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政略結婚した侯爵様は、なぜか私を見ようとしない

作者: *ほたる*
掲載日:2026/07/31

 事前の顔合わせもないまま、カリーナ・ブラウンデルは侯爵夫人になった。


 政略結婚。

 貴族の世界では、珍しくもない話だ。


 ……だからといって。


 婚姻式の日、初めて隣に立った夫の態度は、想像していたものとは少し違っていた。


 フロード・ネクセル侯爵は、最初から眉間に深い皺を刻み、一度も彼女と視線を合わせようとしない。


(……初対面、よね?)


 内心そう突っ込みたくなるのを、カリーナはぐっと堪えた。


 聖堂の扉が開き、祝福のざわめきが広がる。


 これは恋ではない。

 結婚という名の、契約。

 そう自分に言い聞かせ、祭壇へ歩み出る。


 隣に立つ距離まで来ても、フロードは振り返らなかった。


 腕を伸ばせば触れられるほど近い。

 それなのに――こんなにも遠い。


 神官の言葉が続く中、彼は終始視線を伏せたままだった。


 理由があるのだと、思うことにする。

 そうでも考えなければ、胸に引っかかるものを処理できなかった。


 やがて指輪交換。

 差し出された手は迷いなく、淡々としていて、まるで仕事の延長のようだった。


 一瞬だけ躊躇してから、カリーナはその手に指を預ける。


 ……温かい。


 それだけが、やけに印象に残った。

 指輪を通す間も、彼の視線は指先から上がらない。


 二人は互いを見ることなく、ただ儀式だけが進んでいく。


 指輪が収まり、手が離れた、その瞬間――

 ほんのわずかに、彼の指が……震えた気がした。


 ……気のせいだ。


 そう思うことにする。


 ふと参列者へ視線を向けると、父の隣に立つ兄と目が合った。


 兄は小さく微笑み、そっと頷く。

 それだけで、張り詰めていた肩から力が抜けた。


 神官の宣言が響き、聖堂は祝福の拍手に包まれる。

 フロードの隣を歩きながら、カリーナは微笑みを崩さなかった。


 彼は最後までこちらを見ることはなく、歩幅だけを正確に合わせて歩く。


 腕が触れないよう保たれた距離だけが、その沈黙を何より雄弁に物語っていた。


 馬車に乗り込むと、扉が閉まり、外の喧騒がすっと遠のいた。

 向かい合って座る二人の間に、言葉は落ちてこない。


 何か話すべきか、と一瞬だけ考えて――やめた。

 フロードは、窓の外に視線を向けたまま……微動だにしない。

 揺れに合わせて、薄茶の瞳に、光が流れていく。

 カリーナは、その横顔を――見ないようにした。


 ネクセル侯爵邸は、噂に違わぬ重厚な佇まいだった。

 出迎えた使用人たちが、一斉に頭を下げる。


 背筋が自然と伸びる。

 侯爵夫人の仮面を、被る。


「……こちらが、あなたの部屋だ」


 フロードが口を開いたのは、それが最初だった。

 低く、抑えた声。

 感情は、読み取れない。


 案内された寝室は、広く、整っていた。

 最初から――一人で使う前提のように。


「必要なものは、侍女に」


 それだけ言って、彼は去ろうとする。

 一瞬、何か言いかけるように唇が動いて――

 結局、何も言わずに踵を返した。


 背中を見送りながら、気づく。

 今夜のことについて――彼は一言も、触れていない。


 ほどなくして、侍女たちが湯浴みの支度を整えた。

 湯浴みを終え、寝衣へ着替える。


「ご用がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」


 侍女たちが一礼し、寝室を後にした。


 扉が閉まる。

 広い寝室に残ったのは、カリーナ一人だけだった。

 時間だけが、ただ過ぎていく。


 嫌われているのかもしれない。

 そう思って――首を振る。


 考えても、仕方がない。

 ……政略結婚なのだ。


 寝台の端に腰を下ろす。

