嘘をつけない侍女は、秘密を守れない
この部屋では、決して口をきいてはいけない。
言われたことを守ること。
肩を叩かれるまで部屋を出ないこと。
そして――この部屋で起きたことは、誰にも話さないこと。
「身なりを整えてから行きなさい」
「え……?」
「それでは、頼みましたよ」
私は黙ってうなずいた。
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外国からこの国に嫁いだ私は、故郷へ帰れないまま難民として過ごし、やがてとある御屋敷で働くことになった。
当時、使用人の中でも一番若かった私に、
御屋敷のまとめ役である『ばあや様』が小さな鍵と、小瓶に詰まった薬を渡してきた。
古い本と一緒に。
「この部屋へお行きなさい」
静かな声で言う。
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言われた通り、部屋の前に立つ。
コンコン。
二回、ノック。
扉を押すと、鍵はかかっていなかった。
部屋の中には、一人の青年がいた。
この国の第三王子で、
御屋敷の主でもあるアレン殿下――
少し前に十八の成人を迎えられた。
窓から差し込む光の中で、本を読んでいる。
珍しい眼鏡姿だった。
私が入ったことにも気づかないほど、静かに。
近くの窓際の棚の上には、
石の抜け落ちた指輪が一つ、そこに置かれていた。
それが目に入るほど、シンプルな部屋だった。
どうすればいいのか分からず立っていると――
ふと、殿下が顔を上げた。
目が合う。
私は慌てて姿勢を正した。
「……何か用か?」
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低い声。暗い表情。
最後にお会いした時よりも元気がないようだった。
でも私は答えない。
答えてはいけないから。
殿下は少しだけ眉をひそめ、
そして深いため息をついた。
「……そういうことか」
彼は立ち上がると、私をソファへ座らせた。
部屋は書斎より小さいが、落ち着いた空間だった。
テーブルの上に、本が一冊。
殿下はそれを置く。
そして――トン、トン。
二回、表紙を叩いた。
(読め、ということ……?)
私はそっとページを開いた。
情熱的な戦士の物語だった。
戦い。友情。勲章。
……正直、あまり面白くはない。
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数十分後。
殿下が近づき、私の肩を軽く叩いた。
それが“退出していい合図”だと、後で知ることになる。
「もし誰かに聞かれたら」
ぽつりと言う。
「この本の感想を、一言だけ答えるといい」
私はうなずいた。
部屋を出ると――
案の定、ばあや様が待っていた。
「どうでしたか?」
私は殿下の言葉を思い出し、
「……情熱的でした」
と答えた。
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二日目。
部屋へ行くと、甘い茶菓子が置かれていた。
迷っていると、殿下が小さく手招きした。
(食べろ、ということ……)
こんな高価なものを食べていいのだろうか。
侍女の身分でもったいない。
そう思いつつも、一口かじる。
はちみつがとろりと溶けて、
口いっぱいに甘さが広がった。
思わず目を丸くする。
その様子を見て、殿下が少しだけ笑った。
そしてまた、肩を叩く。
「もし聞かれたら、茶菓子の感想を一言」
私は部屋を出て、
「……とても甘かったです」
と答えた。
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三日目。
いつもの部屋へ行く。
でも今日は、本も茶菓子もなかった。
殿下は窓際の椅子から立ち上がり、私の前に来た。少し真剣な顔で。
「君」
書類を一枚差し出す。
「この文字、読めるか?」
私はうなずいた。それは私の母国語だった。
「二回も翻訳するのか?」
口を開いてはいけないので、紙に書いて伝えた。
――「直接翻訳すると意味が変わってしまいますから」と。
殿下は、しばらくそれを眺めてから言った。
「……珍しい文字だな」
さらに私は、もう一言添えた。
——「私の国では、子供でも読めます」
その後も紙とペンを借り、簡単に翻訳を書いて見せた。
殿下はそれを見て、目を見開く。
そして——肩を叩いた。
「助かった」
それだけ伝えられ、部屋を出る。
やはり、ばあや様が聞いてきた。
でも今日は、殿下から答え方を聞いていない。
だから私は正直に言った。
「……感謝されました」
ばあやは少し考え、
「……貴女を選ばれたようですね」
「次からは、殿下に呼ばれた時だけ行きなさい」
と言った。
小瓶に詰まった薬は、一度も使われることはなかった。
あれは一体なんの薬だったのかしら。
この国の文化は難しい。
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それきり——
私はその部屋へ呼ばれていない。
代わりに任されたのは、書斎の整理。
部屋いっぱいに本棚。
机の上には書類の山。
その中で、殿下が苦笑する。
「見ての通り、整理する暇がなくてね」
「君、他国語が読めるんだろ」
「手伝ってくれるか?」
「はい、殿下」
——それが、私たちの初めての会話だった。
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本を整理していると、
書棚の奥に、恋愛小説が一冊混じっていた。
(どうして殿下が、このような本を……?)
ページをめくっていると、後ろから声がした。
「興味があるなら」
振り向く。殿下が立っていた。
「持っていくといい」
「よろしいんですか?」
思わずパァッと笑顔になる。
恋愛小説を手に取るのは久しぶりだった。
「君がそんな顔をしてくれるなら」
「本も喜ぶだろうね……」
ぽつりと、小さく呟く。
すると殿下は、私をしばらく見て――
「ふ……」
突然笑い出した。
「あはは!……ごめん」
肩を押さえて笑う。
「思い出してしまって」
「君さ、僕の言ったこと……」
「そのまま、ばあやに伝えただろ」
「誤解を解くのに苦労したよ…」
私は固まった。
……そうだ。
情熱的でした。
とても甘かったです。
感謝されました。
あの小部屋に入った状態であれば、
確かに誤解されてもおかしくはない。
「も、申し訳ありません殿下!」
「はは、大丈夫」
きっと殿下は、
面白くなかった。
身分に合わない。
意味が分からなかった。
そんなことを私に答えて欲しかったのだろう。
「ばあやの目的はむしろ、そこだって分かっていたからね……断るのに好都合だったよ」
涙目で殿下は笑った。
「でも優秀な君に出会えてよかった」
「嘘をつかない人材は貴重だからね」
私はその言葉を聞いて安心した。
「次もまた、君に頼むよ」
「はい、殿下」
……その“次”が、こんな意味になるなんて。
この時の私は、まだ知らなかった。




