政略結婚した侯爵様は、なぜか私を見ようとしない
事前の顔合わせもないまま、カリーナ・ブラウンデルは侯爵夫人になった。
政略結婚。
貴族の世界では、珍しくもない話だ。
……だからといって。
婚姻式の日、初めて隣に立った夫の態度は、想像していたものとは少し違っていた。
フロード・ネクセル侯爵は、最初から眉間に深い皺を刻み、一度も彼女と視線を合わせようとしない。
(……初対面、よね?)
内心そう突っ込みたくなるのを、カリーナはぐっと堪えた。
聖堂の扉が開き、祝福のざわめきが広がる。
これは恋ではない。
結婚という名の、契約。
そう自分に言い聞かせ、祭壇へ歩み出る。
隣に立つ距離まで来ても、フロードは振り返らなかった。
腕を伸ばせば触れられるほど近い。
それなのに――こんなにも遠い。
神官の言葉が続く中、彼は終始視線を伏せたままだった。
理由があるのだと、思うことにする。
そうでも考えなければ、胸に引っかかるものを処理できなかった。
やがて指輪交換。
差し出された手は迷いなく、淡々としていて、まるで仕事の延長のようだった。
一瞬だけ躊躇してから、カリーナはその手に指を預ける。
……温かい。
それだけが、やけに印象に残った。
指輪を通す間も、彼の視線は指先から上がらない。
二人は互いを見ることなく、ただ儀式だけが進んでいく。
指輪が収まり、手が離れた、その瞬間――
ほんのわずかに、彼の指が……震えた気がした。
……気のせいだ。
そう思うことにする。
ふと参列者へ視線を向けると、父の隣に立つ兄と目が合った。
兄は小さく微笑み、そっと頷く。
それだけで、張り詰めていた肩から力が抜けた。
神官の宣言が響き、聖堂は祝福の拍手に包まれる。
フロードの隣を歩きながら、カリーナは微笑みを崩さなかった。
彼は最後までこちらを見ることはなく、歩幅だけを正確に合わせて歩く。
腕が触れないよう保たれた距離だけが、その沈黙を何より雄弁に物語っていた。
馬車に乗り込むと、扉が閉まり、外の喧騒がすっと遠のいた。
向かい合って座る二人の間に、言葉は落ちてこない。
何か話すべきか、と一瞬だけ考えて――やめた。
フロードは、窓の外に視線を向けたまま……微動だにしない。
揺れに合わせて、薄茶の瞳に、光が流れていく。
カリーナは、その横顔を――見ないようにした。
ネクセル侯爵邸は、噂に違わぬ重厚な佇まいだった。
出迎えた使用人たちが、一斉に頭を下げる。
背筋が自然と伸びる。
侯爵夫人の仮面を、被る。
「……こちらが、あなたの部屋だ」
フロードが口を開いたのは、それが最初だった。
低く、抑えた声。
感情は、読み取れない。
案内された寝室は、広く、整っていた。
最初から――一人で使う前提のように。
「必要なものは、侍女に」
それだけ言って、彼は去ろうとする。
一瞬、何か言いかけるように唇が動いて――
結局、何も言わずに踵を返した。
背中を見送りながら、気づく。
今夜のことについて――彼は一言も、触れていない。
ほどなくして、侍女たちが湯浴みの支度を整えた。
湯浴みを終え、寝衣へ着替える。
「ご用がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
侍女たちが一礼し、寝室を後にした。
扉が閉まる。
広い寝室に残ったのは、カリーナ一人だけだった。
時間だけが、ただ過ぎていく。
嫌われているのかもしれない。
そう思って――首を振る。
考えても、仕方がない。
……政略結婚なのだ。
寝台の端に腰を下ろす。
冷たい夜気が頬を撫でた。
今夜はきっと――一人だ。
灯りを落とし、横になる。
それでも。
侯爵夫人としての初日を、彼女は静かに受け入れた。
闇の中で目を閉じた瞬間、脳裏に浮かぶ。
婚姻式で見た、あの横顔。
一度もこちらを向かなかった、その姿。
――それなのに。
冷たいはずの沈黙が、
なぜか胸の奥に消えない余韻を残していた。
翌朝、カリーナは目を覚ました。
寝室は、昨夜と変わらず静まり返っている。
やっぱり……来なかった。
そう理解するのに、時間はかからなかった。
身支度を整え、侍女に案内されて食堂へ向かう。
「侯爵様は、すでに執務へ向かわれました」
淡々とした報告に、小さく頷く。
驚きはしない。
昨夜の様子を思えば、予想していたことだった。
長い食卓には、カリーナ一人。
食事は温かく、味も申し分ない。
それでも、どこか落ち着かなかった。
使用人たちの視線は丁寧で、礼を欠くことはない。
けれど、その距離はどこかよそよそしかった。
――冷遇されているのでは。
そんな思いが胸をよぎる。
カリーナは気づかないふりをして、背筋を伸ばした。
この屋敷の女主人は、自分だ。
態度を崩す理由は、どこにもない。
朝食を終えると、屋敷の案内が始まった。
帳簿の確認、使用人への挨拶、庭園の視察。
求められる役割を、一つずつ丁寧にこなしていく。
誰も無礼ではない。
それでも、どこか一歩引いた距離を感じた。
それでも――笑みは崩さない。
誤解されることには、慣れている。
……つり気味の赤い瞳。
きつく見られがちなその視線のせいで、
本心よりも先に――印象だけが、決めつけられることには。
昼過ぎ、執務室の前を通りかかった時だった。
扉の向こうから、低い声が聞こえる。
フロード・ネクセルの声だ。
そのまま通り過ぎようとして――ふと視線を感じた。