 冷たい夜気が頬を撫でた。


 今夜はきっと――一人だ。


 灯りを落とし、横になる。


 それでも。

 侯爵夫人としての初日を、彼女は静かに受け入れた。


 闇の中で目を閉じた瞬間、脳裏に浮かぶ。


 婚姻式で見た、あの横顔。

 一度もこちらを向かなかった、その姿。


 ――それなのに。

 冷たいはずの沈黙が、

 なぜか胸の奥に消えない余韻を残していた。



 翌朝、カリーナは目を覚ました。

 寝室は、昨夜と変わらず静まり返っている。


 やっぱり……来なかった。

 そう理解するのに、時間はかからなかった。


 身支度を整え、侍女に案内されて食堂へ向かう。


「侯爵様は、すでに執務へ向かわれました」


 淡々とした報告に、小さく頷く。


 驚きはしない。

 昨夜の様子を思えば、予想していたことだった。


 長い食卓には、カリーナ一人。

 食事は温かく、味も申し分ない。

 それでも、どこか落ち着かなかった。


 使用人たちの視線は丁寧で、礼を欠くことはない。

 けれど、その距離はどこかよそよそしかった。


 ――冷遇されているのでは。


 そんな思いが胸をよぎる。

 カリーナは気づかないふりをして、背筋を伸ばした。


 この屋敷の女主人は、自分だ。

 態度を崩す理由は、どこにもない。


 朝食を終えると、屋敷の案内が始まった。

 帳簿の確認、使用人への挨拶、庭園の視察。

 求められる役割を、一つずつ丁寧にこなしていく。


 誰も無礼ではない。

 それでも、どこか一歩引いた距離を感じた。


 それでも――笑みは崩さない。

 誤解されることには、慣れている。


 ……つり気味の赤い瞳。

 きつく見られがちなその視線のせいで、

 本心よりも先に――印象だけが、決めつけられることには。



 昼過ぎ、執務室の前を通りかかった時だった。

 扉の向こうから、低い声が聞こえる。

 フロード・ネクセルの声だ。


 そのまま通り過ぎようとして――ふと視線を感じた。

 わずかに開いた扉の隙間から、薄茶の瞳がこちらを見ている。


 目が合った、その瞬間。

 フロードは、はっとしたように眉を寄せ、すぐに視線を落とした。


「……何か、用か」


 低く抑えた声は、拒絶でも歓迎でもない。


「いいえ。通りかかっただけです」


 そう答えると、彼は何か言いかけて――言葉を飲み込む。


「……そうか」


 それだけだった。

 だが、彼の表情が一瞬だけ……歪んだように見えた。


 フロードは書類へ視線を戻し、扉も閉めない。

 カリーナは一礼し、その場を後にした。


 背中に視線を感じ、振り返りそうになって――やめる。


 胸の奥が、わずかに騒いだ。


 ――あの視線。

 言いかけて、飲み込まれた言葉。


 本当に、無関心なのだろうか。


 答えは……出ない。

 だから考えるのをやめ、前を向く。


 侯爵夫人として、この屋敷を守る。

 それが今の、自分にできることだった。


 それから数日。

 ネクセル侯爵邸での生活は何事もなく過ぎていった。


 フロードと言葉を交わすことはほとんどない。

 それでも侯爵夫人としての務めを淡々と果たしていた。


 ある日の夜。

 夕食は別々だった。

 長い食卓に一人で座り、カリーナは数日間を思い返す。


 冷遇、と言うほどではない。

 けれど、歓迎されているとも言い難い。


 話しかけてもこない。

 目も合わせない。

 その曖昧な距離が、何より胸に引っかかった。


 食後、書簡を整理していると、

 一通の封書が目に留まる。


 差出人は、ブラウンデル伯爵家。

 兄からの手紙だった。


『近く、侯爵領へ赴く予定だ。

 正式な挨拶がまだだったからな。

 土産も持参する』


 短い文面に、思わず口元が緩む。


「……来てくれるのね」


 この屋敷に来てから、

 初めて心が軽くなった気がした。


 そのころ、執務室では。

