」
「採血もあるって。やだなぁ」
「きゅう(俺、採血できるのかな)」
「修也も採血嫌いだもんね〜」
「…………」
(そうじゃない)
そもそも俺に血が流れているのかが分からない。
「日程はいくつかあるみたい。受けられる日をネットで予約してください、だって」
「きゅう」
ホワイトボードを引き寄せる。
『じゃあ、同じ日にしようぜ』
「うん、そうしよっか」
梓がスマートフォンを取り出し、案内に記載された二次元コードを読み込む。
「いつがいい?」
『休みの日』
「じゃあ、この日とか?」
「きゅ!(いいよ!)」
「よし。じゃあ同じ時間で取っちゃお〜」
◇◇◇
健康診断当日。
「人、多いねぇ」
「きゅう(まあ、全員受けるんだもんな)」
会場となっている市民センターには、朝から大勢の人が集まっていた。
受付の列に並ぶ人。
問診票に書き忘れがないか確認している人。
案内板を見上げながら、どちらへ行けばいいのか迷っている人。
その中に、明らかに普通の人間とは違う姿が混じっている。
「…………」
(おお……)
片腕だけが魚のような鱗に覆われた人。
腰から下が、タコの足のようになっている人。
妖怪の百目鬼みたいに、身体中にいくつもの目がある人。
(本当にいるんだな……)
ニュースでは、もう何度も見ていた。
それでも実際に目の前で見るのは初めてだ。
しかも、みんな普通だった。
家族と話したり。
受付の人に書類を渡したり。
待ち時間にスマートフォンを眺めたり。
姿が違うだけで、やっていることは俺たちと何も変わらない。
「きゅう……(普通だな……)」
「修也?」
「きゅう!(なんでもない!)」
なんだか、少し嬉しかった。
こんな姿になってから、外に出るときはいつも人目を気にしていた。
誰にも見つからないように。
怖がられないように。
なのに今日は、梓の隣を堂々と歩いている。
(……俺も普通に来れたんだな)
「修也、受付あっちだよ」
「きゅう!(おう!)」
二人で列の最後尾へ向かった。
しばらく待ち、ようやく順番が回ってくる。
「お願いします」
梓が先に案内状と問診票を差し出した。
「はい、お預かりします。吉田梓さんですね」
「はい」
「では、こちらの番号札をお持ちになって、青色の案内に沿ってお進みください」
「分かりました」
続いて、俺も書類を差し出す。
「こちらは……新井修也さんですね」
「きゅう(はい)」
「新井さんは、赤色の案内に沿ってお進みください」
「きゅ?(お?梓とは違うのか)」
「あれ?」
梓が俺の番号札を見る。
自分のものは青。
俺のものは赤。
「はい。検査内容によってご案内が分かれているんですよ」
「へぇ……」
梓が青と赤、それぞれの案内表示を見比べる。
「何が違うんですか?」
「青色は、現時点で身体変異が確認されていない方。赤色は、すでに身体変異が確認されている方の検査になります」
梓が俺を見て、首をかしげる。
「だったら、なんで修也が赤なんですか?」
「え?」
受付の女性が戸惑ったような顔をする。
そして俺を見る。
「だって……見た目からして、明らかに変わってるじゃないですか」
「……見た目?」
「はい」
「修也の?」
「はい」
「…………」
梓の動きが止まった。
(ああ……そうか)
梓には、俺が人間に見えてるんだった。
受付の人からすれば、俺が赤なのは当たり前だ。
でも、梓にはその理由が分からない。
受付の女性は俺を示しながら、変わらず笑顔で説明を続ける。
「これだけ大きく変化されている方ですと、通常とは検査方法も異なりますので。あちらで専門のスタッフがご案内しますね」
「…………」
梓は返事をしなかった。
ただ、俺を見ている。
「きゅう?(梓?)」
じっと俺を見つめていた梓の表情が、一瞬だけ強張った。
「……?」
「それでは、それぞれ案内に沿ってお進みください」
「あ……はい」
何だったんだ?
