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『白薔薇が咲くまで』

――選んだのは、私だった――「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」元婚約者の後日談

作者: 白昼夢
掲載日:2026/08/11

これは、「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」な元婚約者アルベール視点のの後日談です。

 ――選んだのは、私だった




 白薔薇を見るたびに、私はあの日のことを思い出す。


 王都の薔薇園。


 柔らかな春の日差し。


 籠の中に並んだ白薔薇。


 そして、何よりも。


 私の言葉を聞いたフィオナの、静かな顔を。


『婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください』


 あのときの私は、その言葉の意味を理解していなかった。


 いや。


 理解しようとしなかったのだ。


 私は、フィオナが泣くと思っていた。


 怒ると思っていた。


 私を責めると思っていた。


 それでも、最後には私を引き止めるのではないかと。


 どこかで、そう思っていた。


 だから。


 彼女が何の抵抗もせずに婚約解消を受け入れたとき、私は妙な苛立ちを覚えた。


 なぜだ。


 なぜ、そんなに簡単に手放せる。


 なぜ、もっと私を必要としてくれない。


 なぜ――。


 今なら分かる。


 私は、最後の最後まで自分のことしか考えていなかった。


 フィオナがどれだけ傷ついたのか。


 どれだけ我慢していたのか。


 考えようともしなかった。


 ◇


 婚約を解消した直後。


 私はミレイユと正式に婚約した。


 周囲は祝福してくれた。


「おめでとうございます」


「お似合いのお二人ですね」


「アルベール様も、これでお幸せになれますね」


 その言葉を聞くたびに、私は笑った。


 そうだ。


 これでいい。


 私は自分の望んだ女性を選んだのだ。


 フィオナとの婚約は間違いだった。


 そう思い込もうとした。


 ミレイユは明るく、優しく、私の話をよく聞いてくれた。


 何より、私を褒めてくれた。


 フィオナとは違う。


 そう思っていた。


 けれど。


 領地へ戻ったとき、私は初めて違和感を覚えた。


「この帳簿は、どうしてこんなに複雑なの?」


 ミレイユが眉を寄せて言った。


「昔からこういうものなんだ」


「では、もっと簡単にすればいいのではありませんか?」


「……そうだな」


 私は頷いた。


 フィオナならどうするだろう。


 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。


 私はすぐに振り払った。


 もう彼女はいない。


 だから、考える必要などない。


 私はミレイユを選んだのだから。


 ◇


 最初の一年は、何とかなると思っていた。


 収穫量が少し落ちても、一時的なものだと思った。


 税収が減っても、来年には戻ると思った。


 使用人が辞めても、新しい者を雇えばいいと思った。


 何もかも。


 簡単に考えていた。


 フィオナがやっていたことを、私は知らなかった。


 どの作物を、どの土地に植えるのか。


 どの季節に、どの商人と契約するのか。


 どの支出を削り、どこに投資するのか。


 隣領との関係をどう維持するのか。


 それらを決めていたのが、フィオナだったことを。


 いや。


 正確には。


 フィオナが私に何度も説明してくれていた。


『こちらの作物は今年、収穫量が増える見込みです』


『隣領から交易の話が来ています。今のうちに契約を見直した方がよろしいかと』


『この支出は削っても問題ありません』


 私は何と答えていた?


