――選んだのは、私だった――「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」元婚約者の後日談
これは、「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」な元婚約者アルベール視点のの後日談です。
――選んだのは、私だった
白薔薇を見るたびに、私はあの日のことを思い出す。
王都の薔薇園。
柔らかな春の日差し。
籠の中に並んだ白薔薇。
そして、何よりも。
私の言葉を聞いたフィオナの、静かな顔を。
『婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください』
あのときの私は、その言葉の意味を理解していなかった。
いや。
理解しようとしなかったのだ。
私は、フィオナが泣くと思っていた。
怒ると思っていた。
私を責めると思っていた。
それでも、最後には私を引き止めるのではないかと。
どこかで、そう思っていた。
だから。
彼女が何の抵抗もせずに婚約解消を受け入れたとき、私は妙な苛立ちを覚えた。
なぜだ。
なぜ、そんなに簡単に手放せる。
なぜ、もっと私を必要としてくれない。
なぜ――。
今なら分かる。
私は、最後の最後まで自分のことしか考えていなかった。
フィオナがどれだけ傷ついたのか。
どれだけ我慢していたのか。
考えようともしなかった。
◇
婚約を解消した直後。
私はミレイユと正式に婚約した。
周囲は祝福してくれた。
「おめでとうございます」
「お似合いのお二人ですね」
「アルベール様も、これでお幸せになれますね」
その言葉を聞くたびに、私は笑った。
そうだ。
これでいい。
私は自分の望んだ女性を選んだのだ。
フィオナとの婚約は間違いだった。
そう思い込もうとした。
ミレイユは明るく、優しく、私の話をよく聞いてくれた。
何より、私を褒めてくれた。
フィオナとは違う。
そう思っていた。
けれど。
領地へ戻ったとき、私は初めて違和感を覚えた。
「この帳簿は、どうしてこんなに複雑なの?」
ミレイユが眉を寄せて言った。
「昔からこういうものなんだ」
「では、もっと簡単にすればいいのではありませんか?」
「……そうだな」
私は頷いた。
フィオナならどうするだろう。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
私はすぐに振り払った。
もう彼女はいない。
だから、考える必要などない。
私はミレイユを選んだのだから。
◇
最初の一年は、何とかなると思っていた。
収穫量が少し落ちても、一時的なものだと思った。
税収が減っても、来年には戻ると思った。
使用人が辞めても、新しい者を雇えばいいと思った。
何もかも。
簡単に考えていた。
フィオナがやっていたことを、私は知らなかった。
どの作物を、どの土地に植えるのか。
どの季節に、どの商人と契約するのか。
どの支出を削り、どこに投資するのか。
隣領との関係をどう維持するのか。
それらを決めていたのが、フィオナだったことを。
いや。
正確には。
フィオナが私に何度も説明してくれていた。
『こちらの作物は今年、収穫量が増える見込みです』
『隣領から交易の話が来ています。今のうちに契約を見直した方がよろしいかと』
『この支出は削っても問題ありません』
私は何と答えていた?
『領地のことは僕に任せてくれ』
そう言った。
フィオナは、それ以上何も言わなかった。
ただ、
『分かりました』
と微笑んだ。
あの微笑みの意味を。
私は何年経っても忘れられない。
◇
すべてが崩れ始めたとき。
私は初めてフィオナに会いに行った。
王宮の庭園。
雪が降っていた。
彼女は以前よりずっと綺麗になっていた。
けれど、それは私のためではなかった。
質素な研究院の制服。
雪を払いながら歩く姿。
以前のように、私の顔色を窺うこともない。
「領地を……助けてほしい」
私は言った。
情けないことに。
それしか思いつかなかった。
フィオナなら何とかしてくれる。
そう思っていた。
すると彼女は、静かに私を見た。
「それは難しいと思います」
「なぜだ!」
私は声を荒らげた。
フィオナは少しも怯えなかった。
「もう私は、伯爵家の人間ではありませんから」
その言葉が胸に刺さった。
私は、何も言えなかった。
そうだ。
彼女はもう私の婚約者ではない。
私がそうした。
私が選んだ。
それなのに。
私は彼女に助けを求めた。
なんという都合のいい男なのだろう。
「私がいた頃、領地経営について何度もご相談しましたよね」
「……ああ」
「そのとき、なんとおっしゃいましたか?」
私は答えられなかった。
『領地のことは僕に任せてくれ』
自分の声が、頭の中で何度も繰り返された。
「私は、アルベール様を信じました」
フィオナはそう言った。
責める声ではなかった。
だからこそ、苦しかった。
「そしてアルベール様は、私ではなくミレイユ様を選ばれました」
「フィオナ……」
「でしたら、その選択を大切になさってください」
私は彼女の腕を掴んだ。
縋るように。
「もう一度、私に戻ってきてほしい」
彼女は静かに私の手を外した。
「……それはできません」
「なぜだ」
愚かな私は、まだ聞いた。
すると彼女は。
「私はもう、自分の人生を始めてしまったからです」
そう言った。
その瞬間。
私は初めて理解した。
フィオナは、私を失ったのではない。
私から自由になったのだ。
そして。
私は、自分からその自由を与えたのだ。