そう思いながらも、俺たちは一旦そこで別れることになった。
◇◇◇
俺は検査室の椅子に座っていた。
「ええと……採血なんですが」
「きゅう(はい)」
白衣を着たスタッフが、俺と手元の採血器具を交互に見る。
「…………」
「…………」
「どこから採りましょうか」
「きゅう(俺に聞かれても)」
俺にも分からない。
そもそも、この身体のどこに血管があるのか。
というか、血が流れているのかすら知らない。
「……とりあえず、ここで試してみますね」
「きゅう(どうぞ)」
触手で大きく丸を作る。
「OKということでしょうか?では、失礼しますね」
適当な場所に針が刺される。
もちろん、痛くない。
しばらくすると、注射器の中にゆっくりと液体が溜まり始めた。
「…………」
「…………」
赤くない。
「これ……血液ですかね?」
「きゅう(俺に聞かれても)」
結局、採れた謎の体液はそのまま検査に回されることになった。
そのほかにも身体の大きさを測られたり、触手を一本ずつ確認されたり、よく分からない機械で全身を調べられたり。
普通の健康診断とはだいぶ違ったものの、特に問題が見つかることもなく。
俺の健康診断は、思っていたよりあっさりと終わった。
◇◇◇
【梓視点】
健康診断を終えて家に帰ってきても、梓の頭から受付で言われた言葉が離れなかった。
『だって……見た目からして、明らかに変わってるじゃないですか』
「…………」
靴を脱ぎながら、先に部屋へ入っていく修也を見る。
いつもの修也だ。
何度見ても、どこも変わっていない。
受付の人は、修也を見て「明らかに変わっている」と言った。それも、何を聞いているのか分からないような顔で。
(どういうこと……?)
あの人にだけ、修也が違って見えていた?
それとも。
(私が……違うものを見てる?)
「どうした?」
「……ううん。なんでもない」
振り返った修也にそう返し、梓もリビングへ向かう。
そのとき、視界にざ、とノイズが走った。
「…………え?」
ほんの一瞬、修也の姿が別の何かに見えた。
人の形をしていない、いくつもの細長いものが伸びた黒っぽい何か。
けれど瞬きをすれば、そこにいるのはいつもの修也だ。
「梓、立ち止まってどうした〜?」
「修也……?」
「うん?」
顔も身体も、何も変わっていない。
それでも受付でのことを思い出すと、胸の奥がざわついた。
「修也。ちょっと、そこにいて」
「ん?」
不思議そうに立ち止まった修也を、じっと見つめる。
すると再び輪郭がぶれ、人間の身体に別の何かが重なった。腕が消え、代わりに何本もの細長いものが蠢いている。
「……っ」
瞬きをすれば、また元に戻った。
「梓……?」
梓は確かめるように、修也の腕へ手を伸ばした。
けれど、見えているはずの腕に触れられない。
「え……?」
代わりに何もないように見える場所へ手を伸ばすと、指先に柔らかな何かが触れた。
その瞬間、ざざざっ、と修也の姿が大きく歪んだ。
「…………っ」
人の輪郭が崩れ、見慣れた顔も身体も消えていく。
代わりに現れたのは、不定形の身体から何本もの触手を伸ばし、その表面に二つの目を浮かべた、人間とは似ても似つかない姿だった。
「なに……これ……」
瞬きをするたび、いつもの修也と目の前の異形が何度も重なり合う。
やがて揺らぎが収まったとき、そこに人間の修也はいなかった。
「きゅう……?」
化け物が小さく鳴き、身体を僅かに傾ける。
「……修也?」
「きゅう!」
返事をするように、一本の触手が持ち上がった。
(修也だ)
見た目に面影なんてどこにもない。
それでも、目の前にいるのは修也だと分かった。
梓は恐る恐る手を伸ばした。
修也から伸びる触手へ、指先が触れる。
柔らかい。
けれど。
(……知ってる)
初めて触れた気がしない。
修也の腕に触れているつもりだったときも。
隣に座って、身体を寄せたときも。
そのまま眠ってしまったときも。
ずっと、この感触だった。
(私……ずっと、これに触ってたんだ)
「……修也」
「きゅ?」
「もしかして……」
聞くのが、少し怖かった。
「ずっと……この姿だったの?」
「…………」
修也の動きが止まる。
やがて一本の触手がホワイトボードを引き寄せ、ペンを持った。
きゅっ、と短く文字を書く。
『うん』
たった二文字。
その文字を見つめていたとき、ふと、以前のことを思い出した。
『旅行は無理だろ』
「…………あ」
初夏に二人で行った温泉。
紅葉が綺麗な季節になったら、また同じ場所へ行こうと誘った。
なのに修也は、旅行は無理だと言った。
『どうして?』
自分は、そう聞いた。
だって本当に、分からなかったから。
修也は何も変わっていない。
電車に乗って。
旅館に泊まって。
二人で遊歩道を歩いて。
また滝の前で写真を撮ればいい。
そう思っていた。
あのとき修也は、もう一度ホワイトボードに何かを書いた。