『領地のことは僕に任せてくれ』


 そう言った。


 フィオナは、それ以上何も言わなかった。


 ただ、


『分かりました』


 と微笑んだ。


 あの微笑みの意味を。


 私は何年経っても忘れられない。


 ◇


 すべてが崩れ始めたとき。


 私は初めてフィオナに会いに行った。


 王宮の庭園。


 雪が降っていた。


 彼女は以前よりずっと綺麗になっていた。


 けれど、それは私のためではなかった。


 質素な研究院の制服。


 雪を払いながら歩く姿。


 以前のように、私の顔色を窺うこともない。


「領地を……助けてほしい」


 私は言った。


 情けないことに。


 それしか思いつかなかった。


 フィオナなら何とかしてくれる。


 そう思っていた。


 すると彼女は、静かに私を見た。


「それは難しいと思います」


「なぜだ!」


 私は声を荒らげた。


 フィオナは少しも怯えなかった。


「もう私は、伯爵家の人間ではありませんから」


 その言葉が胸に刺さった。


 私は、何も言えなかった。


 そうだ。


 彼女はもう私の婚約者ではない。


 私がそうした。


 私が選んだ。


 それなのに。


 私は彼女に助けを求めた。


 なんという都合のいい男なのだろう。


「私がいた頃、領地経営について何度もご相談しましたよね」


「……ああ」


「そのとき、なんとおっしゃいましたか?」


 私は答えられなかった。


『領地のことは僕に任せてくれ』


 自分の声が、頭の中で何度も繰り返された。


「私は、アルベール様を信じました」


 フィオナはそう言った。


 責める声ではなかった。


 だからこそ、苦しかった。


「そしてアルベール様は、私ではなくミレイユ様を選ばれました」


「フィオナ……」


「でしたら、その選択を大切になさってください」


 私は彼女の腕を掴んだ。


 縋るように。


「もう一度、私に戻ってきてほしい」


 彼女は静かに私の手を外した。


「……それはできません」


「なぜだ」


 愚かな私は、まだ聞いた。


 すると彼女は。


「私はもう、自分の人生を始めてしまったからです」


 そう言った。


 その瞬間。


 私は初めて理解した。


 フィオナは、私を失ったのではない。


 私から自由になったのだ。


 そして。


 私は、自分からその自由を与えたのだ。


 ◇


 それから数か月後。


 私は多くのものを失った。


 領地の一部を手放した。


 借金を返すために、屋敷の調度品も売った。


 使用人たちにも暇を出した。


 ミレイユとは、別れた。


 彼女を責めることはできなかった。


 彼女にも彼女の人生がある。


 そもそも。


 彼女を選んだのは私なのだから。


 すべての責任を彼女に押しつけることだけは、したくなかった。


 爵位は残った。


 だが、かつてのような暮らしはできなくなった。


 私は小さな領地に移り住んだ。


 朝になると畑へ出る。


 農民たちと一緒に土を耕す。


 種をまく。


 水をやる。


 天候を気にする。


 虫がつけば駆除する。


 病気になれば、その原因を探す。


 そして。


 収穫する。


 初めて知った。


 作物が実るということが、どれほど大変なのか。


 一つの畑を維持するために、どれほど多くの人間が働いているのか。


 私は昔。


 帳簿の数字だけを見ていた。


 フィオナは、その数字の向こうにいる人間を見ていたのだ。


 ようやく。


 ようやく私は、そのことに気づいた。


 遅すぎるほどに。


 ◇


 ある春の日。


 私は市場で一人の商人から、王都の話を聞いた。


「そういえば、王立薬草研究院のフィオナ様をご存じですか?」


 胸が跳ねた。


「……ああ」


「すごい方ですよ。新しい薬をいくつも開発されたとか」


「そうか」


「それに、研究院の方とご結婚されたそうですよ」


 私は何も言えなかった。


 商人は続けた。


「薬草園も持っていて、そこには珍しい白薔薇があるそうです」


「……白薔薇」


「ええ。奥様がお好きなのだとか」


 私は空を見上げた。


 青い空だった。


 なぜだろう。


 胸が痛んだ。


 けれど、以前のように取り戻したいとは思わなかった。


 もし今。


 フィオナの前に立って。


『僕のところへ戻ってきてほしい』


 そう言ったとしても。


 彼女はきっと、優しく微笑むだけだろう。


 そして。


『もう私は、自分の人生を生きています』


 そう言うのだ。


 私は、それを知っている。


 だから。


 もう彼女の人生に、私が入り込む必要はない。


「……幸せなら、それでいい」


 小さく呟いた。


 それは負け惜しみではなかった。


 初めて心から、そう思えた。


 ◇


 その夜。


 私は古びた机の引き出しを開けた。


 そこには一枚の紙が残っていた。


 昔、フィオナが私に渡してくれた領地経営の計画書だった。


 細かな字で、丁寧に書かれている。


 収支の見直し。


 作物の変更。


 交易路。


 税制。


 そして。


 一番下には、小さくこう書かれていた。


『アルベール様が領地をより良くできますように』


 私は長い間、その文字を見つめていた。


 涙は出なかった。


 ただ。


 胸の奥が、どうしようもなく痛かった。


 彼女は最後まで。


 私の幸せを願っていた。


 それなのに私は。


 彼女の幸せを、一度も考えなかった。


 私は紙を丁寧に折った。


 捨てることはできなかった。


 けれど、これを持っていることで過去に縋るつもりもなかった。


 だから。


 机の一番奥へしまった。


 これは、思い出ではない。


 私が二度と同じ過ちを繰り返さないためのものだ。


 ◇


 数年後。


 春が来た。


 私の領地でも、少しずつ作物が取れるようになった。


 まだ豊かとは言えない。


 けれど。


 去年よりは良い。


 農民たちが笑っている。


 その姿を見ると、少しだけ胸を張れる。


 ある日。


 領地の子どもが、畑の端に咲いている花を見つけた。


「アルベール様!」


「どうした?」


「白い花!」


 私は足を止めた。


 そこに、小さな白い花が咲いていた。


 薔薇ではない。


 名も知らない、小さな花。


 それでも。


 なぜか、あの日の白薔薇を思い出した。


『婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください』


 あの日。


 私は自分が選んだと思っていた。


 ミレイユを選んだ。


 フィオナを選ばなかった。


 けれど。


 本当は違ったのだ。


 私は。


 フィオナを「選ばなかった」のではない。


 フィオナを大切にすることを、選ばなかった。


 努力してくれていた彼女に甘えることを選んだ。


 自分を理解してくれる人を探すことを選んだ。


 そして。


 彼女がいつまでも私の隣にいると思い込むことを選んだ。


 だから。


 失ったのは、当然だった。


「アルベール様?」


「……なんでもない」


 私は笑った。


「綺麗だな」


「うん!」


 子どもは嬉しそうに笑った。


 私は空を見上げた。


 遠い王都には、きっとフィオナがいる。


 夫と。


 子どもと。


 たくさんの薬草と。


 白い薔薇に囲まれて。


 私の知らない人生を歩んでいる。


 もう、そこへ戻ることはできない。


 戻りたいとも思わない。


 彼女には、彼女の幸せがある。


 そして私には。


 ようやく始まった、自分自身の人生がある。


「……フィオナ」


 誰もいない畑で、私は一度だけ彼女の名を呼んだ。


「どうか、幸せに」


 風が吹いた。


 白い花が揺れる。


 まるで返事をするように。


 私は前を向いた。


 もう、振り返らない。


 あの日。


 薔薇園で彼女がそうしたように。


 私もまた。


 自分の人生を歩いていこうと思った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


前作の元婚約者・アルベール視点で、その後を描いた後日談です。


今回はクズのまま転がり落ちていくのではなく「ざまぁ」は受けつつ、すべてを失ったあと、己の過ちを知り、そこから少しずつ再生していく男の話を書きました。


誰かを失って初めて気づくこと。

そして、後悔した先でも自分の人生を歩いていくこと。


そんな物語として楽しんでいただけましたら嬉しいです。

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