第六話:思い出せない人
郁桜が、昔からよく見る夢があります。
夏の夜、迷子になった幼い自分と──優しくて、でもどこか寂しげなお兄ちゃんの記憶。
名前も、声も、よくは思い出せないけど。
なぜかそのぬくもりだけは、ずっと心に残っているのです。
──ぱん、ぱん。
遠くで太鼓の音が鳴っていた。
提灯の明かりが揺れる夜の神社。
郁桜は屋台の金魚に夢中になるあまり、繋いでいたはずの手が離れてしまっていた。
「……おかあさん? ……りお?」
不安が胸を締めつける。
母がそばにいないだけじゃない。いつも一緒にいる“片割れ”の気配が…どこにもない。
周りには笑いさざめく人々の影。
郁桜はきょろきょろと辺りを見回しながら、人混みの中をふらふらと歩いていた。どれくらい、経っただろうか。
気づけば人の気配がない、ひっそりとした参道に迷い込んでいた。
「……ここ、どこ……?」
祭囃子もざわめきも、いつの間にか聞こえなくなっている。
蛙の声さえ、今はもうない。まるで音そのものが消えてしまったようだった。
「うぅ……おかあさ……りお……どこ……」
胸の奥に広がるのは、言葉にできない怖さ。
それでも、郁桜は小さな足で、母と片割れを探し続けた。
──そのとき。
「……だめ、こっちに来ちゃ……」
不意に声がした。
振り向くと、少し年上のお兄ちゃんが立っていた。優しそうな顔をしていたけれど、どこか苦しげにゆがんでいる。
「お兄ちゃん……どこか、いたいの?」
郁桜は涙を忘れて、心配そうに尋ねた。
すると彼は額の汗をぬぐい、首を横に振って微笑んだ。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんはケガしてない。──でも、ここは危ない場所なんだ。だからここにいちゃいけない。……後ろ、見てごらん。」
郁桜は言われた通りに後ろを向いた。
遠くに、ほんの少しだけ光が差している。
「あの光が見える?」
「うん、見えるよ!」
「よかった。その光の先に、君の家族がいる。そこまで走れる?」
「走れるよ! でも……お兄ちゃんは?」
郁桜が不安そうに見上げると、お兄ちゃんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにやわらかく微笑んだ。
「大丈夫。用事が終わったら、ちゃんと帰るから」
その言葉に安心した郁桜は、うん、と頷き、くるりと踵を返して走り出そうとした。
──その瞬間。
ぞわり、と背中に悪寒が走った。
『……やっと見つけた。かぐやの魂……』
それは声というより、頭に直接響くような、禍々しい“音”だった。
黒い“手”のようなものが、どこからともなく郁桜へ伸びてくる。
──怖い。声が出ない。足が動かない。
「危ない!」
鋭い声が飛んだ、次の瞬間。
何かが郁桜を抱きしめた。
ぐいっと強く、けれどあたたかく。胸元に顔をうずめるようにして、その腕の中にすっぽりと包まれる。
「っ……うぅ!」
頭の上で、痛みに耐えるような低いうめき声。
郁桜がそろりと目を開けると、そこには顔をしかめたお兄ちゃんの姿があった。
背中に黒い影がまとわりついている。
けれど彼は、郁桜を胸にしっかりと抱きしめたまま、微笑んで言った。
「ぐっ……だ、大丈夫だから。怖くないよ。だから、目を閉じてて。」
震える声。けれど確かに優しい声。
郁桜はこくりと頷き、再び目を閉じた。
腕の中のぬくもりを頼りに、ただ祈るように、静かに身をゆだねた。
今回もお読みいただき、ありがとうございました!
幼い郁桜が見た“誰かに守られた記憶”──
それがただの夢なのか、それとも……という余韻を残しつつ、次回は再び現実へ戻ります。
少しずつ、郁桜の周りの空気が変わり始めてきます。
引き続き、楽しんでいただけたら嬉しいです!