◇
それから数か月後。
私は多くのものを失った。
領地の一部を手放した。
借金を返すために、屋敷の調度品も売った。
使用人たちにも暇を出した。
ミレイユとは、別れた。
彼女を責めることはできなかった。
彼女にも彼女の人生がある。
そもそも。
彼女を選んだのは私なのだから。
すべての責任を彼女に押しつけることだけは、したくなかった。
爵位は残った。
だが、かつてのような暮らしはできなくなった。
私は小さな領地に移り住んだ。
朝になると畑へ出る。
農民たちと一緒に土を耕す。
種をまく。
水をやる。
天候を気にする。
虫がつけば駆除する。
病気になれば、その原因を探す。
そして。
収穫する。
初めて知った。
作物が実るということが、どれほど大変なのか。
一つの畑を維持するために、どれほど多くの人間が働いているのか。
私は昔。
帳簿の数字だけを見ていた。
フィオナは、その数字の向こうにいる人間を見ていたのだ。
ようやく。
ようやく私は、そのことに気づいた。
遅すぎるほどに。
◇
ある春の日。
私は市場で一人の商人から、王都の話を聞いた。
「そういえば、王立薬草研究院のフィオナ様をご存じですか?」
胸が跳ねた。
「……ああ」
「すごい方ですよ。新しい薬をいくつも開発されたとか」
「そうか」
「それに、研究院の方とご結婚されたそうですよ」
私は何も言えなかった。
商人は続けた。
「薬草園も持っていて、そこには珍しい白薔薇があるそうです」
「……白薔薇」
「ええ。奥様がお好きなのだとか」
私は空を見上げた。
青い空だった。
なぜだろう。
胸が痛んだ。
けれど、以前のように取り戻したいとは思わなかった。
もし今。
フィオナの前に立って。
『僕のところへ戻ってきてほしい』
そう言ったとしても。
彼女はきっと、優しく微笑むだけだろう。
そして。
『もう私は、自分の人生を生きています』
そう言うのだ。
私は、それを知っている。
だから。
もう彼女の人生に、私が入り込む必要はない。
「……幸せなら、それでいい」
小さく呟いた。
それは負け惜しみではなかった。
初めて心から、そう思えた。
◇
その夜。
私は古びた机の引き出しを開けた。
そこには一枚の紙が残っていた。
昔、フィオナが私に渡してくれた領地経営の計画書だった。
細かな字で、丁寧に書かれている。
収支の見直し。
作物の変更。
交易路。
税制。
そして。
一番下には、小さくこう書かれていた。
『アルベール様が領地をより良くできますように』
私は長い間、その文字を見つめていた。
涙は出なかった。
ただ。
胸の奥が、どうしようもなく痛かった。
彼女は最後まで。
私の幸せを願っていた。
それなのに私は。
彼女の幸せを、一度も考えなかった。
私は紙を丁寧に折った。
捨てることはできなかった。
けれど、これを持っていることで過去に縋るつもりもなかった。
だから。
机の一番奥へしまった。
これは、思い出ではない。
私が二度と同じ過ちを繰り返さないためのものだ。
◇
数年後。
春が来た。
私の領地でも、少しずつ作物が取れるようになった。
まだ豊かとは言えない。
けれど。
去年よりは良い。
農民たちが笑っている。
その姿を見ると、少しだけ胸を張れる。
ある日。
領地の子どもが、畑の端に咲いている花を見つけた。
「アルベール様!」
「どうした?」
「白い花!」
私は足を止めた。
そこに、小さな白い花が咲いていた。
薔薇ではない。
名も知らない、小さな花。
それでも。
なぜか、あの日の白薔薇を思い出した。
『婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください』
あの日。
私は自分が選んだと思っていた。
ミレイユを選んだ。
フィオナを選ばなかった。
けれど。
本当は違ったのだ。
私は。
フィオナを「選ばなかった」のではない。
フィオナを大切にすることを、選ばなかった。
努力してくれていた彼女に甘えることを選んだ。
自分を理解してくれる人を探すことを選んだ。
そして。
彼女がいつまでも私の隣にいると思い込むことを選んだ。
だから。
失ったのは、当然だった。
「アルベール様?」
「……なんでもない」
私は笑った。
「綺麗だな」
「うん!」
子どもは嬉しそうに笑った。
私は空を見上げた。
遠い王都には、きっとフィオナがいる。
夫と。
子どもと。
たくさんの薬草と。
白い薔薇に囲まれて。
私の知らない人生を歩んでいる。
もう、そこへ戻ることはできない。
戻りたいとも思わない。
彼女には、彼女の幸せがある。
そして私には。
ようやく始まった、自分自身の人生がある。
「……フィオナ」
誰もいない畑で、私は一度だけ彼女の名を呼んだ。
「どうか、幸せに」
風が吹いた。
白い花が揺れる。
まるで返事をするように。
私は前を向いた。
もう、振り返らない。
あの日。
薔薇園で彼女がそうしたように。
私もまた。
自分の人生を歩いていこうと思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
前作の元婚約者・アルベール視点で、その後を描いた後日談です。
今回はクズのまま転がり落ちていくのではなく「ざまぁ」は受けつつ、すべてを失ったあと、己の過ちを知り、そこから少しずつ再生していく男の話を書きました。
誰かを失って初めて気づくこと。
そして、後悔した先でも自分の人生を歩いていくこと。
そんな物語として楽しんでいただけましたら嬉しいです。