『俺はもう』
そこまで書いて。
消した。
「…………」
梓は、目の前の修也を見る。
人の形を失った身体。
何本もの触手。
人間とは、まるで違う姿。
(……行けないよね)
こんな姿になって。
今までと同じように電車に乗って、たくさんの人がいる場所を歩いて、旅館に泊まるなんて。
できるわけがない。
なのに自分は。
『どうして?』
何も分からず、そう聞いた。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
(そういうことだったんだ……)
どうして修也が外に出なくなったのか。
どうして旅行は無理だと言ったのか。
どうして『俺はもう』の続きを書かなかったのか。
今なら、分かる。
分かってしまう。
そのとき、頭の奥で何かが弾けた。
『──いやああああああああああっ!!』
「…………え?」
自分の悲鳴とともに、薄暗い寝室の光景が蘇る。
ベッドのそばにいる、今と同じ姿の修也。
『来ないで!』
怖くて、逃げたくて、目の前にいるそれを必死に拒絶した。
そして、床に置かれたホワイトボード。
『俺が
修也』
「……あ……」
知っていた。
今初めて、この姿を見たんじゃない。
あの夜、修也がこの姿になったとき、自分はちゃんと見ていた。
『明日……映画……見る約束、してたよね』
『炭酸と、ポテチ……買わなきゃ』
「やだ……」
次々と記憶が蘇る。
修也がこんな姿になったことも、それを見て自分が叫んだことも、修也が必死に自分だと伝えてくれたことも。
全部、知っていた。
ただ、受け止めきれなかったのだ。
修也は何も変わっていない。昨日までと同じ修也が、今日も隣にいる。
そう思い込むことで、なかったことにしていた。
「…………」
梓は目の前の修也を見る。
「きゅう……?」
心配そうに、二つの目がこちらを見ている。
ずっと。
修也はこの姿だった。
自分が見ていなかっただけ。
「……ごめん」
「きゅ?」
「ごめんね、修也……」
触手を握る手に、ぎゅっと力を込める。
「気づいてなくて、ごめんね」
「…………」
「辛かったよね」
外にも出られなくなって。
行きたい場所にも行けなくなって。
「嫌だったよね……」
それなのに自分は、何も変わっていないような顔で、次の旅行の話なんてして。
「傷ついたよね……」
そして何より。
「そのままの修也を……受け入れられなくて」
あの夜。
怖がった。
拒絶した。
そのくせ、その事実さえ見ないふりをして。
「……ごめんね」
修也は何も言わなかった。
ただ、梓に握られていた触手を、そっと引き抜く。
「あ……」
離れていく。
そう思った。
けれど触手はホワイトボードへ伸び、いつものペンを掴んだ。
きゅっ。
短い音を立てて、文字が書かれる。
『いいよ』
その文字を見た瞬間、視界が滲んだ。
「……そっか」
涙を拭って、笑う。
「ありがとう」
梓は目の前にいる修也を見た。
もう、その姿は揺らがなかった。
「改めて、よろしくね」
「きゅう」
「これからもずっと、一緒にいてくれる?」
修也の触手が動いた。
一本。もう一本。
梓の目の前で、何本もの触手が器用に曲がっていく。
やがて出来上がったのは、大きな丸。
「…………ふふっ」
梓は泣きながら笑った。
「何それ」
「きゅう!」
「ちゃんと返事してよ」
そう言いながら、梓はその丸に手を伸ばした。
触手に触れる。
今度はちゃんと、そのままの修也に。
◇◇◇
窓から入り込んだ風が、レースのカーテンをふわりと揺らした。
「ん〜、いい天気」
梓は大きく伸びをして、窓の外を見る。
暖かな陽射し。
雲ひとつない青空。
開け放った窓からは、心地のいい風が部屋の中へ流れ込んでいる。
「修也〜、今日どうする?」
「きゅう」
「散歩?」
「きゅう!」
「いいねぇ。じゃあ、お昼食べたら行こっか」
返事をするように、修也の触手がぴょこんと持ち上がった。
「ふふっ」
梓は笑いながら、テーブルの上に置かれた写真立てへ目を向ける。
そこには、二枚の写真が飾られていた。
一枚は、初夏に旅行へ行ったときのもの。
緑に囲まれた滝を背景に、二人並んで写っている。
修也の身体に寄り添って、楽しそうに笑っていた。
その隣には、もう一枚。
つい先日、同じ場所へ行って撮った写真が飾られている。
季節が変わって、木々は鮮やかに色づいていた。
同じ滝。そして同じ二人。
隣にいる修也の姿だけが、すっかり変わっていた。
それでも、修也は修也だ。
そして、二枚の写真に写る自分の笑顔も、どちらも変わらなかった。
「……ほんと、全然気づいてなかったんだなぁ」
「きゅ?」
「ふふ、なんでもないよ」
聞こえてきた鳴き声に、梓は小さく笑った。
カーテンは、もう閉じられていない。
暖かな陽射しと心地のいい風が、二人の暮らす部屋へ入り込んでいた。
エンド8:変わらない日常