 フロード・ネクセルが、一通の報告書を握りしめていた。

 伯爵家からの来訪予定。


 文字を追いながら、眉間に深い皺が刻まれる。

 脳裏に浮かぶのは、

 婚姻式で見た、カリーナの表情。


 ……胸の奥が、きしむ。


 彼は報告書を机に置き、

 片手で額を押さえた。


「……まずいな」


 呟きは、誰にも届かない。

 静かな執務室に、溶けていった。


 同じ屋敷にいながら、

 二人の想いは、まだすれ違ったままだった。


 それから、半月ほど経った頃だった。

 夫婦生活は、相変わらずない。

 けれど、屋敷での暮らしは淡々と続いていた。


 そんなある日――

 客室に、見覚えのある姿が現れた。


「久しぶりだな、カリーナ」


「お兄様!」


 思わず声が弾む。

 出張に出ていた兄が、ようやく戻ってきたのだ。


 差し出されたのは、紙袋。

 隣国で有名な菓子店の刻印が入っている。


「向こうで見つけてさ。ほら、君の好きな店だろ」


「覚えていてくださったんですか?」


 袋を受け取った瞬間、甘い香りが漂った。

 焼き菓子の詰め合わせだ。


 思わず頬が緩む。

 兄を見上げると、自然と笑顔になっていた。


「ありがとうございます。すごく……嬉しいです」


 その時だった。


 ――ガンッ。


 突然、壁を叩く音が響いた。

 空気が、一変する。


 振り返ると、そこに立っていたのは――

 フロードだった。


 眉間に深い皺を刻み、

 薄茶の瞳は、怒りに揺れている。

 拳が、震えていた。


「……愛人を家に上げるとは、いい度胸だな」


 低く、押し殺した声。


「君は、そこまで節操がなかったのか?」


 カリーナは、言葉を失った。


「……え?」


 何を言われているのか、理解が追いつかない。


「ま、待ってください!

 何か……誤解していませんか?」


「誤解だと?」


 フロードは、兄を睨みつける。


「その男、婚姻式で君の手に口付けしていた優男じゃないか。

 そんな相手を、家にまで上げるとは……どういう神経だ?」


 その言葉で、記憶が蘇る。

 婚姻式の日。

 兄が、形式として手にキスをしてくれたこと。


「君の好きな焼き菓子を、土産に持って帰るよ」

 そう言われて、笑ったこと。


 確かに――

 そう見えても、おかしくはない。


「ち、違います!」


 カリーナは、必死に首を振った。


「本当に、誤解です!」


「何が誤解だ!」


「だって……」


 一度、息を吸う。


「……彼は、私の実の兄です」


 その瞬間。

 フロードの動きが、止まった。


「……兄?」


「はい。兄です」


 カリーナは、はっきりと答えた。


「式の前、控え室でお会いしていましたよね?

 ご挨拶も、したはずですが……」


 確かに、兄は父似。

 カリーナは母似で、髪色も瞳の色も違う。

 一見すれば、兄妹には見えない。


 フロードは、片手で口元を押さえ、

 顔を斜めに傾けた。

 震える声で、ぼそりと呟く。


「あの時は……その……」


 言葉が、途切れる。


「……君しか、見えていなかった」


 心臓が、跳ねた。

 一気に、頬に熱が集まる。

 沈黙が落ちる。

 その空気を破ったのは、兄の苦笑だった。


「どうやら、私はお邪魔みたいだな」


 兄は、肩をすくめる。


「本日はこれで失礼いたします。

 また改めて、当主としてご挨拶に伺います」


 そう言って、部屋を出ていった。

 パタン、と扉が閉まる。

 残されたのは、二人きり。


 心臓の音が、やけにうるさい。

 フロードの顔は、まだ見えない。


 けれど。

 部屋を包む空気は、

 先ほどまでの張り詰めたものではなかった。


 どこか、柔らかい。

 まるで――

 これからの関係を、そっと示すように。




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