わずかに開いた扉の隙間から、薄茶の瞳がこちらを見ている。
目が合った、その瞬間。
フロードは、はっとしたように眉を寄せ、すぐに視線を落とした。
「……何か、用か」
低く抑えた声は、拒絶でも歓迎でもない。
「いいえ。通りかかっただけです」
そう答えると、彼は何か言いかけて――言葉を飲み込む。
「……そうか」
それだけだった。
だが、彼の表情が一瞬だけ……歪んだように見えた。
フロードは書類へ視線を戻し、扉も閉めない。
カリーナは一礼し、その場を後にした。
背中に視線を感じ、振り返りそうになって――やめる。
胸の奥が、わずかに騒いだ。
――あの視線。
言いかけて、飲み込まれた言葉。
本当に、無関心なのだろうか。
答えは……出ない。
だから考えるのをやめ、前を向く。
侯爵夫人として、この屋敷を守る。
それが今の、自分にできることだった。
それから数日。
ネクセル侯爵邸での生活は何事もなく過ぎていった。
フロードと言葉を交わすことはほとんどない。
それでも侯爵夫人としての務めを淡々と果たしていた。
ある日の夜。
夕食は別々だった。
長い食卓に一人で座り、カリーナは数日間を思い返す。
冷遇、と言うほどではない。
けれど、歓迎されているとも言い難い。
話しかけてもこない。
目も合わせない。
その曖昧な距離が、何より胸に引っかかった。
食後、書簡を整理していると、
一通の封書が目に留まる。
差出人は、ブラウンデル伯爵家。
兄からの手紙だった。
『近く、侯爵領へ赴く予定だ。
正式な挨拶がまだだったからな。
土産も持参する』
短い文面に、思わず口元が緩む。
「……来てくれるのね」
この屋敷に来てから、
初めて心が軽くなった気がした。
そのころ、執務室では。
フロード・ネクセルが、一通の報告書を握りしめていた。
伯爵家からの来訪予定。
文字を追いながら、眉間に深い皺が刻まれる。
脳裏に浮かぶのは、
婚姻式で見た、カリーナの表情。
……胸の奥が、きしむ。
彼は報告書を机に置き、
片手で額を押さえた。
「……まずいな」
呟きは、誰にも届かない。
静かな執務室に、溶けていった。
同じ屋敷にいながら、
二人の想いは、まだすれ違ったままだった。
それから、半月ほど経った頃だった。
夫婦生活は、相変わらずない。
けれど、屋敷での暮らしは淡々と続いていた。
そんなある日――
客室に、見覚えのある姿が現れた。
「久しぶりだな、カリーナ」
「お兄様!」
思わず声が弾む。
出張に出ていた兄が、ようやく戻ってきたのだ。
差し出されたのは、紙袋。
隣国で有名な菓子店の刻印が入っている。
「向こうで見つけてさ。ほら、君の好きな店だろ」
「覚えていてくださったんですか?」
袋を受け取った瞬間、甘い香りが漂った。
焼き菓子の詰め合わせだ。
思わず頬が緩む。
兄を見上げると、自然と笑顔になっていた。
「ありがとうございます。すごく……嬉しいです」
その時だった。
――ガンッ。
突然、壁を叩く音が響いた。
空気が、一変する。
振り返ると、そこに立っていたのは――
フロードだった。
眉間に深い皺を刻み、
薄茶の瞳は、怒りに揺れている。
拳が、震えていた。
「……愛人を家に上げるとは、いい度胸だな」
低く、押し殺した声。
「君は、そこまで節操がなかったのか?」
カリーナは、言葉を失った。
「……え?」
何を言われているのか、理解が追いつかない。
「ま、待ってください!
何か……誤解していませんか?」
「誤解だと?」
フロードは、兄を睨みつける。
「その男、婚姻式で君の手に口付けしていた優男じゃないか。
そんな相手を、家にまで上げるとは……どういう神経だ?」
その言葉で、記憶が蘇る。
婚姻式の日。
兄が、形式として手にキスをしてくれたこと。
「君の好きな焼き菓子を、土産に持って帰るよ」
そう言われて、笑ったこと。
確かに――
そう見えても、おかしくはない。
「ち、違います!」
カリーナは、必死に首を振った。
「本当に、誤解です!」
「何が誤解だ!」
「だって……」
一度、息を吸う。
「……彼は、私の実の兄です」
その瞬間。
フロードの動きが、止まった。
「……兄?」
「はい。兄です」
カリーナは、はっきりと答えた。
「式の前、控え室でお会いしていましたよね?
ご挨拶も、したはずですが……」
確かに、兄は父似。
カリーナは母似で、髪色も瞳の色も違う。
一見すれば、兄妹には見えない。
フロードは、片手で口元を押さえ、
顔を斜めに傾けた。
震える声で、ぼそりと呟く。
「あの時は……その……」
言葉が、途切れる。
「……君しか、見えていなかった」
心臓が、跳ねた。
一気に、頬に熱が集まる。
沈黙が落ちる。
その空気を破ったのは、兄の苦笑だった。
「どうやら、私はお邪魔みたいだな」
兄は、肩をすくめる。
「本日はこれで失礼いたします。
また改めて、当主としてご挨拶に伺います」
そう言って、部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まる。
残されたのは、二人きり。
心臓の音が、やけにうるさい。
フロードの顔は、まだ見えない。
けれど。
部屋を包む空気は、
先ほどまでの張り詰めたものではなかった。
どこか、柔らかい。
まるで――
これからの関係を、そっと示すように。




