8.妖女、変態と呼ぶ
「失礼いたします、颯秀殿下、玲明様。颯秀殿下、陛下がお呼びです」
「陛下が? 珍しいこともあるんだね」
のんびりまったりお茶を堪能する姿勢になっていた颯秀は、台詞のとおり驚いた顔をする。
「分かった、すぐに向かうよ。ありがとう」
「い、いえ……お邪魔いたしまして、申し訳ございません……」
微笑まれ、桃蘭は頬を染め、次いで玲明に意味深な視線を向ける。何事かと思ったが、すぐに理解した。颯秀は玲明にベタ惚れだということになっているので、2人の時間を邪魔して申し訳ないと思っているのだろう。
「私はまッたく構いませんよ。殿下、陛下がお呼びなのですから急いで支度をなさってください」
「ああ、そうだね。ごめんね愛しい姫、王命でさえなければ、君との時間なんて誰にも邪魔させやしないのに」
立ち上がり、再び玲明の手を取り口づける。甘ったるい台詞を手から注ぎ込まれるようで、例によって背筋を震わせてしまうが、事情を知らない桃蘭の前でその横面を叩くわけにもいかない。そうして平手打ちは我慢はしたものの、耐えきれなかった手がぴくぴくと痙攣した。ついでに頬も。
「殿下ったら、こうしているうちに刻一刻と時間が過ぎてしまいますよ。陛下がわざわざお呼び立てするということはお急ぎなのでしょう」
「ああ、名残惜しいがそうしよう。支度をするので、君は下がって構わないよ」
「は、はい、失礼いたします」
砂を吐きたくなるような寸劇だが、桃蘭はさらに頬を染めながら出て行った。途端に玲明は手を引き抜こうとするが、逆に腰から抱き寄せられる。
「な、なにするの! 変態!」
「変態だなんて酷いね、夫なのに」
「契約上のね! いいから放しなさいよ!」
ぐぐぐと胸を押しやるが、颯秀はびくともしない。いくらろくに戦績のないぼんくら王子とはいえ、さすがに男女の力の差はある。
「いくら契約上とはいえ、これ見よがしに他の者の前でばかり仲の良い夫婦を演じるのは君に失礼かと思ってね。たまには裏でもそれらしいことをしようか?」
颯秀の手がそっと玲明の頬を撫で、そのまま口づけでもするかのように唇が近づく。桂華は「はっ!」と顔を覆い隠して見るまいとしたが、顔を真っ赤にした玲明が乱暴にその顔を押し返した。
「気遣いの方向が間違ってんのよ! 他人に見られるところでかゆくなるような台詞を吐くのをやめなさい!」
「かゆいのか? 医者を手配しておこうか、安心してくれ、私の伯父上が腕のいい医者だ」
「そういう話をしてんじゃないのよこのぼんくら王子! いいからとっとと陛下のところに行きなさい!」
玲明が投げつけた上着を羽織りながら、颯秀は「しかし、陛下か……」と少し首を傾げた。
「……さっきも珍しいって言ってたわね。どうしたの、仲でも悪いの」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね。本当に珍しいなというだけだよ」
誤魔化された……? 玲明は眉を顰めたが、颯秀は何も続けず「じゃあ行ってくるね、また落ち着いてお茶をしよう」と微笑みだけ残して出て行った。
「……仲が悪いんじゃなければ何なのかしら」
「ご病気というわけでもございませんよね。玲明様が宮殿に入った日、陛下もいらっしゃいましたし」
そうね、と頷きながら玲明はその日を思い出す。影になっていてよく見えなかったが、少なくとも式典に出てはいた。ただ、玲明のお披露目は春の式典のときまで見送りとなった。第四王子の王子妃なのに妙だとは思ったが……。
「まあ、私には関係のないことだわ。書庫の場所も教えてもらったわけだし、去年の夏の記録でも漁りましょう」
「玲明様、言い方が盗賊です。それにしても、やっぱり颯秀殿下はお美しいですねえ」
少女のような、どこかうっとりとした横顔で、桂華は扉を見つめる。
「あのお顔に日々口説かれるなんて、やっぱり私は羨ましいです。玲明様、役得ですよ」
「そんなわけないわよ。……あっ、これじんましんよ! あのぼんくら王子、やっぱり呪いをかけてに来てるんじゃないの?」
「そう悪態を吐くものではありませんよ、玲明様。ちなみにそれは虫刺されですのでじんましんは出ておりません」
しかし……。玲明は、颯秀に抱き寄せられたときのことを思い出す。いくら男女差があるとはいえ、玲明の手を掴んだままあんなに軽々と、そして自然に腰を抱き寄せることができるものだろうか。戦績もろくにないし、現に本人も戦は後方で見学しているなんて笑っているし、到底軍人としても優秀とは思えないのに……。
「……多分女遊びには慣れてるのね。ヤなヤツだわ」
頭に浮かんだ締まりのない顔が途端に余裕の笑みに思え、口付けられた手の甲をごしごしと手近な布で擦った。